第7話 公然の秘密 其の2

 私は再度、香奈の手をしっかりと握って、香奈を引っ張って空き教室を出た。


「ど、どこに行くの?」

「教室に戻る」

「え? あ、で、でも、手繋いだまま戻るのは……」


 香奈の言いたいことは分かる。

 香奈がレズビアンだということは、既にみんなが知っている事実だ。先生のお達しもあり、誰もそれに触れようとはしないが、既に公然と知れ渡っている。


 だからこそ、そんな香奈と幼馴染である私が手を繋いでいるという事実は、そういう関係なのではないかと、みんなが憶測することは、想像に難くない。

 でも、それでいい。

 それでいいと決めた。


 私は香奈と手を繋いだまま教室に入った。

 一時の休みにはしゃぐ喧噪の中で、友美だけがこちらに訝しげな視線を投げかけ、途端に顔をしかめた。

 朝井は、香奈が逃げてしまったことに落胆したのか、既に教室を去ったようで姿は見えなかった。

 私は香奈と教壇に上がると、声を張り上げて、クラス中の視線を集めようとした。


「みんな聞いて!」


 クラスメイトの好奇な視線や迷惑そうな表情、疑問を浮かべた顔など、思い思いの感情に刺されながら、私は自身の心のクローゼットを開け放った。


「私、実はレズビアンなの」


 数秒の沈黙の帳が降りてから、それを破るように友美が立ち上がった。


「晴海、何言ってんの? 本気?」


 友美の口調からは嘲るような感情が漏れ出していた。


「本気。それでね」


 私は怯えたように縮こまる香奈を見て、そっとその肩を抱き寄せた。

 びくりと、蛇の接近に気がついた猫のように香奈の体が跳ねた。


「私、香奈と付き合うことになったから、そこんとこ、ヨロシクね」


 私の唐突なカミング・アウトに最初に応えたのは、やはり友美だった。


「ハァ? 嘘でしょ? ありえな。きっしょ」

「いいよ、キモくて。私は、好きな人と一緒にいたいだけだから」


 私の返答に友美は苦虫をかみつぶしたような顔をすると、


「あっそ。勝手にすれば」


 と言い放って席に着いた。

 気がつくと、香奈は冷や汗を垂らしながら、うるんだ眼で体を震わせていた。その姿は、ケージに押し込められた野良猫のようであり、不安、不満、怯え、恐怖、様々な感情が、汗のように酸っぱい匂いを立てていた。


「香奈……?」


 香奈は力任せに私の腕を振りほどくと、荒々しい走り方で、逃げるように教室を飛び出していった。


「香奈!」


 私は再び、香奈を追いかけることになった。

 香奈を追いかけながら、彼女の足やスカートの中から、桃色の輝く魚の鱗――鯛の鱗が落ちていくのが見えた。

 鱗が点々と道しるべのように廊下や階段に落ちていく。


 水泳部に所属する私の方が運動能力は高いはずなのに、結局追いついたのは、校舎を抜けて、学校の敷地内から出た後だった。

 海沿いの歩道で、私は息も絶え絶えに香奈の肩を掴んだ。


「はぁ、はぁ、はぁ」


 見ると、香奈の両足は鯛の鱗でびっしりと埋もれていた。


「香奈……、どうして……? やっぱり、私のこと、嫌いなの……?」

「……晴海には、私の気持ちなんてわかんないよ……」


 背中を向けたまま、香奈は突き放すようにそう言い放った。


「私は!」と香奈は叫んだ。「もう誰にも、レズビアンだってことに触れられたくなかった! 学校に来るのだって、本当は恐かった! くるみちゃんが目の前にきた時、怖くて吐きそうになって、もう帰りたかった!」


 香奈は肩に乗せた私の手を払って、私に向き直った。


「私はもう……、人を好きになりたくない。女性を好きになることで傷つけられるくらいなら、恋愛なんてしなくていい」

「香奈……」

「そっとしておいて欲しかった。私がレズビアンだってことは、もう二度と、誰にも話さないようにしようって思ってた」


 その言葉に、私の心臓は跳ね上がった。


「だけど、晴海は、私のこと、そっとしておいてくれないんだよね」

「あっ……」


 その時、私は自分がしでかしたことに気がついた。

 私もまた、朝井のアウティングと同じように、香奈から、自分の秘密を、プライバシーを公開する権利を奪っていたことに。


 香奈がレズビアンだという事実は公然と広まっていたが、それは触れてはならない、災禍が詰まったパンドラの箱のように扱われ、いわばとなっていた。

 香奈はそれを、秘密のままにして欲しかった。


 しかし、私は二度目のアウティングをしてしまった。

 香奈の味方だと表明したいがための我が儘によって、善意で香奈を傷つけてしまったのだ。


「また、噂されちゃうね。あの二人、付き合ってるんだって、って言われるんだよ。指さされるんだよ。友美だって、あんな露骨に嫌そうな顔してたじゃない。もう、学校、来られないよ」


 何か布地が破ける音とともに、香奈のスカートの中から、ショーツがぽとんと落ちた。

 香奈の両足がくっつきはじめていた。

 また、人魚に戻ろうとしている。


「駄目……。香奈、駄目……」

「もう、いい……。人間世界は、息苦しい……。私は、こんなところで、生きていたくない……」


 その言葉を最後に、香奈は歩道からガードレールを超えて、海に飛び込んだ。


「香奈!」


 急いで海を見やるが、最後に見えたのは、生彩に跳ねる大きな鯛の尾ひれだけだった。

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