#7

「……!」


 反射的にエディリーンはベアトリクスとユーディトの前に出て、障壁を展開して身を守った。淡く光る見えない壁に当たって砕けた水飛沫しぶきが、ばたばたと落ちて地面に染みを作る。


 ユーディトが、エディリーンが今しがた呪文の詠唱無しで術を行使したことに気が付いたかどうかはわからない。咄嗟のこととはいえ、あまりこの力を人に見せたくはなかったのだが、仕方がない。

 だが、そんなことを気にする暇はなかった。圧倒的な敵意が、三人を囲むように膨れ上がった。ユーディトは身をすくませ、エディリーンとベアトリクスは油断なく周囲を見回す。――来る。


 ユーディトの前方、地面から小ぶりな岩がいくつも浮き上がり、無防備な彼女めがけて降り注いだ。

 どのみち、呪文詠唱をしていたのでは、この状況に対応できない。恐怖に固まってしまった彼女の前に、すんでのところでエディリーンが立ちはだかり、障壁を展開して身を守ろうとする。だが、


「――!?」


 エディリーンの術は発動せず、咄嗟にユーディトを地面に押し倒し、自身はその上に覆い被さる。左腕で顔を庇ったが、半身に容赦なく衝撃がくる。


「エディリーン様!?」


 ユーディトが悲鳴のような声を上げて、エディリーンを助け起こそうとする。エディリーンは小さく呻きながら、何とか上半身を起こした。


「……怪我は?」


 横目でユーディトの様子を確かめつつ、周囲への警戒を強める。

 マナを操れなかった。何故だ。


「わたしは平気です。エディリーン様こそ……!」

「これくらいなんでもない」


 じわりと痺れるように残る痛みは打撲だろう。身体の左側、腕や足に複数。服があちこち汚れ、肌が露出していた手には擦り傷ができて血が滲んでいた。だが、骨に異常はない。まだ動ける。


 敵の姿は見えない。だが、気配だけがそこら中に満ちていて、こちらを狙っていることだけはわかる。

 エディリーンは、手に滲んだ血を舐めて立ち上がった。ユーディトは腰が抜けてしまったのか、へたり込んでいる。

 まずいな、とベアトリクスが呟いたのが聞こえた。彼女も魔術を編もうと試みたようだが、術に必要なマナは収束せず、空を掴むように霧散していく。


「こいつはこの地一帯のマナそのものだ。主導権は全てあちらにある。こちらは術の発動すらできない」


 人は、世界に満ちるマナを借りて、魔術を行使しているにすぎない。マナそのものである精霊に主導権を握られたら、成す術がない。


 けれど、同じ精霊なら。


 エディリーンは、先日の戦いの際に契約を結んだ精霊、アルティールに意識を向けた。かの精霊が宿った魔術書は、この場にも持ってきていた。荷物になるから置いて行こうかとも思ったが、持ってきて正解だった。


 白銀の天馬を呼び出そうと、魔術書に力を込める。本全体が、淡い光を纏っていく。それと同時に、水面が再び大きく膨れ上がった。目に見えて水嵩が減るくらいの質量を持ったそれは、彼女たちに――否、エディリーンに狙いを定めた。


 敵意が自分にだけ集中していることに気が付いたエディリーンは、ユーディトとベアトリクスから離れなければと、地面を蹴った。次の瞬間、水流がエディリーンの身体を包み込んだ。


 息ができない。水の塊は、エディリーンを閉じ込めて、地面から少し浮かんでいた。目を開くと、ベアトリクスをユーディトが必死の形相でこちらに手を伸ばそうとしているのが見て取れた。何か叫んでいるようだが、聞こえなかった。


 だが、その手は表面に触れるとぬるりと押し戻され、エディリーンに届くことはない。こちらから手を伸ばそうとしても、腕が思うように動かなかった。力が入らないのか、周囲の水が重くまとわりついてこちらの動きを制限しているのか、わからない。剣を抜くこともできないが、抜けたとしてもこの状況を打破できるかは怪しい。

 魔術書は地面に投げ出されていた。濡れて使い物にならなくなることを避けられたのは、幸いだった。しかし、これではアルティールを呼び出すことも難しい。


 息苦しさが増して、思考が焦りに支配されていく。どうすればいい。


 その時、全身にぞわりと嫌な感覚が走った。マナを奪われている。そう認識したのを最後に、急速に力が抜けて、意識が薄れていく。


 そして、身体の奥、意識の奥底で何かがひび割れて、弾けたような気がした。

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