「勘違いだよ。」

 当たり前みたいに言い切った蝉は、続けて、セックスするか、と言った。

 驚く悟に構わず、蝉が更に言葉を継ぐ。

 「やらねぇから妙に俺に価値があるような気がするんじゃないのか?」

 事実として、蝉の台詞は間違っていた。蝉が悟にとって特別なのは、セックスをしないからではない。始めて会ったあの日に、悟の心臓を突き刺したからだ。

 それでも悟が、違う、とすぐさま否定をしなかったのは、抱かれたかったからだ。一度でいいから蝉に抱かれたかったからだ。

 悟の沈黙をどう取ったのか、蝉は喉の奥の方で低く笑った。

 笑えない悟は、じっと蝉の目を見返した。

 大きな蝉の両目は、面白そうに悟を見返していた。

 「お前は俺に何をしてほしいんだ? 一緒に眠るだけで本当にいいのか?」

 一緒に眠る以外なにもしてくれない冷たい人が、そんなことを言うから、悟はいっそ泣き出したくなった。

 「本気で抱いてくれる気もないくせに。」

 女が拗ねるような口調になった。それが嫌で、もどかしく口をつぐんだ悟を見て、蝉はおかしそうに笑った。

 そして、塞がれる唇。

 驚いて硬直する悟に構わず、蝉は平気な顔で舌を使った。

 なんで。

 問うた言葉も蝉の喉の奥に吸い込まれていく。

 長い口吻が解けた後、蝉は少し笑った唇で囁くように言った。

 「味まで薫に似てるな。」

 薫の名を蝉から聞くのは始めてだった。ぴくりと、自分の身体が勝手に反応するのが悟には分かった。

 「比べないでください。」

 声は自然と掠れた。

 「薫さんと俺は違う人間です。」

 ごく当たり前のことを訴える身が侘びしかった。

 「比べた覚えはないけどな。」

 悟の侘びしさに応じる蝉の声は、ひどく表面的だった。悟の侘びしさも表面を滑り落ちてしまいそうなくらい。

 この人は絶対に自分を振り向いてくれることはない、と、その時悟ははっきりと理解したのだ。

 蝉に刺されたままの心臓を押さえた。

 そして、身を振り絞るように布団から這い出た。

 蝉は何も言わなかった。

 悟も何も言わなかった。

 廊下へ出ると、着替を抱えて湯へ行こうとしているサチと鉢合わせた。

 サチはちょっと驚いたように悟を見た。随分とひどい表情をしていたのだろう。

 「サチさん、」

 名を呼びかけて、それ以上の言葉が出てこなかった。

 サチは黙ったまま、悟の肩を抱いてくれた。

 「だから蝉はやめとけって言ったじゃない。」




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