第6話 公然の秘密 其の1
香奈が登校してきたのは、あの再会の日から、一週間後のことだった。
その前日、担任の先生からは、
また、それを理由に、香奈に対して攻撃的な言動をしないようにとも。
私からしてみれば、随分と遅いお達しだと思った。
実際に何かの事件にまで発展しなければ動かない学校側の体制に、憤りすら覚える。
香奈が自殺にまで及んだ件には、触れられもしなかった。
あくまでも、行方不明だった香奈が、再び登校してくるので、気遣って欲しいということで、話は終わった。
そして、今日。
香奈は一人で登校してきた。
本当は、私も一緒に連れ添おうと思ったのだけど、香奈の母親から、香奈が一人で登校したいとの話を受けて、私は一足先に一人で登校した。
どうして、香奈が私まで避けるのか、その理由はまだ分からない。
再会したあの夜は、自分から会いに来てくれたのに……。
香奈が教室の黒板側の扉から入ってくると、教室は一瞬だけ沈黙し、またいつもの騒々しい空気に戻った。
香奈は顔を伏せながら、自分の席に向かっていった。
「おはよー。香奈ちゃん」
友美が通り過ぎようとする香奈の背中にそう声をかけると、香奈は少し怯えたように肩をふるわせて、聞こえるか聞こえないかの声量で、
「お、おはよう……」
と返すと、急ぎ足で自分の席に着いた。
「……晴海さ、香奈ちゃんとなんかあったの?」
「……なんで?」
「いや、だって、てっきり二人で登校してくるもんだと思ってたからさ。幼馴染でしょ?」
「なんか、分かんないけど、一人で登校するって言われて……」
「たしかに、分かんないなあ。私だったら、親友が一緒に登校してくれた方が心強いけどなあ」
腐った木の橋を渡るような、得体の知れない不安感があった。
香奈の席まで行って、話しかけようとも思ったが、その不安感が邪魔をして、一歩を踏み出せなかった。
まるで、精巧で壊れやすいガラス細工に触れるのを躊躇うような、そんな臆病な自分がいた。
結局、香奈に話しかけられないまま、午前の授業が終わった。
私以外にも、香奈に話しかける人はいなかった。
昼休みに入ると、香奈は独りで早々に小さな弁当を
私が香奈の様子を心配しつつ、友美とその友達と一緒に、お喋りをしながら弁当を食べていると、教室の扉が開いて、誰かが顔を覗かせた。
朝井くるみだ。
不安げな表情を顔に貼り付けながら教室を見渡して、何かを見つけたように表情を変えると、教室の中に入ってきた。
クラスメイトは見慣れない他のクラスの子が入ってきたことに興味を示したのか、お喋りや食事を続けながらも、朝井のことを気にしている様子だった。
朝井は一直線に香奈の席へと向かっていた。
私は嫌な予感がして、急いで弁当を片付け始めた。
「あ、あの……、香奈……」
朝井が香奈の目の前に立って、そう話を始めると、香奈の顔は真っ青になって本を持つ手が震えだした。
香奈は勢いよく立ち上がると、その拍子に椅子が鈍い音を立てて床に倒れた。
クラス中の視線が吸い付けられるように集まった。
香奈は敏捷なネズミのように教室を出て行った。
朝井は追いかけることもせず、どうすれば良いのか迷い、どこか怯えている様子でもあった。
私は駆け足で教室を出て、香奈の後を追った。
「香奈! 待って!」
事前に不安をキャッチしていたのが功を奏したのか、私は香奈が階段を降り切る前にその背中に追いつき、彼女の湿った手の平を握ることができた。
軽く息を切らしながら、香奈はそっぽを向いたまま無言を貫いた。
「……香奈。朝井はともかく、どうして、私のことまで避けるの?」
「……」
階段途中で足を止めた私たちに視線を向ける、通りすがりの生徒を気にして、私は近くの空き教室まで香奈を引っ張っていった。
空き教室の扉を閉めて、二人きりになったところで、私は香奈の正面に立った。
香奈は顔を俯かせたまま、ただ黙っていた。長い前髪が香奈の顔に影を落としていた。
「香奈。言いたくないことは言わなくて良いよ。でも……、私のことまで避けるのは、どうして? 嫌いになったの?」
「ち、ちが……」
私の言葉に咄嗟に顔を上げた香奈と、視線が交差した。
途端に、香奈は顔を真っ赤にして、また顔を落とした。
「あ、あの夜のことを、思い出すから……」
「あっ」
あの夜。再会したあの夜。
月光の下で、口づけをした。
香奈の唇の柔らかさと、幸福感に満たされた気持ちを、思い出して、私の顔は熱を帯びた。
「は、恥ずかしかっただけなの……?」
「……き、気まずくて……。どういう顔して会えばいいのか、分からなくて……」
私は必死に脳みそをフル回転させて、香奈の気まずさをどうすれば解消できるか考えた結果、とっておきを思いついてしまった。
「香奈」
私はそう呼びかけると、香奈の片方の手をきゅっと握りしめた。
柔らかい手の平は熱を持っていて、それが香奈の体温だと思うと、どうにも愛おしく思えた。
「私、香奈のことが好きだよ」
そう口にした途端、私は想像以上の羞恥に包まれて、体中が沸騰したように熱くなった。
私の言葉に驚いたように、香奈は顔を上げると、頬も耳も上気しており、照れているのが見て取れた。その反応が、私を期待させ、昂揚させた。
「そ、それって……、あの……、その……」
「れ、恋愛的な意味で……、だから」
口ごもる香奈の言葉を私が引き継いだ。
「え……? あ……、う、嘘……」
「嘘じゃない。本当に、好きなの。中学の頃から、ずっと、好きだった」
「……そ、そんなの、いきなり言われても、信じられない……!」
香奈は乱暴に私の手を振りほどいた。
「香奈……」
「わ、分からない……。私、もう、誰を、何を信じていいのか、分からないの……」
ぱらり。
と一枚の鱗が香奈の足から剥がれ落ちるのが見えた。
その瞬間、私の中に湧き上がったのは、このままでは駄目だという、確信めいた直感だった。
香奈は、トヨウミさんに人魚にしてもらったと言っていたが、トヨウミさんはそのことについて言及しなかった。
もし、トヨウミさんの力によるものでないとしたら?
もし、もっと別の要因……、そう、たとえば、強い精神的なストレスがトリガーとなって、香奈に流れる『豊海大神』の血が暴走のように作用したのだとしたら?
もう一枚、鱗がスカートの中から落ちてきた。
「じゃあ、嘘じゃないって、証明してあげる」
「え?」
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