(あらすじ:宴会が終わり、眠りに就いた栄治。しかしそこに絵瑠がやってきて、襲われるか)


   *


 するり、と布が擦れる音が聞こえた。


 一旦深い眠りの中に落ちたあと、ふたたび意識が現実に接近しようとしていたときだった。栄治は目を覚まし、部屋の中が真っ暗であることに気付いた。自分が眠りに就いたとき、部屋の電気は消していなかった。奥さんが消しに来たのだろうか。


 部屋の入口の襖が開かれているのが、暗闇の中でも見えた。


 するり。ふたたび音が聞こえた。


 きゅっと心臓が縮みあがり、一気に目と頭が冴えた。そのとき、どういうわけか栄治の脳裏に食人文化のある未開の村の伝説が頭をよぎった。


「食べないでください!」と言い、とっさに敷き布団の上で土下座をする。「俺を食べても美味しくないです!」


 頭を上げて、音の聞こえたほうを見ると、そこには絵瑠がいた。


 絵瑠は両膝をついて、浴衣らしき服を着崩しているように見えた。しかし改めて見ると、着ていた浴衣を今まさに脱ごうとしているところだということがわかった。絵瑠は帯を外し、浴衣の前をはだけさせた。


 胸の谷間が目に飛びこんでくる。暗闇の中でほのかに光っているようにも見える白い肌が、なめらかな曲線を描いている。その上に顔があるのだが、影が差しているため表情がわからない。


 浴衣が畳の上に落ちた。絵瑠は裸になってはいたが、黒いアームカヴァーは両腕に付けたままだった。それが肌の色とコントラストを成し、絵瑠の肉体を作り物のように見せていた。


「うわあ」


 栄治は正座の状態からひっくり返り、あお向けになる。そこに絵瑠が覆いかぶさるように近づいてくる。そのとき、はじめて絵瑠の顔が見えた。そこには表情と呼べるものは一切なく、作り物のように凝り固まっている。まるで意志などと言ったものはありませんと伝えているようですらあった。


 栄治は絵瑠を蹴り飛ばした。絵瑠が畳の上に倒れる。


「あっ、ごめんなさい」


 栄治は立ち上がり、絵瑠を抱き起すと、絵瑠の体に浴衣を巻き付けた。


 絵瑠がうすく目を開いて、栄治の顔を覗き込んだ。


「う……」、絵瑠が唸った。


栄治はいそいで絵瑠に掛布団をかぶせた。


「な……夜中に一体どうしたんですか?」


「私のことは気にしないでください」


「いや無理ですよ!」


「村の決まりで、男の人が来たときはこうすることに決まってるんです」と絵瑠は言った。


「それで婿に取るんですか」


「婿は取らないです。ただそうするだけです。風習なので」


「そんな風習、いまどきありえないですよ」


「そうかもしれないですが、男性は喜ばれる方が多いです。私にとっては初めてですけど」


「どうしてそんな風習があるんですか?」、栄治は素朴に質問する。


「まあ、なんというか、少しでも悔いがないようにということです」


「……悔い?」


「それ以上は言えないです」


「……意味がわからないですけど、事情はわかったので、もう自分の部屋に帰ってくださいよ」


「それはできません。あなたを満足させるまではこの部屋を出るなと言われています」


「じゃあ、満足したことにします。俺は別にそんなことではたいして満足はしないし、最初は好きな人がいいなって思ってたから」


 絵瑠が不意に失笑しそうな表情を見せた。栄治が彼女から感情の動きを読み取るのはこのときが初めてだった。


「今、女々しいって思ったでしょ!」、栄治がツッコむと、


「いえ、別に」、すっと真顔に戻って絵瑠は言う。


「じゃあ童貞だって思った」


「思ってはいません」、絵瑠は目を逸らした。「それはともかくとして、私は、あなたが満足してぐっすり眠るまでは一緒にいないといけませんし」


「何のためにそんなことをするんだ?」


「それは、あなたにぐっすり眠ってもらって――」


「ぐっすり眠ればいいんだな? じゃあぐっすり眠ってやるよ! それでいいんだろ」


「……はい」、そう言って、栄治は絵瑠と場所を交代し、布団にもぐり、眠りに就こうとした。「今からぐっすり眠るから、ちゃんと見とけよ!」


「あ、あの、待ってください」


 絵瑠は部屋の片隅に置いてあった鞄の中からペットボトルを取り出した。中には水が入っている。


「これを飲んだ方がよく眠れます。お母さんが睡眠薬を入れてあると言っていたので」


「えっ、罠じゃないですか!」


「でも、この方が確実にぐっすりと眠れると思いますよ」


「まあ、確かに」


 この時点で栄治は猜疑心というものをかなり捨てていた。とにかくこの状況を切り抜けることしか考えていなかった。栄治はペットボトルを受け取ると、水を一口飲んだ。


「これくらいで大丈夫ですかね」


 次の瞬間、栄治の視界はぼやけて、目の前にいる絵瑠の顔が歪んでいく。栄治は、布団の上に倒れ込む。薄れていく意識の中で、部屋の掛け軸に描かれた麒麟の姿がぼんやりと広がっていくのを眺めていた。

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