第2話 豊海大神の来訪 其の1

 人間に戻った香奈は、下半身が裸で、恥ずかしさのあまり海に飛び込んでしまった。

 私は急いでバスタオルと替えの服を家に取りに行き、香奈に体を拭かせて、Tシャツと短パンに着替えさせた。

 そして、私の家の数軒先にある香奈の家、『古賀家』に彼女を連れて行った。

 モザイクガラスがはまった古い木の扉を開けて中に入ると、香奈がか細い声で、


「た、ただいま……」


 と言った。

 呼び声に答えて、小走りで香奈の母親が出迎えた。


「……香奈?」

「……お母さん……」


 香奈の母親は、娘が自殺した影響か、惨苦さんくの陰りが顔に見て取れたが、パーマがかかった若々しいショートカットの髪型と手入れされた肌はまだ綺麗で、四十代のはずだが、年齢よりも若く見える。

 彼女は呆然としたと思うと、瞳から滴を流しつつ、香奈に駆け寄ってその小さな体を抱きしめた。


「生きてた……。生きてた。よかった……、ほんとに、よかった……」

「……ごめん。ごめんなさい、お母さん……」


 母親の感涙がうつったのか、香奈も母親の背中に手を伸ばしながら嗚咽した。

 泣きじゃくる二人の再会の後ろで、私はそっと去るべきか考えてしまった。

 私が決断を下す前に、二人は離れて、香奈の母親が目元を拭いながら、私に視線を向けた。


「晴海ちゃんが、香奈を見つけてくれたの?」

「えっと……、はい、そう、ですね」


 間違ってはいない。

 しかし、香奈が人魚になってトヨウミと名乗る鯛のお世話になっていた、などという荒唐無稽な話をするわけにもいかず、私は曖昧な答えしか返せなかった。


 思わず目線を泳がせると、香奈と目が合い、お互いに顔を赤らめた。

 結局、突然、キスしてしまったことは、香奈が人間に戻ったことでうやむやとなり、理由も何も話せなかった。


 ただ、あの柔らかくて甘い味だけは唇に残っていて、私は思わず、唇に指を這わせた。

 それを見た香奈が、更に顔を赤くして、このままだとタコのように茹で上がりそうだと思った。


「晴海ちゃん……、ありがとうね」

「いえ……」


「こんばんは」


 その時、まるで間を見計らったかのように、後ろから声をかけられた。

 開け放たれた玄関の外に、一人の背の高い女性が立っていた。


 四角い大きめのサングラスをかけ、ラッフルがデザインされたワンショルダーの黒いトップスを着ていた。ダメージスキニーデニムからは足首が覗き、白いハイヒールが素足を飾っている。

 自分の魅力をよく分かっている人特有の自信に満ちあふれた佇まいだった。


「帰ってこないと思ったら、やっぱり戻っちゃっていたのね」


 香奈に視線を向けながら、アルコール度数の高い蒸留酒のような、とろんとした声で、彼女は言った。


「あ、あの……、何か、ご用でしょうか?」


 香奈の母親の当然の疑問に対して、その女性は含み笑いで答えた。


「あなたの子ども、そう、行方不明だった香奈を、今まで世話していた者よ」

「え?」

「あ、あの、お母さん……」


 香奈の母親の隣から、謎の女性を庇うように香奈が言った。


「その……人は、トヨウミさんっていって、今まで私を……保護してくれていた人なの」


 言葉を詰まらせながらの説明になったのは、この謎の女性――トヨウミさんが、例の香奈を人魚にしたという鯛なのだろう。

 だが、鯛の要素はどこにも見当たらない。

 キャリアを重ねた都会の会社勤めの、『できる女性』というイメージだ。


「……そうだったんですね。今まで、娘がお世話になりました」


 あまり納得のいっていない様子だったが、香奈の母親は丁寧にお辞儀をして礼を述べた。


「……やっぱり、血は薄いわね。まあ、もう十世代以上は経っているだろうから、当然か……。香奈が特別なだけで」


 トヨウミさんの謎の発言に、私たちは当惑した。


「中で話しましょう。落ち着いて、話せるところで」


 トヨウミさんの提案に、香奈の母親は少し戸惑いながらも、流石に娘が世話になった人を無下にはできないのか、トヨウミさんを案内して、私たちはリビングへ足を運んだ。

 椅子に腰掛けると、早速、トヨウミさんが口を開いた。


「さて、どこから話したものかしらね」とトヨウミさんは悩むように言った。「あなたたち、『鯛女房』の話は知っているでしょう?」

「……え?」


 突然、なんの話かと私たちは首を傾げた。


「『古賀家』に伝わっている話だと思ったけど……、もしかして、もう忘れられてしまったのかしら?」

「……えっと、確かに、私の母から話は聞いたことはあります」


 答えたのは香奈の母親だった。


「たしか、釣った鯛を逃がした男性のところに、その鯛が押しかけ女房にやってくる話ですよね? 結局は、鶴の恩返しのように、男性が何かを見てしまって別れてしまうとか……。この辺りの地区に伝わる民話だと聞いていますが、その話が何か?」

「ああ、その程度しか伝わっていないのね」


 トヨウミさんは面倒くさそうに言った。


「信じられないでしょうけど、とりあえず、私の話を聞いて頂戴」


 そうトヨウミさんは前置きをしてから、話はじめた。


「その釣った鯛を逃がした男性は、あなたたちの祖先なの。もう何世代前か、具体的には私も分からないけど、その話はなの。決してただの民話ではないわ」

「……は、はあ……?」


 香奈の母親は突拍子もない話についていけていない様子だった。

 香奈が人魚になっていたのを知っている私でも、トヨウミさんが何を言いたいのか分からなかった。


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