サメだらけの水槽の中でも、しぶとく生き続けている一匹の金魚の話。

 時が流れるのは遅いようで早い。


 現在では『武陣会ブジンカイ事件じけん』と呼ばれているあの大抗争から、あっという間に一週間とちょっとが経った、水曜日の昼休み。


「ってぇな! 気ぃつけろテメェこのボ————はっ!? し、失礼しましたっス!! !!」


「っしたーっ!! どうぞお通りくださいっス!!」


 校舎五階の廊下を歩いている途中にぶつかったヌマ高男子が、僕の顔を見た途端に罵声を引っ込め、一気に態度をへりくだらせた。


 僕は答えず、ただポーカーフェイスで通り過ぎる。


 持参してきた菓子パンを昼食として食べるべく、屋上へ到着。


 そこにいる加藤かとういつき樺山孝治かばやまこうじ——いっちゃんとカバちゃんの元へ近づき、周囲に人がいないことを確認した瞬間、僕はと力を抜いた。


「はぁぁぁ…………まじ疲れる」 


「ははっ。お前もうすっかり有名人だもんなぁ。——月波幸人つきなみゆきとさんよ」


「いや、だからね、僕だけの力で止めたんじゃないから! それに「たった一人で止めた」って言い方、捉え方によっては大いなる誤解を招く表現だよ!」


「いいじゃん。周りの奴がその「大いなる誤解」をしてくれているお陰で、お前の立場がさらに強くなっただろ?」


 そうなのだ。


 僕だけの力ではないが、僕が抗争場所に自分の足で赴いて、抗争を止めたのは確かなのだ。


 問題は、その話が噂として広まるうちにオヒレが付きまくって、その「抗争の止め方」の部分がことだ。


 実際は録音データを流して補足説明するだけという地味くさい「止め方」だったが、噂が広まっていくうちにその事実がすでに原形を失い、「この戦争を終わらせに来た!! ドン!!」みたいに現れて、両陣営のリーダーを殴り倒してチームごと黙らせた……みたいな「止め方」にされてしまっているのだ。


 その歪んだ噂は、ヤンキーどもに驚くほどすんなり信じられてしまったようで、僕の名前がその業界で有名になってしまったのだ。


 結果的に僕のヌマ高での地位と安全が強まったことは嬉しい誤算と言えるかもしれないが、その分、強者のように振る舞ってハッタリをきかせないといけなくなったのだ。そうしないと、ナメられるからだ。


 正直、強者のフリなんて僕のガラじゃないので、疲れるというのが正直な感想だ。でも、これも僕の安全のためだ。我慢しよう。


「はっ、ざけんじゃねぇぞ。俺は幸人の手下その二だとよ。手下になった覚えはねぇんだよボケ」


 屋上の柵に背を預けて座っていたカバちゃんがそう悪態をつく。


 彼の言う通り、カバちゃんはいっちゃんとともに、「僕の手下」として周囲に認知されてしまっているのだ。


 いっちゃんはともかく、樺山孝治を手下にしているという事実(ではない)が、僕の名声をさらに高める結果となっていた。


「まぁまぁ。それは向こうが勝手に思ってるだけだから。大丈夫だよ、僕はちゃんと友達だと思ってるから」


「…………ふん」


 カバちゃんは鼻を鳴らし、黙った。


「……へぇ」


 それを、いっちゃんはニヤニヤして見ていた。


「んだよテメェ。何ニヤけヅラこいてんだ、気持ち悪ぃな」


「いや、友達って言われて否定しないのなー、ってさ」


「殴るぞ」


「ってかさー、いつの間にか呼び方も「幸人」になってんじゃん。じゃあもう友達じゃね? 大親友」


「……んだよテメェ、そんなに殴り合いがしてぇのか? 俺はいいんだぞ別に?」


「うわ、こっわ。助けてー」


 いっちゃんは嘘っぽい口調で言いながら、僕の後ろに隠れる。


 僕は苦笑してから、ふと思ったことを尋ねた。


「そういえば……今日も来てないみたいだね。王龍俊おうたつとし


「当分顔見せねぇだろ。『自転車チャリ乙徒オット』と『邪威暗屠ジャイアント』はまだ武陣会の連中にだからな。奴がヌマ高の一年だって情報くらい、奴らはもうすでにつかんでるはずだ。それを考えると、学校にノコノコ来るのは自殺行為に等しい。ほとぼりが覚めるまでは不登校児でい続けるはずだ」


「単位とか大丈夫かな……」


「ヌマ高生らしくねぇ言葉だな。ここじゃ留年ダブりなんざ珍しくもなんともねぇだろ。俺らのクラスにもが何人かいるんだぞ?」


「えぇー」


 相変わらず一般常識の枠外にある底辺高、沼黒ぬまくろ高校。


「お——い!! ゆ——きとく————ん!!」


 突然、下から女の人の声が響いてきた。


 僕の名を呼ぶその声に反応して地上を見下ろすと、校門前の敷地内に一台のバイクが停まっていた。そのかたわらで、ヘルメットを脱いだ桔梗ききょうさんが嬉々として手を振っていた。


「おいおい、あのひと、学校フケてきたのか?」


 いっちゃんのその発言を聞きつつ、僕は柵から身を乗り出し、眼下の桔梗さんへ向けて大きな声を張り上げた。


「ききょ——さ————ん!! 学校ど——したの——!?」


「フケてきた————!!」


「だいじょ——ぶなの————!?」


「だいじょ——ぶ——!! ウチ成績トップだし————!! 計画的にサボってるし————!! それよりさ——!! 例のクリームソーダの売ってる自販機って、どこ————!?」


「昇降口にあります————!!」


「ありがと————!!」


 桔梗さんはそう言うと、バイクを停め、昇降口の方向へと歩いていった。


「……平然と他校の敷地にバイクで入ってきてんぞ、あのねえさん」


「そこはまぁ、ヌマ高だからでしょ。カバちゃん」


 もはや、この学校で起こるたいていの非常識は、「ヌマ高だから」の一言で納得できる気がしてきた。


 これからも、僕はこの学校の非常識っぷりに驚かされることだろう。


 ——正直、入学当初は、こんな風に心地良い学校生活を送れる未来が全く想像できなかった。


 「なんとかなる」と必死に誤魔化しても、心のどこかで常に不安があった。


 今でもまだ不安はある。


 でも、「この本」が僕の手元にある限り、きっと「なんとかなる」だろう。

 

 僕は菓子パンを頬張りながら、「この本」を今日も開く。




 『五輪書ごりんのしょ』を。


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もしも県内一の底辺不良高校に入学してしまった「普通の少年」が宮本武蔵の『五輪書』を読んだら 新免ムニムニ斎筆達 @ohigemawari

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