第8話 善意の暴力

 香奈が人魚に戻って海へ去って行ってしまった後、私は学校の上履きのままであることに気づきながらも、だからといって学校に戻る気にもなれず、とぼとぼと海沿いを歩いていた。


 あれだけ朝井を強く非難しながら、自分も同じようなことをしたことに、自己嫌悪を覚える。

 異性愛が当たり前であるという神話が信じられている日本の中で、レズビアンだとカミング・アウトして、同性愛嫌悪ホモフォビアに晒されながら生きることが、どれほど苦難の道を往くかは、想像するに及ぼない。


 それでも私は、香奈と一緒なら乗り越えられると信じて、香奈の意思を確認せず、香奈が抱える恐怖を理解せず、その脅威に晒される状況を作り出してしまった。

 仮にそれが善意による行為であったとしても、本人の了承なしに、安全が脅かされる状況を作り出すことは、善意の暴力だ。


 善意もまた、人を傷つけるだけの力を孕んでいる。


 気がつくと私は、海沿いの漁協センターの広場に建つ、『豊玉姫神社』の前まで来ていた。

 注連縄が巻かれた石造りの鳥居の下で、木製のお社にお参りする、見覚えのある女性を見かけた。


 トヨウミさんだ。

 先日と同様の格好をした彼女は、私に気がつくと、かつかつとハイヒールを鳴らしながら近づいてきた。


「あなた、たしか、香奈の幼馴染の……」

「晴海です。松隈、晴海です」

「さっき、私の領域に香奈が戻ってきたのが伝わってきたけど、あの子、また人魚になったのね。あなたが関係しているのかしら?」


 神というだけあってから、自分の管理する領域に誰かが入れば、それを感知できるようだ。

 それより気になったのは、香奈の人魚化についてだった。


「分かりません……。だから、教えてください。どうして、香奈は人魚になれるんですか?」

「単純な話よ。いわゆる、先祖返りのように、香奈に私の血が色濃く受け継がれた、それだけの話よ」

「……香奈も、神様なんですか?」

「流石に、そこまで血は濃くないわよ。第一、私は神の器ではないわ。正直、ここに『豊玉姫神社』が建って、安心したくらいだもの」


 どういう意味だろう。

『豊海大神』という名で祀り上げられていたのにも関わらず、器ではないとは。

 そういえば、『豊玉姫神社』の祭神は、豊玉姫命トヨタマヒメノミコト玉依姫命タマヨリヒメノミコトだったはずだが、何か関係があるのだろうか。


「香奈は私の血と、人間の血が混ざり合っている。でも、いくら先祖返りとはいえ、その血はやはり薄い。だから、鯛への変化へんげが自分のコントロール化にない状態なのよ」

「香奈は、自分の意思で、鯛にも、人魚にもなることはできない、ってことですか?」

「そう。自分の持つ力が制御下にないから、鯛への変化も、下半身だけと中途半端になるし、鯛になることも、人に戻ることも、彼女の意思だけでは、どうすることもできない。香奈はそういう存在よ」


 人魚化は、あくまでも鯛になる前段階に過ぎず、しかも香奈は、『豊海大神』の血が中途半端に流れているせいで、完全に鯛になることもできない。

 いや、違うなのか。


 『豊海大神』という鯛の神様は、人間に化ける力を持っているからこそ、今のように人間の姿を取ることができる。

 しかし、香奈は元々が人間だ。

 本来、神が持つ力を、本質が人間である香奈が、中途半端とはいえ扱えている状態こそ、異常なんだ。

 それが、結果として人魚という半端な姿を取ることに繋がった。

 しかも、完全には制御できていない。


「なら、香奈は、どうすれば人間に戻れるんですか?」

「……そもそも、香奈は人間に戻りたいのかしら?」


 核心を突く問いかけに、私は思わず口をつぐんだ。


「香奈の鯛化は、彼女自身の精神状態に依存しているわ。最初は自殺するほどのストレスがきかっけとなった訳だけど……、今回は、どうなのかしら?」

「……」


 香奈の精神状態。

 それはつまり、香奈の想い。

 私が気づけなかった香奈の想い。私が踏みにじってしまった香奈想い。

 それが、人魚化を促した。

 私の責任だ。


「きっと、香奈は迷っているのでしょうね」

「……迷ってる、ですか?」

「人として生きるべきか、人ならざる者として生きるべきか。迷いがあるから、人と鯛を行ったりきたりしている。何か、人の世界に未練があったからこそ、この前のように、人間に戻ることができたのでしょうね」


 香奈の迷い。

 それは、私の希望的観測か、はたまた淡く幼い願望の一種かもしれないが、ひとつだけ、心当たりがあった。

 しかし、その心当たりが真実だとしても、香奈は人間社会で生きることを怖がっている。


 その恐怖を取り除くことが、私にできるだろうか。

 いや、完全に取り除くことは不可能だ。

 日本社会が、異性愛を常識のものとし、その規範を維持し続ける限り、新聞やテレビやインターネットやSNSを通じて、その規範は人々の中に当然のものとして構築される。


 そして、異性愛規範が浸透すればするほど、同性愛者というマイノリティの存在は、『いない』ものとして扱われる。

 自分の周囲に同性愛者がいると考えている人が、一体、どれだけいるというのだろう。

『いない』ものとして捉え、異性愛規範に染まっているからこそ、実際に私たちが表に出てきた時、その拒否感は、嫌悪感として表れ出る。

 いわゆる、同性愛嫌悪ホモフォビアとして。


 だとすれば、どうすれば良いのだろう。

 香奈の持つ恐怖を取り除くこともできないままでは、仮に人間に戻れたとしても、また香奈は海へ飛び込むだろう。

 同じことの繰り返し。


 分からない。

 どうすれば良いのか、分からない。


「……人は、独りで生きるものではないと思っていたけど、私の思い違いかしら?」

「え?」


 まるで、私の心を読み取ったように、トヨウミさんは言った。


「『鯛女房』。あれが実話だという話は、以前したわね?」


 トヨウミさんの問いかけに、私はひとつ頷いた。


「私は夫に本来の姿を見られた結果、海に戻ることになった」


 トヨウミさんは、遠い昔に思いを馳せるように、地平線へ視線を投げかけながら話始めた。


「『見るな』という禁止を破ってしまった夫は、それでも私を愛しているといってくれた。もしかしたら、私はこのままここにいていいんじゃないかって、淡い希望を持ったりもした。けれど、夫と一緒にお産を目撃した義母の口から、私の正体が漏れて、私は村を追われた」


 同じだ。

『見るなの禁止』を破ること、それは本来の自分を、自分の意に反して他人に見られることだ。

 香奈もまた、自らがレズビアンだというプライベートな自分を、自分の意に反して噂を広められた結果、学校という人間社会を追われた。


 トヨウミさんは、香奈が自分の子孫というだけではなく、自身の境遇に似ているからこそ、同情して、香奈の味方になってくれているのかもしれない。


「愛する人と一緒にいることに慣れ親しんだ結果、私は孤独の辛さを知った。人と私とでは、時の流れは異なる。いずれは別れる運命だったとはいえ、それでも、私はあの人の傍で、あの人の人生を共に歩みたかった」


 サングラスで彼女の表情はうまく読み取れなかったが、その言葉の端々に、憂いを感じた。


「香奈が真に怯えているのは、自身の弱さ……、社会や他人からの否定、嫌悪、侮蔑、汚辱、中傷、そうしたものに耐えることも抗うこともできない弱さ。でも、それは、自分の責任ではないし、独りで抱え込むようなものでもないと、私は思うのだけれど、あなたはどうかしら?」


 私は、自分が同性愛嫌悪ホモフォビアに抗おうとする意思を香奈に押しつけるだけで、香奈の弱さに寄り添えなかった。

 一緒なら大丈夫だと伝えたいがための、独りよがりの願望は、香奈の弱さを刺激するだけに留まり、香奈の恐怖を理解し、それを共に背負うことをしなかった。


 私は、キャッチボールをしているようで、その実、ただ壁に向かってボールを投げていることに気がつかなかった。

 一方通行の対話に、相互理解など、望むべくもないのに。


「……私は、香奈と約束をしたいです」

「それは、どんな?」

「私と香奈は、同じレズビアンですけど、やっぱり、人間である以上、違うところがあります。だから、その違いを尊重しながら、一緒にこの社会を歩いて行こうという、約束をしたいです」


「……香奈は、自身がレズビアンだということを、信頼していた人の口から暴露されている。その傷口は依然深く、それが恐怖と弱さに繋がっているわ。そんな彼女と一緒に歩くということは、その傷も一緒に背負うことになる。その覚悟が、あなたにはあるの?」

「私は、好きな人に幸せになってもらいたい。そのために必要であれば、喜んで受けいれます」

「ふふ。若いわね。でも……」


 トヨウミさんは『豊玉姫神社』の方を向いて、独り言のように呟いた。


「そう言ってくれる人が傍にいることは、何よりも幸せなことよね」


 そういえば、豊玉姫命トヨタマヒメノミコトもまた、出産の際に、本来の八尋和邇ヤヒロワニという姿を見られて、夫の元を去ったのではなかったか。

 もし、豊玉姫命にも、トヨウミさんにも、同じことを言ってくれる人がいたなら、あるいは……。


「いいわ。あなたを、香奈の元――私の領域へと連れて行ってあげる」

「ほ、本当ですか?」

「ただし、条件があるわ。それは――――」

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