ふちどり
深雪 了
ふちどり
昭和十七年、日本国は大変大きな戦争の
近所の家の男子が次々と徴兵にとられていくのを、わたしは他人事ではない心持ちで目にしていました。わたしにも夫があったからです。
わたしと征二さんは昭和十四年に祝言をあげたばかりでした。
きっかけは見合いでしたが、夫婦となった私達は互いを支え合い、ささやかながらも幸せな生活を送っていました。わたしは征二さんを愛していましたし、おそらく征二さんもそうであったと思います。
しかしその生活は長くは続きませんでした。
昭和十七年の秋、とうとう征二さんへも軍からの招集がかかったのです。
当然わたしは行かないでほしいと征二さんに泣きつきました。
しかしひと一倍使命感が強いあの方はわたしを抱きしめた後、わたしと向き合い、両肩に手を掛けながらこう言いました。
「皆がお国の為に必死に戦っているんだ。おれだけこそこそと逃げ隠れする訳にはいかない。大丈夫、必ず戦果を上げて無事に帰って来るから」
最後の一言はわたしをなだめるための言い訳にしか聞こえませんでした。戦地に赴く以上、命の保証があるわけではないのですから。
私はその後も必死で止めましたが、征二さんの気持ちは変わりませんでした。戦場に出て、少しでもお国に貢献しようという気概に満ちていました。
出立の日は、わたしは涙をこらえて見送りました。招集がかかった時は散々泣いたわたしでしたけれども、しばらく会えなくなるのですから、そんな時くらいはしゃんとして見送ろうと思ったのです。私たちは一分ほど抱擁を交わし、接吻を交わすと、別れを惜しみました。
征二さんはわたしを見つめると、「行って参ります」と告げ、わたしに背中を向け歩いて行きました。
征二さんが見えなくなるまで見送ったわたしは家の中に入ると涙ぐみました。
これからはいつ終わるともしれない孤独と戦い続けなければいけないのです。
征二さんが家から発ち、一人の生活になったわたしは、家から少し離れたところにある小道をよく一人で散策しました。
そこはかつて二人でよく歩いた場所で、風情のある家が並んでいました。古いけれどどこか上品なそれらを見ているだけでも楽しかったですし、道の脇には緑の生繁っているところもありました。
少し前までは、二人で他愛もない話をしながら、よくその小道を散歩したものでした。
わたしはその記憶に浸りながら家並をしずしずと歩きました。そんな時は必ず着物の胸の部分に櫛を忍ばせていました。
その櫛は結婚して間もなく、征二さんから贈られたものでした。
茶色くて光沢があり、牡丹の花の模様をあしらったその櫛をわたしは大層気に入っていました。
ですから征二さんが居なくなってからは、それをずっと身につけて持ち歩いていました。
征二さんが居ない寂しさと、無事に戻ってくるかという不安を、わたしはこのようにして日々紛らわせていました。自分はいかに無力であるのかと虚しく思わない日はありませんでした。
征二さんが戦地に赴いてからふた月程経った日でした。
秋が深まってきて、家の中にいても肌寒さを感じながらわたしは居間で針仕事をしていました。寒さのせいで手が動かしづらく、普段よりもいくぶん針を動かすのに手間取っていました。
その時家の戸を叩く音がしました。近所の人だろうかと思ったわたしが返事をしてそちらに向かい、戸を横に引くと、そこには軍の制服を着た青年が立っていました。
青年がわたしに挨拶をし、わたしが戸惑いつつも会釈をすると、彼は一瞬なにか躊躇うような仕草をしました。
しかしすぐに鞄から四つに折り畳んだ和紙を取り出し、わたしに差し出しました。
わたしはいわれもない不安が襲ってくるのを感じましたが、おそるおそるその紙を受け取り、中身をあらためました。
紙には名前や日付といった色々な文字が書いてありましたが、内容は字を読むまでもありませんでした。
薄い和紙でできたその紙は文字の周りを黒い四角で囲ってありました。黒い線。黒いふちどり。—それは戦死報告でした。
わたしは視界が真っ暗になり、立っていられなくなりました。家の戸に掴まって何とか体を支えていましたが、少しでも力を抜いたら崩れ落ちてしまいそうでした。
そんなわたしを見て青年は自らの軍帽を取り深々と頭を下げました。彼は何かを言っていましたが、彼の言葉はいっさいわたしの耳に入ってきませんでした。
青年が去った後、私は戸を閉めるのもそこそこに、
征二さんを返してください。わたしのたった一人の夫の、征二さんをかえしてください。
何がお国のためですか。どんな理由があったって、かけがえのない命を捧げてまで尽くす必要がどこにありましょうか。命はどんなものよりも尊ぶべきもののはずです。それがこんな紙きれに変わって帰って来るなんて、あんまりではありませんか。
わたしは征二さんとの最後の別れの時を思い出しました。
征二さんの発した「行って参ります」という言葉——。
それは戦時中によく使われていた別れの言葉で、「行って来ます」というのが「行って帰って来ます」という意味だったのに対し、「行って参ります」というのは帰還を約束できない時に使う言葉だったのです。
せめて嘘でも、「行って来ます」と言ってほしかった。まやかしでもいいから、表面上だけでもわたしを安心させてほしかった。彼の言葉が真実になるなんて、あまりにも悲惨な結末ではないですか。
気が付くといつの間にか三和土にはわたしの涙のあとが染みていました。嗚咽はもう落ち着いていましたが、そのかわりにわたしは呆然と宙に視線を漂わせていました。
征二さんが亡き人になってからふた月が経ちました。
戦争が始まってからは大々的な正月祝いは自粛されていましたが、それでも周囲の家は普段より豪華な料理を作ったり親戚が集まったりして、戦時中なりに年明けを祝っているようでした。
わたしはと言うと、一緒に正月を祝う相手もいませんから、まったくいつも通りの生活をしていました。
ある昼下がり、わたしは家の外に降る大雪を眺めていました。その雪はとても大粒で、牡丹雪とも呼べる大きさでした。
わたしはふと思い立ち、木の箪笥からあの櫛を取り出しました。
そして櫛を自分の前にかざしながら、櫛に描かれている牡丹の花と雪とを見比べました。
それらはどちらも美しく、また穏やかな気持ちになれる雰囲気を持っていました。
まるで征二さんが見守っていてくれているようだ。
わたしは心の中でそう呟きながら、手にしていた櫛を両手で胸に当て、そのまま抱き締めるように櫛を包み込みました。
ふちどり 深雪 了 @ryo_naoi
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