翌朝早く、蝉が悟の部屋へやってきた。両手に紺色の着物を抱えている。

 「瀬戸さんからだ。午後には迎えに来るって言ってたぞ。」

 悟は何も言わず、蝉に渡された着物を床に広げた。

 一見地味だが、ちょっと触れば贅沢に絹を使っていると分かる、高価な着物だった。更に帯にはこれもふんだんに金箔が押してある。

 華やかすぎて、自分には似合わない。

 帯の金箔に指を這わせながら呟くと、蝉が笑った。

 「そんなことはないだろ。ここにきたばっかりのお前には確かに似合わなかったかもしれないけど、今のお前なら似合うよ。」

 「……今の、俺なら?」

 きれいになった、と蝉は言った。そして、悟の髪をわしわしと撫で回した。

 「着替えて瀬戸さんをお待ちしろ。手伝ってやるから。」

 蝉の前で服を脱ぐことには抵抗があった。仕込みのときには何度も晒した肌だけれど。

 しかし観音通りに来るまで和服など着たこともなかった悟には、常の着流しならまだしも、自分ひとりでこの着物を身につけることができない。

 おずおずと立ち上がった悟は、かすかに震える指で帯を解いた。蝉は特に感情の色のない目で悟の体を見ていたが、襦袢を着せかけてやりながら、やっぱりきれいになったな、と言った。

 薫という人よりも?

 そう問いたくて、問えない。

 うつむいた悟の細い顎先を、蝉の指先が不意にすくい上げた。

 目と目があう。

 短い沈黙の後、蝉の唇が悟のそれを塞いだ。

 「お前を好きになれればよかったのに。」

 薄く唇を重ねたままの囁き。

 悟は目を閉じたまま、手探りで蝉の肩を探し、腕を回した。

 一拍おいて、ぬくもりが通う。

 悟はなにも言わない。薫ではない自分ができることは、ただ黙って蝉の言葉を聞いていることだけだと知っている。

 もう一度、短い接吻。

 「もっと早くお前に会っていたら……。」

 蝉らしくもない感傷に、思わず悟は微笑んだ。らしくもない感傷を引き出せたことが嬉しかった。だから、返す言葉は自然と喉から溢れてきた。

 「もっと不幸になっていたでしょう。」

 その返答を聞いて、蝉は思わずと言った様子で吹き出した。

 「そうかぁ。もっと不幸にかぁ。」

 ええ、きっと、と悟も微笑んで頷く。

 薫と蝉が出会う前に、悟と蝉が出会っていたとしても、きっと幸せにはなれない。

 悟は自分から口づけをほどき、足元の豪奢な着物を蝉に手渡した。

 「だから俺は、瀬戸さんところで幸せになります。」

 蝉がかすかに頷くと、午前中の柔らかな陽光が蝉の金髪の上を滑って輝いた。

 この光のことをきっと自分は一生忘れないだろう、と、悟は襦袢の胸元を握りしめた。

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観音通りにて・遣り手 美里 @minori070830

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