第9話 言葉の架け橋

 私は、学校の授業を無断欠席して、図書室で本を読みあさっていた。

 鯛と神事や祝事との関わり、古事記、世界中にある類似の神話……。


 トヨウミさんから出された条件。

 それは、トヨウミさんの正体を知ること、そして、異界に入る資格を手に入れることだった。

 この二つは密に繋がっており、トヨウミさんの正体を知れば、自ずと異界に入る資格も手に入れられるだろうとのことだった。


 トヨウミさんの正体といっても、『豊海大神』という神では足りないのだろうか。

 たしかに、図書室で調べた限り、鯛を神として祀り上げるという信仰は、この地域以外には見られなかった。


 とはいえ、鯛が神事や祝事とまったく関係がないかといえば、そうではない。

 鯛は、伊勢神宮に神饌しんせんとして捧げられたり、掛け鯛といって婚礼や結納などのハレの日に用いられることもある。古くから、鯛は日本民族の信仰と関わりを持っていた。


 時間の流れは速く、放課後のチャイムが響き渡る頃には、私は一つの仮説に辿り着いていた。

 古事記にある、『山幸彦と海幸彦』の神話。


「……」


 もしこの仮説が正しいのだとすれば、トヨウミさんの、『神の器ではない』という発言にも納得がいく。彼女にとって、祀られるべきは自分ではないのだろう。


「ふぅ」


 試験勉強並に集中していたせいか、少し疲れが出て、椅子の背もたれに体重を預けた。

 図書室の扉が開いた音がして、見ると、朝井が入ってくるのが見え、偶然にも目が合った。


 彼女は一度、気まずそうに視線を逸らしたが、気を取り直したのか、こちらに向かって一直線に歩いてきた。

 私は疲労を振り切って立ち上がった。


「松隈さん。香奈は……、一緒じゃないんですか?」


 開口一番の問いかけは、香奈の所在についてで、私はいきなり弱点を突かれたように狼狽した。


「香奈は……、一人で、家に帰ったの……」


 本当のことをいうこともできず、私は曖昧に濁した答えしか返せなかった。


「そう、ですか……」


 朝井はボールペンで入学願書を書くような慎重さで、言葉を選びながら、ゆっくりと話始めた。


「私、松隈さんに言われたことを、ずっと考えていて……、それで、やっぱり、香奈にちゃんと謝らないといけないって思って。私、香奈と仲直りがしたいんです。香奈の力になりたくて、相談を受けたのに、ただ傷つけただけで終わっちゃうのは、ふ、不誠実だと、思って……」


 朝井は目に涙を浮かべながらも、必死に言葉を探して、自分の想いを舌に乗せて運んでいた。


「アウティングしちゃった私が、誠実さを語るなんて、おこがましいのは分かっているんです。で、でも、だからこそ……、謝らないといけなくて。そうじゃないと……、香奈を、裏切ったままになっちゃうから……。私……、香奈に、会いたいです……」


 たどたどしく、決して上手に説明はできていないが、私は、香奈がどうして朝井にカミング・アウトしたのか、分かった気がした。

 彼女は純粋で、素直で、良い子なんだ。

 でも、だからこそ、この社会の同性愛者に対する差別構造に目が行かず、性善説にまなこを曇らせた結果、安易に口を滑らせたのだろう。


 私のように、身勝手な信頼を他人に期待したのだ。

 私が香奈に、自分の想いを押しつけて、きっと受け止めてくれるだろうと思ったように、朝井もまた、香奈がレズビアンだという事実を、自分と同じように他の人も当たり前に受けいれるだろうと考えたのだ。


「朝井さん。この前、あなたに言ったことね……、私もやってしまったの」

「え?」

「今日の昼休み、私、香奈に告白したの」

「え? え? 告白って……」


 朝井は周囲を見渡して、私たち以外誰もいないことを確認しつつも、少し私に近づいて、声を小さめにして言った。


「れ、恋愛的な意味で、ってことですよね?」

「うん。そう」


 朝井は何故か、嬉しそうな顔をして、何か一人ではしゃいでいるようだった。

 先ほどまでの憂いはどこへやら、何がそんなに楽しいのだろうか。


「じゃ、じゃあ、二人は付き合うことに……」

「それが……、告白が原因で、香奈と、ちょっと……、喧嘩みたいになったの」

「え? どうしてですか?」


 朝井は心底不思議そうな様子で、そう聞いてきた。


「私が、告白の答えも聞かずに、香奈と付き合うことを、クラスのみんなに言っちゃったから、それで、香奈は傷ついたみたいなの」

「で、でも、もう、みんな、知ってますよね。香奈が……、そうだってことは」


 朝井は言いづらそうに、口を小さく動かしながら言った。


「そうだけど、それが原因で香奈は……自殺未遂までしたから、公然と口に出すようなことは、もうなくなっていたの。だけど私は、もう一度、香奈がレズビアンだってことを、おおやけにしてしまった。だから、私も朝井さんと同罪なの……」


 実際に言葉にしてみると、私は自分の犯した罪の重さに膝を折りそうになった。

 私が朝井を責め立てた時、彼女も同じ気持ちだったのだろうか。

 決して間違ったことを言ったとは思えないが、あの時の自身の言葉は、寄生虫のように、ゆっくりと私の心を侵食していった。


「そ、そんなこと、ないと思います」


 朝井は両手を握って、辞書を捲るように言葉を拾った。


「わ、私は、香奈の気持ちを何も考えずに、アウティングしてしまったんです……。でも、松隈さんは、香奈のために、香奈の気持ちに寄り添おうとして、結果的に、似たような状況を作ってしまっただけで……、私と、同罪なんかじゃないと、思います……」


 純朴なその呟きは、厭悪えんおしていた私に、滋養のようにすっと沁み渡った。

 朝井は、優しい子だ。


 自分を傷つけた相手にすら、同情と労りを見せることは、誰にでもできることではない。

 たとえ、傷つけられた言葉にどれほどの正当性があっても、それを十分に飲み込み、自らを内省へと導くことは、バイアスがかかりやすい人間の心の働きにおいて、困難なことであるはずだ。


 しかし、彼女は私の言葉を受けいれ、反省し、更には私を慰めるような優しさまで見せた。

 私は、またしても、言葉で人を傷つけたことを後悔した。

 香奈を傷つけ、朝井も傷つけた。

 もっと他に、言い方はあったはずだ。

 もっと他に、彼女たちの心に寄り添える言葉はあったはずだ。


 正当性を盾に、言葉の暴力を働くことの、なんと簡単なことだろうか。

 私は、あまりに、言葉の力を軽んじていた。


「朝井さん。ごめんなさい」

「……どうして、謝るんですか?」

「私、あなたを責め立てるようなきついことを言って、傷つけてしまったから……。きっと、もっと別の言い方があったはずなのに、感情的になって、あなたを追い込んでしまった。だから……、謝らせて欲しいの……」


 謝ること。

 自分の非を受け止め、もうそんなことはしないと約束すること。

 まるで、素潜りの途中で窒息しかけているかのような、不安が去来した。


「謝る必要なんて、ないです。私が間違ったことをしたことは、事実ですから。それに、あれから、アウティングとか、同性愛について調べたんですけど、知れば知るほど、私のしたことが、ど、どれだけ、香奈を苦しめたのか、わ、分かって……、だ、だから……、あ、謝らないと、いけないのは、わ、私の方なんです……」


 朝井は落涙しながらも、懸命に言葉を紡いで、自身のあやまちを認めた。

 改悛する朝井を目の前にして、私は、まるで橋がかかったように、彼女との間に繋がりを得たように感じた。


「朝井さん。私、あなたを許したい」

「……松隈さん……」

「でも、あなたを許す資格を、私は持っていない。それを持っているのは、香奈だけだから。だから、香奈にちゃんと伝える。あなたが謝りたいこと、反省していること、そして、あなたが信頼できる人だってことを、必ず伝える」

「あ……、ありがとう。ありがとう、ございます……」


 朝井は、必死に感情を押し留めようとしていたが、ぽたぽたと、床に滴を落とすことを止めることはできなかった。


 私たちは、互いに知らない部分に触れあう時、どうしても言葉が必要になる。

 しかし、お粗末に言葉を振り回すと、言葉が持つ暴力を振るうだけに終わり、到底、対等な関係性の中で、互いを尊重し合うなんてことはできない。


 拙くてもいい。

 洗練されていなくてもいい。

 ただ、互いに知らない部分があるのだということを認めて、話しはじめればいい。


 言葉は暴力になると同時に、尊重の架け橋にもなり得る。

 すべては、使う人次第。


 私はそれを胸に刻み込み、それに気づかせてくれた朝井に、深く感謝していた。

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