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(あらすじ:協会本部の地下一階に集まった絵瑠と真木と三枝。そこに宮部と上田ひろ子も現れる。やがて絵瑠と真木の戦闘訓練が始まるが……)
*
昼休みが終わり、1時になると、地下一階に絵瑠と真木が別々に降りてきた。
そこは、20メートル四方のコンクリートに囲まれた殺風景な空間で、床には人工芝が敷いてあるだけだった。
早めに三枝と共にそこに来ていた栄治が、絵瑠の方に近寄っていくと、絵瑠はしゃがんで目線の高さを同じくして、
「栄治さん、私は栄治さんには気を遣わないですから、栄治さんも私に気を遣わなくていいですよ」と言った。
「なんだよ急に」と栄治は一瞬何だかわからなかったが、すぐに今朝絵瑠の夢の中に入ったことを言っているのだと気付いて、「……ああ、わかった。セイムにな」
「はい、セイム」
そこに遅れて上田ひろ子が降りてきた。
午前中に見たスーツ姿ではなく、緑色のジャージに着替えていた。厳し気な表情に似合わない格好がおかしかったが、誰もそれを指摘しようとはしない。そして、上田の背後からもう一人、誰かが現われた。それは宮部だった。
宮部は絵瑠と三枝に気づくと、軽く手を振って笑っていた。
「では、これから戦闘訓練を始める」
上田の合図とともに、絵瑠と真木が前に出て、部屋の真ん中あたりで向かい合った。
真木の足元には小振りな犬がいた。犬種で言えばチワワが一番近いだろう。おとなしそうにちょこちょこと足を動かしていた。
「なあ、俺たちは麒麟と戦うわけだろ。だったらどうして人間との戦闘訓練をしないといけないんだよ」
栄治は問うたが、その言葉に誰も答えなかった。そのとき、真木がポケットの中から飴玉のようなものを取り出し、口の中に放り込むのが見えた。しかしそれに疑問を差しはさむ余地もなく、問いが重苦しい空気の中にすっかり消えてしまったとき、上田が、
「始め」と言った。
まだ作戦考えてないんだけど! と栄治は思った。それと同時に、自分の体が覚醒状態になって、意志とは関係なしに動き出していた。真木に向かって一直線に走っていく。
一瞬遅れて、真木のキリンジが灰色の毛色をした大きな犬に変わった。あるいはオオカミと言った方がいいかもしれない。
オオカミは栄治と真木との間に立ちふさがった。
(どうする……?)
絵瑠の思考が栄治の中に流れ込んできて、栄治の判断を待たず、直接行動を支配していることが、そのときになってやっと理解できた。しかし、それにどの程度身をゆだねたらいいのか、わからない。
そのとき、左側に〈壁〉が見えた。絵瑠が張ったのだとすぐにわかった。その壁に向かって飛んで、壁を蹴り、今度は壁の反対側に飛んでいって、オオカミの真上を横切り、真木の側面に入った。
オオカミの反応、動きがひどく遅く見えた。栄治を目で追うのがやっとで、動作がまったくついてこない。
栄治はオオカミを無視して、そのまま真木へと突進していった。しかし、栄治の牙が真木の左腕に食らいつくかと思った瞬間、離れていたオオカミが白い光と化してこちらに飛んできたかと思うと、真木の両手の中で日本刀に成り変わった。そして栄治の牙を刀の刃で受け止めると、真木は刃を口の中に滑り込ませ、胴体の方へと切り込もうしてきた。
前足で真木の腹部を蹴りはなす形でその刃を逃れると、栄治は地に足をつけて、体勢を立て直した。
後ろに突き飛ばされた真木も、両足で勢いを殺しきると、刀を軽く中段に構えた。そして、すこしずつ剣先を持ち上げていき、八相に構えた。刀身が、不自然にぎらぎらと輝いており、栄治の目をまぶしくさせた。
(だが、それだと結局二対一だぞ)
栄治は真木の右側にまわりこむように、ゆっくりと横歩きをしていった。それに合わせて、真木は体を回し、栄治を正面にとらえつづける。
90度ほど回りこむと、真木は絵瑠と栄治に挟まれるかたちになる。しかし、真木は依然として栄治にだけ注意を向けているように見える。まるで絵瑠なんか気にしないとでも言うかのようだ。
そのとき、絵瑠が階段状に作った壁を駆け上がった。そして、上からたたき下ろすように真木の背後から殴りかかった。音もなく近づいてきたその攻撃を、真木は前方に転がりながら避ける。そして、一回転して膝をつくと、すぐさま右手を大きく振って背後に切りかかった。
ガキン、という音とともに刀が弾きかえされた。絵瑠の壁にぶつかったのだ。しかし真木は立ち上がると、すぐに返し刀で絵瑠の右側に切りかかる。絵瑠が刀の軌道に壁を張るが、しかしそれを予期していたのか、真木は壁にぶつかる前に刀を振り上げて、ふたたび別の角度、軌道から絵瑠を襲ってくる。
それを、栄治はただ見ているだけだった。真木が相手を殺す気で戦っているということに気づき、その殺気に圧倒されていたのだ。
絵瑠は後ろに退きながらなんとか刃をかわしていた。しかし、攻撃は次第にすばやく、攻撃的になっていき、日本刀を振るっているとは思えないほど軽快な動きだった。
その動きについについて行けなくなったか、とうとう絵瑠の首の肌に切れ込みが入った。血が肌の上を流れていった。
絵瑠はとっさに自分と真木との間に広い壁を張った。しかし、真木はその壁と自分との間に足場となる結界を張ると、それを踏み台にして壁を難なく飛び越えた。そして流れるように、絵瑠に向かって刃を突き立てながら、飛び降りる。
絵瑠は背後に飛び退って、それを避けようとした。しかしそのとき、背中が壁に当たるのを感じた。
真木の作った壁か、と考えている暇もなく、上から迫ってくる刃を、全身を無理に捻りながらなんとか避けようとする。しかし、刀の切っ先がわずかに動いて、わき腹を狙って滑りこんできた。
栄治は、絵瑠が追いつめられるのを見て、はじめて自分がこれまでただ見守っていただけだったことに気づいた。絵瑠の指示がないのに、作戦がないのに、動いてはいけない、と勝手に思っていた。
刃が絵瑠のわき腹に切れ込みを入れるのを見たとき、やっと栄治は走りだしていた。刃は深く服の中に入ったあと、布を貫き、その剣先は血で濡れていた。真木は地面に降り立つと同時に、刀を抜き、膝をついて倒れ掛かった絵瑠にもう一太刀加えようとする。
栄治はその背中に飛びかかっていった。完全に絵瑠に集中している真木のうなじのあたりに噛みつこうとする。
しかし、急に真木は栄治の方を振り返ると、向かってくる栄治に迷わず突きを繰りだした。栄治は空中で方向を変えることもできず、ただ慣性に任せて刃に突き刺さりにいくかたちになった。
胸のあたりから串刺しにされると思った――しかしそのとき、栄治の体が元の小さい猫に戻っていった。絵瑠が魔力を絶ったのだ。
体が小さくなったため、刃は突き刺さることなく、栄治のすぐ横を通り過ぎていった。しかし、真木は最後に、刀を栄治に押し付けながら振り回し、栄治の腹部に切れ込みを入れると同時に地面に叩きつけた。
栄治は腹部の痛みと背中の痛みを同時に感じた。温かくぬるぬるした液体が自分のまわりに広がっていくのがわかった。腹を見ると、皮膚がぱっくり割れて、そこから血がどくどくとあふれ出していた。
「終わりだ。真木の勝ちだな」と落ち着いた声で上田が言った。そして絵瑠に近付きながら「怪我は大丈夫か?」
絵瑠は膝をついた状態でわき腹を押さえていた。血は栄治ほどは出ていないらしいが、苦悶の表情を浮かべている。眉の間に深いしわが二筋走っており、それが小刻みに震えていた。
絵瑠は上田に抱き起されると、階段を上がって階上へと消えた。
栄治は体を横にして、絵瑠の後姿を見送った。なぜ自分は助け起こされないのかと半ば憤慨しながら。
「おい、俺の手当ても誰かしてくれよ」と栄治は言うが、三枝も宮部も真木も空しくこちらを見つめているだけだった。
「あら、ほんとうにしゃべるようね」と真木は独り言のように言った。
依然として血は流れ続けていた。
「俺が死んじまってもいいのかよ! 俺は大事なサンプルだろ」
見かねた宮部が近づいてきて「お前はキリンジだ。ただの猫じゃない。そう簡単に死ぬもんかよ。その程度の傷なら唾をつけとけば治る」
「だからって気遣いってもんがあるんじゃねえのか」
「大丈夫か? って言えばいいのか」
「大丈夫なわけないだろ。こっちは始めて聞かされたんだぞ」
「こっちだってすべてを一から教えている暇なんてない。見ろ。もう血が止まっているだろ」
見ると、傷口がさっきよりも閉じており、血も固まっていた。そして何よりも驚いたのが、周囲に流れ出し、溜まりを作っていたはずの血が蒸発したかのように消えていたことだった。
「立ち上がれよ」と宮部は言った。「もうたいして痛くもないんだろ」
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