第3話 豊海大神の来訪 其の2

『鯛女房』という創作された民話の話をするのかと思いきや、それは、実話で、しかも民話に登場する鯛がトヨウミさんだという。

 あまりにも突拍子もない話に、私は混乱しかけた。


「私は、自分を逃がしてくれた男性に恋をし、押しかけ女房にやってきて、最終的には子どもを出産した。でも、夫は、私が『見るな』と言ったお産を見てしまい、それで私は去ることになってしまった」


『鶴の恩返し』と同じだ。

『見るなの禁止』を犯した結果、人間ではない異形の者が去る話は、民話でも、神話でも、よく見られるものだ。


「私は人間の姿で夫の元に嫁いだけど、お産の際には本来の姿に戻る必要があった。夫にお産を『見るな」と言ったのは、本来の姿を見られてしまっては、人の世界にはいられなかったからなの」


 私はその物言いに引っかかるところがあった。

『本来の姿を見られてしまっては、人の世界にはいられなかった』。

 それはどこか、私のような同性愛者に通じるところがあるように思えてしまった。


『本来の姿』を、『同性愛』というセクシュアリティに置き換えれば。

『人の世界』を、『学校』や『職場』や『家庭』に置き換えれば。


 それは、先ほど港で言っていた香奈の言葉の意味、そのままではないか。


「あの、さきほどから何の話を……」

「つまりね。あなたたち『古賀家』は、その鯛の血――ひいてはのよ」

「……」


 果たして、この話を信じられる人間が、この場にいるだろうか。

 話の内容は理解できるし、仮に『鯛女房』の民話が実話だったとしよう。


 だが、目の前のこの女性が、その鯛であると、誰が信じられるだろうか。

 香奈の人魚姿を見た私でさえ、目の前のトヨウミさんは、普通の人間にしか見えない。


「理解していないようだから言っておくけど、私は普通の鯛ではないわ」


 まあ、そうだろう。人間に化けられる鯛が、普通の食卓に並ぶ鯛なはずがない。


「私の名前は、『豊海大神トヨウミオオカミ』。かつて、この地に祀られていた神。あなたたちは、その神の血を引く子孫なのよ」


 その話を聞いた香奈の母親が口元に手をやって、何かを思い出した様子で口を開いた。


「そういえば……、祖母から、空襲で焼け落ちてしまったけど、『豊海大神』を祀った神社があったって……」

「そうね。昔こそ神社で、『五穀豊穰、大漁満足、港繁盛』の御神徳ごしんとくがあるとして祀られていたけど、今はほら、豊玉姫命トヨタマヒメノミコト玉依姫命タマヨリヒメノミコトを祀っている神社があるでしょ? 戦後はそちらに取って代わったから、私のことを覚えている人は、もういないみたいなのよね。『古賀家』ですら、そうなんだから」


 豊玉姫命と玉依姫命。

 たしか、近くの『豊玉姫神社』の祭神が、そんな名前だったと記憶している。


「どうせ、私が神だと言っても信じないでしょうから、証拠を見せてあげる」


 彼女はそういうと、腕をテーブルの上に置いた。

 すると、腕から桃色の鮮やかな鱗が次々と生えてきて、前腕をびっしりと覆った。

 ついには、ひれまで生えてたところで、その現象は止まった。


「はい。ここまで」


 トヨウミさんがそう言うと、腕は徐々に鱗とひれが後退していき、完全に人間の腕に戻っていた。


「……」


 香奈の母親は呆然としていたが、香奈はもちろんのこと、香奈の人魚姿を見ていた私も、そこまで驚かなかった。


 どちらかというと、トヨウミさんが『豊海大神』という名の神であるという事実の方に驚いている。

 しかし、神でもなければ、人間を人魚に変えることなどできないと思われるため、彼女が神だとした方が納得がいく。


「これで、最低限の説明は済んだと思うから、本題に入りましょうか」

「……香奈の話、ですよね」


 トヨウミさんの話を信じたのかどうかは分からなかったが、香奈の母親は真剣な表情で、トヨウミさんに向き直った。


「香奈は今まで、神である私が管理する領域――異界と呼べば分かりやすいかしら。海の中にその領域があって、香奈をずっとそこで保護していたの」

「……そう、ですか。お礼を、言うべきなんでしょうね」


 非現実的な話をまだ飲み込めていないのか、香奈の母親は困惑した様子だった。


「ま、あなたが私の話を信じるか信じないかは、正直、あまり問題ではないわ」

「どういうことでしょうか?」

「だって、香奈の問題は、あなたたち家族の問題でしょ? あとは……」


 と言って、トヨウミさんは私に視線を向けてきた。


「あなたは、香奈の……友達?」

「……はい。幼馴染です」

「なら、あなたも無関係ではないわけね。それなら、これはあなたたち三人の問題」


 そういうと、トヨウミさんは立ち上がった。


「私は、今まで香奈を保護していたことを説明しにきただけ。そして……」


 トヨウミさんは香奈を見下ろして言葉を続けた。


「香奈には、もう既に逃げ込める場所があるということ。もし、あなたたちが、香奈ときちんと向き合わなければ、香奈はまた『行方不明』になるでしょうね」

「……それは、脅しですか?」

「言ったはずよ。これはあなたたちの問題であり、最終的に決断するのは香奈。私は、自分の血を引く子孫が助けを求めたのであれば、手を貸すだけ。過度な干渉はしないわ」


 そう言い残して、トヨウミさんは背中を向けて去って行った。

 あとに残ったのは、沈黙と気まずさだけだった。


「晴海ちゃん。香奈と、二人で話をしたいから、申し訳ないけれど……」

「……分かりました……」


 私もトヨウミさんに続いて立ち上がった。

 そして、香奈に顔を向けた。


「香奈。何かあったら、必ず、相談してね。お願いだから、もう、一人で抱え込まないで」


 私の言葉に、香奈は目を伏せて頷いた。

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