10
(あらすじ:芥子の畑を訪れた栄治と宮部と村長。そこには絵瑠がいた。宮部は絵瑠に昨夜の儀式について聞き取る)
*
畑の片端に、芝生に覆われた一画があったので、三人と一匹はそこに腰を降ろした。
「で、君は彼に魔力を流し込むとき、何をした?」と宮部が訊いた。
「何も、父に言われた通りのことをしただけです。順序も詠唱も間違えませんでした」
「儀式の前に、何か普段の儀式ではやらないことをしたりしたか?」
「昨日は、集中するためにできるだけ余計なことはしないようにしていました。変わったことはしていないです」
「昨日? 昨日と言ったか」、気がかりなことでも見つけたのか、宮部が問うた。
「ええ、昨日の深夜です」
「今日の未明ではなく? 昨日か?」
「はい」
「昨日は月食があったんだぞ」
「そうだったんですか? 知りませんでしたが、それがどうかしたんですか」と村長。
「食の日の儀式は禁じられている。原典にもそう書いてあるだろう」
「そうなんですか」
宮部は手を口元に持っていって、深く考え入っている。座に沈黙が訪れ、気持ちの悪い空気が流れた。
「……いや、それは存じ上げませんでした」と村長。「儀式の要綱が書いてある原典の写しは私が子どものころの大火事で焼けてしまったんです。それ以来この村はずっと口伝でやって来ているんですよ。食の日の儀式のことなど聞いていませんでした」
「なぜ原典の写しを本部から取り寄せずに口伝などしているんだ。今の時代に写しを作ることなど容易いだろう。本部は文句ひとつ言わずにやるぞ」
「はい……確かにそうですが……。父は口伝のほうが秘密主義的でいいだろうと言っていて……口伝の内容が誤っているなどとは思わなかったものですから」
「お前の父親はバカなのか! 魔師の教えや知識が秘密主義であっていいわけないだろうが。お前もバカだ!」
宮部が激高した。そのふり幅は物凄いものだった。まさに雷に打たれたかのように、村長は体をぶるぶるふるわせたかと思うと、その場で土下座した。
(土下座の最速記録更新だな)
ひいひい言いながら謝っている村長をなかば無視して、宮部はひとりごとをぶつぶつ言っていた。やがて、
「まあいい」、ひとりごとを打ち切って、絵瑠と栄治を順に見た。「今回の件は、食の日に儀式を行ったことが原因かもしれない。まあヒューマンエラーだな。栄治くん、申し訳ない。君をそんな姿にしてしまって」
「は? 謝ってるのか?」
「そうだ」
「申し訳ないと思っているなら、はじめからこんなことはしないだろ。そこのおっさんも女も。俺じゃなくたってよくて、成功してたらキリンジは人格を失ったペットみたいなやつで、どうせ俺がいたことなんかすぐに忘れたはずなんだ。やってることは人殺しと同じだろ」
「それは、返す言葉もないな」
「お前だって誰かをキリンジに変えたことがあるんだろ」
「ああ」
「そいつの名前言ってみろよ」
「名前ははっきり覚えているが、言うつもりはない」
「そいつの家族の名前、どんな人生を送ってきたのか、大切だったものは何か、夢、お前は何も知らないだろ」
「うるさい。俺は全部知っている。だが言わない」
宮部が鋭く栄治を見た。冴えかえった白目に、自然光が差し込んでぎらぎらと反射した。その眼の奥には明らかな敵意があった。栄治は口を開けたまま、何も言えなかった。先ほどまでの、栄治に対する謝罪の雰囲気が一瞬にして逆向きに傾き、栄治の側にこそ何か問題があるのだとでも言うようなものへと変わった。
「ところで」気を使ったのか村長が口を挟んだ。「明階さまのキリンジは今どちらに?」
「ああ、今メンテナンスに出している。三年くらいずっと休まずに旅をしていたからな。そうだ。この村にはコピー機はあるのか?」
「ええあります」
「じゃあパソコンは?」
「もちろんありますよ。それがなけりゃ今の時代はやっていけませんよ。ははははは」
「にもかかわらず口伝をしていたのか……。メールアドレスを教えろ。原典のPDFをメールで送らせるように本部に言っておくから、口伝はもうやめるんだ。電子版が届いたらコピーして村人全員に原典を読ませろ。月に一回は読み合わせをして誤解の無いように努めるんだ」
「あ、はい。メールアドレスは、エム、ジー、いち、いち、ろく……」
「今はいらん! 口で言われて覚えられるわけがない」
「す、すみません」
「まったく、田舎ってのはこういうものなのか……」
(なんだこの会話……)、栄治は草の上にうずくまっていた。
「とりあえず、今回の件は本部に伝える。原典の写しを失くして長く口伝をやっていたことも含めてな。何か処分が下るかもしれないが、小さな村だし大したことにはならないだろう」
村長が草の上で深く頭を下げ、ありがとうございます、と言った。
宮部は立ち上がり花畑を出て行こうとした。後を追うように村長、絵瑠が足早に歩いていく。栄治が置いて行かれるかたちになり、つと立ち上がったときには三人はかなり遠くにいた。人と猫の歩幅の違いは歴然だった。
「待てよ。俺はどうなるんだよ」、栄治は言う。
「どうなるも何も、お前は俺たちと一緒にいるしかない。」と宮部。「まあ、心配しなくていい。ちゃんと面倒は見てやるよ」
「はあ? 面倒は見てやるよ……?」、栄治は怒りをこめてそう言った。宮部に、自身の怒りを度合いを伝えるために。
「落ち着け。感情を昂らせるな」
「あんたら、人の人生をなんだと思ってんだよ。お前らの勝手な都合でこんな姿にされて、それで『心配するな』っておかしいだろ」
普段怒ることがほとんどない栄治には、このような状況で言うべき言葉が見つからなかった。ただひたすらに昂って行く感情――理不尽に対する怒り――を表現する術がなかった。
「まずいな」、宮部が言った。
「俺はこんなことのために生まれてきたんじゃない!」
栄治が言うやいなや、首輪が切れて飛んで行った。首輪についていた札が空中で燃えて灰になるのが見えた。
「その首輪を外すのか」と宮部は言い、上着の胸元から棒状のものを取り出した。
体が燃えるように熱くなり、手足の感覚がおぼろげになる。自分の感情がわからなくなり、先ほどまで自分が怒っているということを意識できていたはずなのに、今では、もう何もわからない。どうでもいいのだ。
目を開けると、自分の体を取り巻いている青白い光が見え、そして体が急成長していることに気がついた。脚は猛獣のように太くなり、尾は長く風もないのに自然とたなびいていた。体躯は黄金色に輝く毛に覆われ、鼻筋は伸び、牙は大きく鋭くなっていた。
(これは……?)
宮部がこちらにずんずんと歩いてくるのが見えた。右手を前に差し出し、何かをしようとしてくる。
考える間もなく、栄治は地面を蹴った。ものすごい勢いで体が飛んでゆき、生垣を飛び越えてしまった。はっとしてその場に立ち尽くし、生垣の高さを確認する。
(2メートルと少し、それを難なく越えたのか)
そのとき体に強い衝撃が走った。
生垣の向こうから熱の塊のようなものが飛んできて、栄治にぶち当たったのだった。生垣にはぽっかりと丸い穴が開いており、周囲の葉や枝が焦げて炭のようになっていた。しかし栄治自身はこれと言ったダメージは受けていない。
穴の向こうに宮部がいた。宮部の手前にある芥子の花たちも焼けていた。そこから何とも言えない香りが漂ってくる。それが不思議と栄治を落ち着かせた。
「落ち着いてこっちに戻ってこい」
精神の状態はもとに戻っていたが、宮部の方に行く気にはなれなかった。
宮部はまだ右手をこちらに向けている。
周囲を見回して、誰もいないことを確かめた。このまま左手に見える道を横切って何軒かの家の前を通り過ぎれば、森へと入って行けるだろう。
宮部がもう一度撃つのがわかった。それを寸前のところで後ろに飛んで避け、それと同時に走り出した。
体がぐんぐんと加速していく。風になったような気分だった。
(このまま逃げられるか? いや逃げてもいいのか……?)
迷いを振り払うように、もう一段階加速した。
栄治は森の中に消えた。
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