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(あらすじ:戦闘がはじまる。)
*
「行きますか」
三枝が突然耳元でささやいたので、栄治はびっくりして振り返った。そのとき三枝はちょうどポケットの中からキャンディーのようなものを取り出して、包み紙を剥いで口に放り込んでいた。それを口の中でころころと転がしている。
それはなんだ? と訊こうとしたが、そんな雰囲気ではなかった。三枝の表情は真剣そのものだった。
二人は茂みの中に身を隠し、遠い風上にいる一つの影に注意を向けていた。100メートル近くも離れていて、なおかつ日も沈んでしまったので姿までは見えないが、札の力によってその存在がわかる。烏は宮部の肩の上に乗っているのだろう。
「ちなみに宮部先生の烏の名前はイチワです。ややこしいやろ?」
その言葉に応えず、栄治は絵瑠の居場所を探ると、開戦が近いことを悟った。
三枝は音も立てずに茂みの中を歩いていく。以前、絵瑠が森の中に入ってきたときのそれと比較すると、ほとんど無音と言っていいくらいのものだった。これだけ近くにいるのに、布が草に触れる渺たる音しか、耳に触らない。
水が高いところから落ちて行く音が、目線の先のどこかから聞こえてきた。進むごとに音の出どころがはっきりとしてくる。宮部のいるところから西の位置に滝があるのだろう。
「そろそろ離れましょか」と三枝は言う。栄治の位置もイチワの札から悟られているからだ。
三枝は音も立てずに暗闇の中に消えていった。栄治はその場から動かず、じっとしている。宮部がこちらを強く警戒しているのが、直感的にわかった。その直後、イチワが、宮部の心理に影響され、緊張し始めたのか、首をキョロキョロとせわしなく回していた。そしてときどき、栄治の方を一秒にも満たない時間だが見つめてきた。そのたびに栄治は息を止めた。
三枝はもう所定の位置についただろう。あとは、絵瑠のタイミングを待つだけだった。
それまで歩いていた宮部が立ち止まり、イチワが飛び上がり、宮部の頭の上で旋回していた。
あたりは暗闇と静寂に包まれている。その中に、ザザザッと草を分ける音が、あまりにも大胆に響き渡った。そのとき、栄治の体に絵瑠から魔力が流れ込んできて、一気に覚醒状態になった。イチワと宮部が一気にこちらに集中を向けるのがわかった。
それと同時に、宮部を中心とした空間が一気に光につつまれた。暗闇が森の中から一瞬にして消え去り、辺りが昼間のような明るさになった。遠くから眺めていた栄治にとっても目を細めなければならないほどだった。
やがて、光が消え、宮部の姿が見えるようになると、その傍らに寄り添うようにしている絵瑠の姿があった。いや、宮部を羽交い絞めにしているのだ。
それを合図にして栄治が駆け出した。
宮部は絵瑠のわき腹に肘を打ち込み、引きはがした。
それとほぼ同時に、覚醒した栄治が宮部の体に飛び込んでくる。
すかさず壁を張って栄治を弾きかえすと、遠巻きから光球を打ち込んでくる絵瑠の方にも壁を張る。自身の北東方面と南東方面を壁でふさいでしまった宮部は、必然、西側へと逃げていく。
絵瑠と栄治は、そのあとを挟むように追いながら攻撃をつづけ、宮部に壁を張らせていく。
と、その先に三枝が待ち構えているのが見えた。直進していけば、彼に突進することになるだろう。
「先生、どんとこいや」
しかし、宮部は速度を落とすことなく、地面を強く蹴り、高くジャンプした。そして、何もない空中を踏みしめて、もう一度ジャンプすると、頭上で飛んでいたイチワを巨大化させ、その足に掴まった。
「じゃあな、俺が先に立川についたらお前らの負けだからな」
宮部は曇天の夜空に消えていこうとしていた。しかし、宮部の足のあたりから、ホソイトが伸びてきて、三枝の腕に巻き付いた。三枝は木の根元で足を踏ん張って、全力でホソイトを引っ張った。イチワがぐらりとバランスを崩し、高度を下げた。そこに、絵瑠の光球が飛んでくる。とっさに目の前に壁を張って、それをふせぐが、その反対側から、栄治がイチワに飛びかかっていた。
「くそ」と言い、宮部はイチワの足から手を離した。しかし、空中に投げ出されるかたちで落下していくのを、三枝が下で待ち構えている。その刹那、イチワが、栄治ともみ合いになりながら森の中に落ちていくのが目に入ってきた。
にぶい音を立て地面に落ちた宮部に、三枝が飛びかかっていくと、すぐに頭を両手で包み込むように持ち、
「動かんといてくださいよ」と叫ぶ。
と同時に、宮部はその場で硬直して動かなくなった。そこに遅れて絵瑠が駆け付けてきた。
「絵瑠はん、はやいとこ札取って」
そう言うよりも早く絵瑠が宮部の胸をまさぐる。しかし、札らしきものはない。
「バカがよ」と宮部が言った。
そのとき、絵瑠と三枝の腹部に、ものすごい速さで何かがぶつかってきた。それは小さい壁だった。二人は、数メートル吹き飛ばされたあと、地面を転がり、木に当たってやっと止まることができた。
「最初に見せたところにしまっておくわけがないだろ」
宮部は疲弊したようすを見せながらも、なんとか立ち上がった。
三人は、小さな公園ほどの開けた一画にいた。周囲の森は、どの方向を向いても、同じような深さに見えた。栄治とイチワの気配はない。
宮部はその空き地を、二人から遠ざかるように歩いていく。
「なんでやねん」、首を絞められたような声で三枝が言った。「まあええです。イチワに持たせてるんやったら、栄治はんの方が強いですからね」
「大切なものをキリンジに持たせるのは二流のすることだ」、しかし宮部もビルの二階の高さから落ちたダメージがこたえるらしく、呼吸を整えながらゆっくりと言った。「せっかくだから教えてやるよ。俺はこういうとき、大切なものはパンツの中にしまう!」
絵瑠は地面に転がって悶絶していた。油断しているところのみぞおちにもろに食らったのだろう。宮部の話も頭に入っているかわからない。
「……はあん。いらん情報ありがとございます」
「さあ、つづけるか? お前ら二人と俺一人だったら、俺の方が上だぞ」
「何ゆうてるんです。こっちには蛇が一匹いるんですよ」
すると、宮部の服の中でもぞもぞと何かがうごめきだした。宮部は襟首から手をつっこむと、服の中に紛れていたホソイトを難なく引っ張り出した。
「わざわざ場所を教えてくれてありがとうございます」と三枝。
宮部はホソイトの尻尾と頭を捕まえた。その瞬間、口の中から札が飛び出して、誰もいない地面の上に転がった。
だっと三枝が札に向かって駆けだした。それを見て、少し遅れて宮部が走りだす。札までの距離は、宮部の方が短かった。三枝よりも数歩分はやく駆け寄った宮部は、ヘッドスライディングよろしく、札に飛び込んでいった。
札に手が届いたかと思ったそのとき、札と地面が靄のように消えていき、体が地面をすり抜けて真っ逆さまに落ちていった。その先は、轟々と音を立てつづける滝つぼだった。だが、そんな音はさっきまで聞こえなかったはずだ。
宮部はとっさに三枝のいる方を見た。数メートル上の方で、三枝がこちらを見下ろしながら手を伸ばすわけでもなく笑っている。
(ああ、こいつはなんだかんだいやな奴だな)と思い、落ちていくのを諦めて受け入れると、ホソイトが伸びてきて宮部の腕に巻きついてきた。落下の勢いが殺され、宮部はちゅうぶらりんの状態になった。ホソイトの尾は崖上の木に巻きついて、宮部の体を支えていた。
崖から顔を出して、三枝が言う。「落とされたくなかったら、札を渡してください」
「何だよ、それ」
「駆け引きですよ。それに宮部さんの」
「駆け引きだと? 駆け引きってのはな、相手に不利なようにやるもんなんだよ」
そう言うと、宮部は腕を思いっきり振って、巻き付いていたホソイトをほどいた。それと同時に、三枝の頭をかすめてイチワが飛んできて、崖下に垂直落下していく。
イチワは、宮部がその足をつかむと巨大化し、再浮上しようとする。しかし、畳二枚分ほどもあるその背中に、三枝が飛びこんできた。イチワは何度も大きく羽ばたいたが、その勢いを殺せずに、宮部ともども滝つぼに落ちていった。
同時に水の中に入った宮部と三枝はお互いにもみ合いになりながら、水面に浮かび上がっていく。と、そこに、ホソイトがウミヘビのように泳いできて、宮部の足に絡みつくと、もう一方の尻尾で水底にある大きな石に巻きついた。
三枝は宮部を突き放して、一人水面に上がっていった。
水から顔を出して、水流に流されながらもなんとか川岸にたどり着くと、崖上から、栄治の背中に乗った絵瑠が降りてきた。
ずぶ濡れになった三枝は、砂利の上に膝をついて、苦しそうに息を吐いた。そして今度は深く息を吸って、回復に努めようとしている。
そのそばに寄ってきた絵瑠が、
「宮部さんは?」ときくと、滝つぼの方をゆっくりと指さして、
三枝は「死なない程度に懲らしめてますわ」ときれぎれに言った。
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