11

(村から抜け出した栄治。しかしすぐに絵瑠に追いつかれてしまう。絵瑠と話しているうちに、絵瑠の過去を知ることになる。そこに宮部が現れて……)


   *


 山の中腹で栄治は足を止めた。


 森に入ってから五分は走っていた。途中、疲れが見え始めたと思ったら、変化したはずの体が元に戻り始めていた。歩幅が短くなるにつれ、先ほどまでの疾走感が消えてゆき、やがて下草の生えた地面に座り込んだ。


 体は疲れを感じていたが、大したものではなかった。しばらく休んでいればなくなりそうだ。


 村人の声は聞こえてこなかった。栄治を追ってくる気配はない。


(諦めたのか?)


 さあー、と木の葉の擦れる音が聞こえた。その音はどこまでも透き通っているかに思えた。人の手が加わったものが、一切介在していない。


 どれくらいそこに留まっただろうか。日が大きく西に傾き、夕暮れが近づいているのがわかった。


 ざざっ、と不自然な音がした。栄治は、森に異物が混じったのだと気がついた。この姿になってから耳が良くなっているようだった。


 異物は、できるだけ気配を殺しながら森を歩いてくる。おそらく村人の誰かだろうとわかる。しかし、その足取りが無駄な経路を踏むことなくこちらに近付いてくるのが異様だった。


(居場所が気付かれているのか?)


 ざざ、ざざ。茂みを分ける音をできるだけ立てないように歩いているらしいが、そのことまで含めて筒抜けだった。依然、音は着実に近付いてくる。


 これ以上距離を詰められる前に先に逃げてしまおうと、栄治は山の上の方に向かって走り出した。しかし、あるところで体がぴたりと静止して動かなくなってしまった。念力に捕らえられたかのように。


(……?)


 ざざ。足音がついに栄治の背後まで来たのがわかった。栄治を静止させていた力が和らぎ、首だけ動かせるようになる。栄治は宮部が捕まえにきたのだと思っていた。しかし振り向くと、そこには絵瑠がいた。


「お前か」、栄治は言う。「何だよこれ。テレキネシスか?」


「キリンジとその使い手は繋がっている。居場所もわかるし、私が繋がりを狭めればあなたは動けなくなる」


「へえ、そうなんだ」


 栄治の拘束が解かれ、自由になった。逃げ出すことはないと判断されたのか。絵瑠は草の上に腰を降ろし、栄治と向き合った。その眼はまっすぐで、精悍さを湛えていた。栄治はその眼を直視できなかった。


「ごめんなさい」と絵瑠は言った。「あなたの意識を保ってしまって。……いや、あなたを変えてしまって……? どう謝ったらいいのかよくわからないけど」


「……謝られたってどうにもならねーよ」


「うん。だからお願い、私と一緒に来て」


「なんで俺がお前について行かないといけないんだよ」


 絵瑠がひときわ強い目で栄治を見た。そこには普通の人間が絶対に見せるはずのない奥行きが備わっていた。


「私は、過去を清算して、自由になりたい。そのためにまず、一人前の魔師にならないと」


 絵瑠は立ち上がると、ポンチョを脱ぎ、上半身はノースリーブのシャツとアームカヴァーだけの格好になる。肩に見えている肌が白かった。アームカヴァーがするりと両手を滑りおりていった。両腕があらわになったが、そこには無数の切り傷が刻まれていた。


 それは他者によってつけられた傷ではなかった。規則的に、まるで子どもが柱に自分の身長を刻みつけていったその痕跡のように、連なっていた。リストカットの痕だった。右腕の傷は比較的少なかった。というか、左腕の傷が多すぎるのだ。それはほとんど肘まで達していた。


「これが、私の過去であり、覚悟」と絵瑠は言った。


「い、意味がわからない」


「聞いて。私はこれだけものを抱えてきた。それを、もう清算して、区切りをつけて、自由になりたい」


 絵瑠の言葉には凝縮された感情と記憶が詰まっているように栄治には思えた。しかしそれを知らないものにとっては、理解不能でしかなかった。絵瑠の言わんとすることは伝わらない。けれども、そこから溢れ出る気迫が栄治を圧倒した。


「まあまあ、強引にいったって仕方ないよ」、と場にそぐわない楽観的な声が聞こえた。宮部だった。「話は聞かせてもらった。今度は俺の話を聞け」


 彼は木の陰から体を出して、二人のもとに歩いてきた。絵瑠がびっくりした顔で体を隠したが、宮部は、気にしないとでも言うように軽く手を前に出した。栄治の近くに胡坐をかいて座ると、「ここは話し合いで決めよう」と言った。「それでいいだろ?」


 栄治は無視した。先ほどの怒りがまたふつふつと煮え返して来そうだった。


 宮部は絵瑠を見て言った。


「11年前に麒麟が現われて子どもが亡くなったと聞いたが、それは君の友だちだな?」


「はい」


「辛いことを思い出させることになるかも知れないが、詳しい状況を教えてくれないか」


 絵瑠はすこし考えたあと、話し始めた。


「……ちょうど今ぐらいの季節のころでした。私たちは湖の畔で遊んでいたんです。その日はとても暑い日で足首まで水に浸かって、追いかけっこのようなことをしていました。


 私がすこし深いところに足踏み入れてしまったとき、足首のあたりを何かが通り抜けたような感触がしたんです。何かと思って水面を見ましたが、次の瞬間には、私は足をつかまれて、水の中に引きずり込まれていきました。


 私はそのとき、手を優紀の方に伸ばしました。優紀も手を伸ばして、私の手を掴みました。でも、水の中にいるそれの方が力が強くて、二人とも水面を引っ張られていきました。私はすでに魔法が使えるようになっていたので、懐から杖を出して、水の中にやみくもに魔法を打ち込みました。そのうちの一発が当たったのか、その何かは私の足を放して、水の中に潜っていきました。


 私はすでに湖の中央近くまで運ばれていて、湖の底に足がつかなくなっていました。急いで岸に向かって泳いでいきました。私は引っ張られている途中でいつのまにか優紀の手を放してしまっていて、優紀がどこにいるのかはわからなくなっていました」


(あの湖の真ん中から岸までと言ったら大した距離だ)


 絵瑠が息を整えるために話を切った。宮部も栄治も黙ってふたたび話しはじめるのを待っていた。


「岸に着いたとき、湖の方を向くと、遠い水面に優紀がいるのが見えました。私は優紀の名前を呼びましたが、優紀は何も答えず、水の中に浮きつ沈みつしながら、こちらを見ていました。――いや、よく見ると優紀は声を出さずに口を動かしているのがわかりました。その口は『逃げろ』と言っていました。そのとき、湖の中から麒麟が跳ね上がって宙に浮かびました」


「その麒麟の形状は?」


「一般的なものです。鹿の足に、馬のようにしなやかな体躯、勝手にたなびく尾……」


(その麒麟ってやつと、変化したときの俺とはどう違うんだ?)


「私はそのときはじめて麒麟を見ました。気が動転して、しばらく何も考えられなくなって立ち尽くしていました。


 でも、そのとき麒麟が水面にいる優紀のところに行って、下から突き上げるようにして優紀を高く投げ上げました。5メートル以上はあったかもしれません。優紀は空中でヒトデみたいにくるくる回っていました。優紀が水面に落っこちたとき、私ははっとして、麒麟と戦わないと、と思いました。それで、使えるだけの魔法を使って、麒麟に攻撃しました。そのときの私の力ではほとんど相手になりませんでしたが、優紀から麒麟の気を逸らすことはできました」


 語調から、絵瑠が興奮してきているのがわかる。


「私が麒麟に攻撃しているあいだに、優紀は泳いで湖から上がって来ていました。私は優紀と二人でなんとか逃げようと思っていたのですが、私の方に駆け寄ってきた優紀は、私から杖を奪い取ると麒麟と戦いだしました。そして私に、『逃げろ』と言って、つき飛ばしました。


 私はつき飛ばされた勢いで、転んでひざを擦り剝きました。そのとき私はなぜか麒麟のことより膝の痛みの方が気になってしまい、つき飛ばしてきた優紀を非難するような感情になっていました。なんでつき飛ばしたんだ、と。それで私は、もう先に逃げてもいいだろうと思って森の中に入りました。


 擦り剝いた方の膝が動きづらくて、森を抜けるのに時間がかかりました。それでも、5分くらいで村について、大人たちに麒麟が来たことを伝えました。


 私は、大丈夫だと思っていました。死ぬわけがないと、なんとなくそう思ってたんです。でも、湖に戻ったとき、優紀は四肢をもがれて死んでいました溺れたんじゃなくて、麒麟は、優紀の胴の部分を口に咥えて、誇らしそうに立っていました」


「麒麟は獲物を弄ぶこともある」と宮部は静かに言った。


「でも、本当は逆だったかもしれない。私が優紀の手を掴んでいなければ、優紀が逃げて、死ぬのは私の方だったのかもしれない。優紀は助かったかもしれない。引っ張られている途中で私が優紀の手を放さなければ……」


「それでも同じことだ。その優紀って子が君を失って深く苦しんだ。それだけだ」


「そんなのわかっていますよ。私が言いたいの、もうこういう記憶から区切りをつけたいってことで……」


 しかし絵瑠はつなぐ言葉を見つけられないようだった。


 宮部は絵瑠に共感してはいなかった。どちらかと言えば、冷静に、もっと言えば冷淡に話を聞いていた。しかしその言葉の中には深い優しさもあるように感じられた。


「何があったかはわかった。だがもうその傷と過去は説得材料にするな」


 宮部がそう言うと、絵瑠はアームカヴァーを右手につけようとした。それを宮部が止めた。


「いや、待て」、宮部が左手を絵瑠の前に差し出した。「手を」


 絵瑠は何気なく左手を出した。宮部は手をつかむと、刺青が彫ってある右手を絵瑠の左腕の上に置いた。


「ケガの手当てをする、とかいう言い方があるだろ。栄治、あれはなぜだと思う?」


「……さあ?」


「昔、医術も碌になかった時代、患者の痛むところに手を当ててやっていた。手を当てることが唯一の治療だった時代があるんだ。その名残だよ」


「そうなのか」


「嘘だよ。いま考えた」


「嘘かよ」


 そう言っているあいだに、宮部は右手を動かしはじめていた。その指先は複雑な図形を描きながら、腕の上下左右を這っていった。絵瑠はくすぐったそうな顔をして、ときどき腕を引こうとした。それを逃がさぬように宮部は強く握り返した。腕の表面に描いている図形にだけ集中しているようだった。


 宮部が手を止め、腕から手を離した。絵瑠が自分の腕を不思議そうな顔で見て、右手で一度だけ、下から上へと擦った。無数の傷は相変わらず残っていた。


 そのとき、左腕に、墨汁が紙に染みていくように黒い模様が浮かび上がった。刺青だ。


「その傷は、栄治にとっては何の意味もない。ただの傷だ。お前が勝手に自分でつけただけの傷を見せられて、気持ちが変わるわけがない。栄治にとっては無意味だ」


「違う。ただの傷じゃない」


 絵瑠が、それまで黙っていたのとは裏腹に、きっぱりとそう言った。


「そうかもしれないな。傷に何か意味を見出だしたいなら、そうすればいい。その傷は優紀の分のお前の責任だ。そう思ったっていい。だとするなら、その上の刺青は栄治をキリンジに変えた分の責任だ」


「……」


「――いや」、栄治は口をさしはさんだ。「そんなことされても、俺の気持ちは変わらないですよ。刺青を入れることとキリンジにされたことでは全然釣り合わないじゃないですか」


「お前なあ、今いい感じにまとまりそうになってたじゃねーか。釣り合えば良いっていう問題じゃないんだよ」、宮部が大人げなくも大声を出してくる。


「は? お前今、『勝手に自分でつけただけの傷を見せられて、気持ちが変わるわけがない』って言ってたじゃねーか」、栄治も負けじと言い返す。「だったら、お前が絵瑠の腕に勝手に入れた刺青が、俺の考えを変えるわけないだろ」


 宮部が眉をぴくっと動かした。「だーかーらー、お前の考えなんかどうでもよくて、責任を負うかどうかって話なんだよって今俺は言ったんだよ。今お前は関係ないの」


「俺が関係ないだと? 俺抜きにして、絵瑠さんとあんただけで勝手に解決した雰囲気を醸し出そうとしてたよな? なんかよくわからない刺青を入れて。それをやめろって言ってんだよ。刺青を入れて責任を取ったつもりになってんのかって」


「あーわかったよ、お前の言いたいことは。責任を対価として示せ、気持ちや態度としてではなくもっと形のあるものとして、ってことだろ? だがそういうことじゃない。被害者に対してどうするか考えることと、加害者が自分の責任をしっかりと自覚することは別だ。内側の問題と外側の問題なんだよ。普通キリンジは人間としての意識を失う。つまりキリンジを作ることで被害者を生み出しながら、それと同時に被害者がいなくなってしまうということだ。神隠しだ! そのときに魔師の側が被害者にできることはその責任をちゃんと自覚するということだけだ。だから俺は今ああいうことを言ったんだよ。今回はお前が意識を保っているという点でわけが違うけどな。今はその時間なんだから、お前は黙ってろ」


「は……?」


 宮部の言っていることがわからなかった。というか、ただ話題をずらしただけのように思えた。だが、魔師にも責任があるのだとはっきりと宮部が言ったことには、胸の中ですっきりするものがあった。


「わかりました」と、絵瑠は差しはさむように言った。「栄治さんの分まで、私しっかりと戦います!」


(そういうことじゃないと思うんだけどなあ……)


「よしっ、そういうことだ!」宮部が声を張った。


 ツッコミたい気持ちをしぶしぶ抑えて、栄治は問うた。「で、被害者にはどうしてくれるんですか? なんか補償みたいなのはあるんですか?」


「あるわけないだろ。イレギュラーなんだから」


「じゃあ、どうすんだよ!」


「とりあえずお前は俺についてこい」と堂々と宮部は言った。「元に戻れる方法を俺は知っているかもしれない」


「元に戻れる方法って?」


「昔、キリンジを作る儀式は今のようなやり方ではなかったんだ。受け継がれていく過程で少しずつ形を変えて今のやり方に至ったと言われている。だから、原初のやり方がどのようなものだったかはわからないんだ。俺はそれについて長年調べてきた」


「つまり、どういうことだよ」


「古代の文献から、かつては志願制によって人を集めてキリンジを作っていたことがわかっている。しかもそのキリンジには人間の意識が残されていて、魔師と会話をしながら戦っていたという。そのようなキリンジの作り方が長いあいだわからなかった。だが、今日ヒントがつかめた。その文献の中には、キリンジになっても元に戻ることができたと書いてあるんだ。具体的な方法についてはまだわからないが……」


「……じゃあ、わかったら教えてくれ。俺は吾輩は猫であるごっこをしてるからよ」


「俺も、人間をキリンジに変えたことはある。君に指図ができる筋合いじゃないのはわかっている。だけれども、お願いだ。彼女についてやってくれ」


「戦いたけりゃ自分で戦えばいい」


「キリンジがいる魔師とただの魔師では能力に天と地の差が出るんだ。彼女がまともに戦うには、お前の力が必要なんだ」


「だったらキリンジをまた作ればいい。今度は人間の意識を持たないようにな」


「それは被害者がまた一人増えるだけだ」


「お前らがそんなこと言うな! お前らには被害者がどうのとか言う資格はないんだ!」、栄治は激高した。今度こそ宮部を言い負かしてやるつもりだった。


 しかしそのとき、宮部ははっとして背後を振り返った。目線の先には木々に覆われた山の斜面が広がっている。山肌のさらに先の方へと、視線を伸ばしていった。

絵瑠も、何かに気づいて宮部の目線を追っていた。「今、一瞬結界がゆるんだか?」


 しかし絵瑠は何も言わない。


「麒麟が入ってくるかもしれない。湖は山向こうにあるのか?」


「はい」


「思っていたよりも早い。見に行ってくる。二人はここで待ってろ」


 宮部は急いで斜面を登って行った。


 急に身の回りが寂しくなったような、不自然な静けさがやってきたような気がした。この場に二人きりでいるということに、なぜか栄治の方が耐えられなかった。絵瑠が抱えていたものを知り、その大きさに途方もなさを感じていた。


「宮部さんにばかり謝らせてしまって、本当は私が謝らなきゃいけないのに」と絵瑠が言った。


 栄治は自分が悪いことをしてしまったような気分になった。それは錯覚だ、と自らに言い聞かせても、一度抱いてしまったものはおさまらなかった。


「もう謝らなくていいよ。どうせ何も変わらないんだし」


「やっぱり、協力はしてくれないですよね」


「ああ。なんかごめん」


(なんで俺が謝ってるんだ?)


 栄治はそこら辺に落ちていた木の葉を何気なく裏返しにした。


「じゃあ、今のうちに逃げてください」


「え?」


 栄治が絵瑠の目を見る。すでに絵瑠の瞳は決心した光を放ったまま栄治を見ていた。視線がぶつかり、お互いに吸い寄せられるように目を合わせつづけてしまう。視線には引力でもあるのか。


「村の外周を反時計回りに走って行けば川に出ます。その川を渡ってずっと西に行けば街に出ます。そこまで行けば、隠れるところはたくさんありますから」、淡々と絵瑠は言う。


「お前はどうするんだよ。お前には、俺の居場所がわかるんだろ」


「はい」


「村の人がお前に訊いたらどうするんだよ。お前だってただじゃすまないだろ」


「それは何とかしますよ。黙ってますから」


 絵瑠はさっと立ち上がった。それと同時に、栄治の体が軽くなったような気がした。浮かび上がるようだった。


 絵瑠は立っている場所から一歩後ろに下がった。


「行ってください」


「……お前、俺がいなきゃ戦えないんだろ?」


「そうでもないです。戦えることには戦えます」


 栄治はそのときになって、宮部に「俺について来い」と強引に言われて逆に安心していた自分に気づいた。


(ある意味、役割が与えられたわけだ。居場所が)と栄治は思う。(ひどいやり方ではあるけど、それに少し心を落ち着かされたのは確かだ……。でも、ここで逃げたら? また何でもない存在として生きて行かないといけない。ただの野良猫として……)


 絵瑠が選択を迫って来ているように思えた。逃げるか、戦うか。ただの猫として生きるか、ただならぬ猫として生きるか。


 そのとき、ぐんっと絵瑠の存在感が増したような気がした。その気配に圧されて、全身の毛が逆立った。絵瑠が何かしたのかと栄治は思う。しかし絵瑠はただこちらを見つめるだけだ。


   ――逃げて


 と、声が聞こえた。絵瑠のだとわかる。だが音声ではない。絵瑠の考えていること、念じていることがそのまま流れ込んできているのだ。


(こいつは、本気でそう思っているんだ。選択を迫っているわけではなく、ただ純粋に、逃げてもいいのだと思っているんだ。俺に……)


 絵瑠は黙って栄治がその場を立ち去るのを待っているようだった。彼女は責任感からそう思っているのではなかった。栄治が当然に持っている権利を彼女が尊重したがために、そうするべきだと彼女は考えていた。逃げてもいい、と、素朴に、言外に、栄治に言っていた。


(またか……?)


 今度は自分自身の思考の波にさらわれる。


(同じことを父さんに言われたような気がする……。逃げてもいい、と。そして、俺は家を出ていった。いや、そんなことは実際言われなかった。父さんはそんなことは言わない。確かなのは、さっき考えていたことをそっくりそのまま父さんの前でも考えていたってことだ。〈ただの人として生きるか、ただならぬ人として生きるか〉と。だが、俺は考えていたことを放り出して、どっちも選ばずに家を出た。そうだ)


 そのとき、鉄の板を左右に引き裂くような音が山向こうから聞こえてきた。湖の方だ。木々の枝という枝から、無数の鳥たちが羽ばたいて空を黒く染めた。山全体が異常事態を察知したかのように緊張感が走った。


 今度は、ありとあらゆる獣の鳴き声を混ぜ合わせたような狂声が、山の中に轟いた。やはり湖の方からだとわかるが、先ほどの金属音に比べると小さかった。しかし、栄治がそれを聞いたとき、理性ではなんともならない、本能的な部分を刺激されるような感覚を覚えた。


 絵瑠は山向こうに目をやって、しばらく立ち尽くしていた。迷っているようだった。行くべきか、行かざるべきかを。


「来た」、絵瑠は何かを決断するかのように、そう言った。


 そして山筋に沿って走り出そうとしたが、思いとどまって栄治の方を向き返った。


「逃げてください。今なら村の人も混乱してると思います。私は、行かないと」


 それだけで、絵瑠は茂みの中に飛びこんで消えてしまった。


 ふたたび狂声が上がった。それが栄治の体をぶるぶると震わせた。しかしそれは恐怖というよりも興奮のためだった。


 逃げよう、と栄治は決心していた。チャンスだ。しかし、足は動かなかった。湖の方から聞こえてくる声が栄治を呼び寄せるようだった。なぜかわからないが、どうしてもその声の方へと向かいたくなっていた。


(きっと声の主は麒麟とかいう奴なのだろう。その声の方に向かいたくなるのは、たぶん自分がキリンジになったからだ。つまり生理現象のようなものであり、自分の意志とは関係ない。だから、無視するべきだ……。この衝動を)


 栄治は逡巡していた。


 麒麟を一目見てみたかった。


 栄治は村の方に体を向けていたが、くるりと向き直って湖の方を見た。感覚を集中させると、麒麟の居場所が透かし見るようにわかる気がした。


 一目見るだけだ、と栄治は心の中で念じた。

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