第10話 萌え出づる約束

 陽が傾き、校舎は燦爛さんらんたる黄昏に染まっていた。

 窓枠や柱の影が、帰宅を急ぐように手を伸ばしている。

 私は置き忘れていた鞄を取りに行くため、廊下を少し急ぎ足で歩き、教室の扉を開け放った。


「あれ? 友美……、まだいたの?」


 誰もいないと思っていた教室には、一人でノートと教科書に向かう、友美の姿があった。輝かしい夕陽の光輝こうきが、友美の薄く染めた茶髪を、美しく煌めかせていた。


「晴海の鞄置きっぱだったから、戻ってくるかなって思って」

「私のこと、待ってたの?」

「宿題片付けるついでにね」

「……何か、言いたいことでもあるの?」


 私は警戒気味に自分の席、つまりは友美の直ぐ近くまで歩み寄った。

 友美はしばらく無言だった。

 長い沈黙の後、まるで嫌いな野菜を箸でつまんで口へ運ぶように、躊躇いがちに口を開いた。


「『女と寝るように男と寝る者は、ふたりとも憎むべき事をしたので、必ず殺さなければならない』」


 普段の友美の口調と違ったその言葉は、いやに威厳があり、まして過激だった。

 私はそれが同性愛者のことを指しているのだと察して、思わず閉口してしまった。


「旧約聖書、レビ記にある一節。別に、私がそう思ってるわけじゃないって」


 いつものはしゃいだ教室にいる口調に戻った友美は、シャープペンシルをノートに放り出した。


「え? 聖書?」

「うちの親、キリスト教徒なんだよね。私は別に信仰してるわけじゃないけど、子どもの頃は、よく近所の教会のミサに連れて行かれてたんだ」


 私は友美が何の話をしたいのか、判別できずにいた。


「晴海がレズだって聞いて、すっごいモヤモヤして……、その、昼休みは、酷いこと言った。ごめん」


 突然の謝罪に不意をつかれた私は、咄嗟に心にもないことを口走った。


「……あ、ううん。別に、気にしてないから……」

「嘘でしょ」


 一瞬で苦々しい虚言を見抜かれて、私は軽薄な口を呪った。


「……うん、まあ、少しは傷ついたけど、それも覚悟して言ったことだし、いいよ。友美が反対するのも分かってたし」

「……それなんだけどさ」


 私たちの会話は、いつもより切れがなく、はっきりと言いたいことは言い合う仲であったはずが、今は油を差し忘れた自転車のチェーンのように、どこかギクシャクしていた。


「私がレズとかホモとか、毛嫌いしてるの、なんでかって考えてみたんだけど、多分、親の影響なんだよね」

「そういえば、キリスト教って、同性愛には批判的だったっけ」

「ま、日本にもホモの牧師とかいるけど、基本的にはノーだよ」

「……友美。その、ホモとかレズとか言うの止めない? ゲイとか、レズビアンって言って欲しい」


「あぁ、ほら、こういうところもだ」

「それも、親の影響なの?」

「そっ。テレビとか映画でそういう人たちが出てくると、決まって蔑んだり、笑いものにしたりするの。『ホモは地獄に落ちる』とか言って。芸能人でもゲイとかカミング・アウトする人いるし、映画とかドラマでも、同性愛を扱ってるの多いじゃん。うちの親、そういうの毛嫌いするんだよね」


 人はどうして、同性愛嫌悪ホモフォビアになるのか。

 それは一概に答えることはできないが、社会に蔓延する異性愛規範もさることながら、人間関係も大いに影響してくるのだろう。

 どのような友人を持つか、どのような教師やクラスメイトと関わりを持つか、そして、どのような両親や兄弟と過ごすか。

 更には、友美のように、宗教が関係してくれると、それは絶大な力を持って価値観の形成に入り込む。


「ほんとは、香奈ちゃんにも、晴海にも、あんなこと言うべきじゃなかったって分かってるんだけど、どうしても……、気持ち悪いって、思っちゃうんだ。理屈では分かってるんだよ? そういう差別が駄目だってことくらい。でも……、簡単に、感情までは、変えられない……」


 友美は自分自身に言い訳をするように言った。それはまるで、自傷することでしか自身の在り方を見いだせない人に似ていた。


「罪悪感と、キモいって感情が、行ったり来たりして、自分でも、すごく嫌だ。香奈ちゃんが自殺したって聞いた時だって、自分のせいかもって、一瞬思ったもん。怖かった。それを、認めるのが……」

「友美は、悪くない……って言いたいけど……」

「分かってる。分かってる……。香奈ちゃんの秘密をバラした奴に責任なすりつけて、自分は関係ないふりしてたけどさ……、そうじゃないって分かってる」


『分かってる』と繰り返す友美は、まるで告解室で司祭に懺悔しているかのようだった。


「私だって、香奈ちゃんを自殺に追い込んだ……、加害者だ。それは分かってるのに、どうしても、香奈ちゃんや晴海が、レズビアンだって、受けいれられないの……」


 普段の日常生活の中で、何気なく培われた価値観を、いきなり逆転させて切り替えられる人が、果たしてどれだけいるのだろうか。

 ましてそれが、両親が信仰する宗教の影響を受けているのであれば、その価値観を否定することは、両親を否定することにも繋がる。


 今、友美は揺れている。

 自分がしでかしてしまったこととその気持ちに、正面から向き直りながらも、価値観を反転させることができないでいる。


「友美は、香奈に謝りたいって思ってるの?」

「……うん。謝りたい。でも、同性愛は、受けいれられない」


 板挟みの葛藤の中で絞り出されたその言葉は、苦渋の決断というよりは、自身への苛立ちのように感じられた。

 罪の意識を背負いながらも、その罪の根幹を断つことができない自身への苛立ち。


「今は、それでいいよ」


 私がそう言うと、友美は泣きそうな顔を上げた。


「でも、約束して欲しい」と私は言った。「いつか、時間がかかってもいいから、私や香奈みたいな人たちを、受けいれられるようになるって」

「うん……。約束する」


 友美は顔を伏せて、祈るように両手を握りしめた。


「……晴海。ありがと」


 ぽつりと溢れたその感謝には、彼女の弱さがにじんでいた。

 香奈が自殺し、逃避を選んだ理由を、トヨウミさんは恐怖と弱さが原因だと言っていた。香奈がそうであるように、加害者である朝井や友美もまた、その二つに支配されていた。


 誰の心にも、大雨の後の山肌のように崩れやすく、脆い一面がある。

 それを守るために、誰かを傷つけ、陥れ、弁明し、自己防衛に走り、自身を正当化しようとする。


 そんな中で、朝井も友美も、自分の弱さをさらけ出して、後悔と懺悔の道へ足を向けようとしている。

 唯一、香奈だけは心を閉ざしたまま、悲観に暮れて、海へと潜って姿を隠してしまった。


 だから、今度は私の番なのだろう。

 香奈には、かけたい言葉がたくさんある。

 謝りたい言葉、勇気づけたい言葉、告白したい言葉。

 そして、約束の言葉。


 蒔かれた約束の種は、香奈の知らないところで萌芽しつつある。


 伝えたい。

 香奈が絶望してしまった世界にも、そんな種があり、芽吹き始めていることを。

 そして、それが花咲くところを、一緒に見て見たいと思った。

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