ツキアカリ

令狐冲三

上の巻

 不眠症というわけではないが、夜中に目が覚めて朝まで眠れなくなることがよくある。


 寝不足のまま仕事に出ると、眠気を蹴飛ばしながらただ働き、終わればまっすぐ家路を急いだ。


 大抵は定時に引けるのだが、満員電車に2時間も揺られて家にたどり着く頃にはヘトヘトになっている。


「お帰りなさい」


 そんな私を妻はそう言って迎え入れる。


 さして嬉しそうでもないその顔を見ると、疲労はさらに重くのしかかった。


 朝食を摂らないので、休日以外彼女と食事を共にするのは夜食だけだった。


 食事は無言のうちに始まり、終わる。


 味気ない一時に違いないが、私は満腹感を求め、いつも夢中で箸を運んだ。


 妻は妻で、きちんと自分のペースを守って食事を進める。


 彼女としては私が常にすべて残さずたいらげるのに一応満足しているらしく、食事の時だけは妙に上機嫌だった。


 私が満腹感を求めるのは、ただ睡魔を欲するからにすぎず、料理がうまいからでもなければ腹が減っているからでもないのだが、むろん妻の知る由もない。


 アルコールを受け付けない身体は、安らかな眠りを得るためそれなりの疲労を要求する。


 私は常に寝床へ入るまでに100%体力を使い切るべく心がけた。


 うまくすれば、それで翌朝までぐっすり眠れる夜もあったのだが、うまくいかないことも多い。


 そんな夜、私は妻に助けを求めるのだった。


 私にとって妻の肉体は、疲労とともに安らかな眠りをもたらしてくれる都合の良い道具にすぎなかった。


 どこか芝居がかった喘ぎ声を聞きながら目論みどおりの疲労感を得、わびしい気分のまま暗澹とした眠りに落ちる。


 これが二度と目覚めることのない永遠の眠りならどんなにいいだろうと思いながら。


 だが、その夜は妻をしっかり抱いたにも関わらず、ふと目が覚めてしまった。


 慌てて意識を遠ざけようと躍起になるも、もう駄目だった。


 眠ろうと意識するほどに、睡眠から遠ざかる自分を自覚してしまう。


 妻は軽いいびきを立てていた。


 その寝顔をしばし眺めていたが、ふと、


「何でこんな女と……」という想いがこみ上げ、耳鳴りとともに焦りにも似た衝動にかられた。


 早く離れろ、と。


 寝床を抜け出して服を着替え、外套を着込んだ。


 コソ泥のように玄関のドアを開け、家の外へ出た瞬間、俺は何をしようとしているのだろうとふと疑問を抱いたが、すぐどうでもよくなった。


 私はただそこから離れたい一心で、宵闇の中を歩き出した。


 もちろん当てなどない。


 寒さのせいで、吐く息がやけに白かった。


 深夜の舗道をふらふら歩いて行くと、交差点の信号機が赤く点滅していた。


 その向こうに静まり返った公園が見える。


 日中はママさんや子供たちの憩いの場になっているが、私はそこが真夜中になってどう姿を変えているか覗き見たい衝動にかられ、歩調を速めた。


 ほの白い月灯りと深い暗闇の中で、うっそうと茂った植え込みが侵入者を拒んでいるかに思われたが、私は吸い込まれるように公園の中へ入って行った。


 ブランコの脇を抜け、すべり台を横目で見ながら歩き続ける。


 人魚姫のブロンズ像の前で立ち止まり、鱗にあたる部分のひんやりした感触を楽しんでから、そばの機関車に乗り込んだ。


 この公園には廃車になったSLと路面電車の車両が仲良く並んでいて、昼間は子供たちの恰好の遊び場となっている。


 私は冷たく堅固な鉄製の運転席へ腰を下ろし、今は固定されているが、かつては作動していたはずの運転用のレバー数本を交互に握り、ゲーム感覚で押したり引いたりして無邪気にはしゃいでいた。


「しゅっしゅっしゅ~!」


 わざと口から白い息を吐き出し、それを蒸気に見立てて一人ほくそえんだ。


 ところが、そんな子供じみた動作を何度か繰り返すうち、不意に何か異様に大きな白い塊が視界の隅をよぎった。


 私はこの世ならぬものを見てしまった気がして、吐き出そうとした息をかえって呑み込んでしまった。

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