人魚へのキス

中今透

第1話 人魚へのキス

 ほんの数日前のこと、幼馴染の友人――古賀香奈こがかなが自殺した。

 奥裏湾おくうらわんを一望できる眺めの良い展望台から、身を投げたのだ。

 展望台に残されていたのは、一揃いのローファーと一通の遺書。

 いくら幼馴染といえど、親族でもない私には、遺書までは読ませてはもらえなかった。


 しかし、どうして香奈が自殺しなくてはならなかったのか。

 学校の噂話を聞いて、私はその理由を察していた。


 香奈の死を想いながら、私は平日の夜九時を回る頃、家の近くの港を歩いていた。

 夏も真っ盛りだったが、田舎の港町は風が吹いて気持ちがいい。

 嗅ぎ慣れた潮の香りが風に乗って、鼻孔をくすぐった。


 私は趣味で小説を書いていたが、香奈のことを考えるとまったく手につかず、ネタも出てこなかったため、頭と心の整理をするために、こうして散歩をしていた。

 漁船が並ぶ海沿いをのんびりと歩いていた、その時である。


「晴海」


 そう、私――松隈晴海まつくまはるみの名前を呼ぶ声が聞こえた。

 見ると、コンクリート造りの防波堤に見覚えのある少女が座っていた。


「……香奈……?」


 その少女は、自殺したはずの幼馴染、香奈だった。

 私は駆け足で近づくと、香奈の姿に息をのんだ。


 街灯も少ない田舎で、遠目からではよく見えなかった香奈の外見が、近くまで寄るとよく見える。


 香奈の足が――人魚のような魚の尾ひれになっていた。


 桃色の鱗に覆われ、腹の方は白味を帯びている。

 はっきり濃い赤の尾びれに、背びれまでついている。


 さぁぁ、と風が肌を撫でる。

 青暗い月夜のそよ風の中で、香奈の濡れたストレートの黒い髪が、肩口でわずかに揺れた。彼女の髪や、リボンが付いた学校のワイシャツから、ぽたぽたと水滴が落ちる。


 幼馴染の異形な姿におののくより、私は何よりも、その美しさに惹かれた。


「綺麗……」


 思わず口から出た言葉に、香奈は驚いた様子で口元を覆い、頬をリンゴのように赤く染めた。

 照れているのだろうか。

 相変わらず、かわいらしい女の子だと思った。


 私は香奈の隣に腰を下ろした。

 体中がびっしょりと濡れた香奈からは、海水の匂いが漂ってくる。


「……生きているん、だよね?」


 自殺したはずの幼馴染と、生きて再会できたことを確かめるように、そっと聞いた。


「生きてるよ」

「……よかったぁ……」


 心の底から安堵すると、体中から力が抜けたような気持ちになった。


「それでね……、晴海に聞いて欲しいことがあって、待ってたんだ」

「待ってた?」

「晴海、小説に行き詰まったら散歩するって言ってたでしょ? だから、ここで待ってれば会えるかな、って思って」


 私が趣味で小説を書いていることを知っているのは、ネット以外の知り合いでは、香奈一人だけだった。

 そんな香奈に、私はよく小説を読んでもらっていた。その中で、ネタ出しで行き詰まったら、散歩をして気分転換をするのだと話したことがあった。


「……聞いて欲しいことって?」


 そう聞いた私だったが、香奈の言いたいことは、なんとなしに分かっていた。


「……その、ね……」


 と香奈は言いよどんだ。


「私が、どうして自殺したか……。知ってる?」

「……学校の噂になっていたことと、関係しているんだよね?」

「うん。私が……、レズビアンだってこと」


 香奈の話と、私が学校で聞いた噂話を合わせると、こういうことになる。

 香奈は図書委員会で仲良くなった友達を信頼できると見込んで、恋愛の相談をしていたのだという。香奈が誰を好きになったのかは曖昧に濁されたが、問題は、相談した相手が間違っていたことだった。


 相談相手の友達は、香奈がレズビアンであることを軽く捉えて、世間話程度に、クラスメイトに話したらしい。そこから話は学校中に広がり、気がつけば、香奈は孤立していた。

 元々、友達付き合いの輪が広かったわけでもないが、レズビアンだという噂が、香奈を他の女子から遠ざけた。


 決定的となったのは、体育の着替え中のことだった。

 クラスメイトの女子の一人が香奈に言い放った言葉。


「女子が好きなんだったら、別の教室で着替えてくんない? 私、レズにそういう目で見られたくないんだけど」


 それを皮切りに、噂話は一人歩きしていった。

 いわく、『香奈はクラスの女子を、性的な目で見ている』と。


 そうした中傷は直接的なイジメにまで発展しなかったものの、香奈の心を酷く傷つけ、気がつけば、香奈は学校を休むようになった。

 私は何度か彼女の家に足を運んだが、直接会うことは拒絶されてきた。


 そして、もたもたしている間に、香奈は決心してしまった。

 自殺するという決心を。


「私、もう恐くなっちゃったの。同性が好きっていうだけで、こんなに生きづらくて、傷つけられるなんて。それに、誰かに相談しても、勝手に言いふらされて……。もう、誰も信じられなくなって、それで……」

「香奈……」


 信じられないのは、私も?

 そう聞きたかったが、聞けなかった。


「でもね」と香奈は続けた。「晴海とは、最後に一度話したいって思ったの」

「……最後?」

「だって、ほら、見て」


 香奈はそう言って両手を広げ、人魚となった体を大きく開いた。


「こんな姿じゃ、人間世界じゃ生きていけないでしょ?」


 そういう香奈の顔は、どこか晴れ晴れとしていた。

 ようやく、しがらみから解放されたみたいに。

 途端に、突き放されたような寂しさが襲ってきた。


「私はもう、学校にも行きたいくないし、無事に卒業できても、大学とか就職先とか、そういうところで、またレズビアンだってバレたら同じ目に遭う。もうそんなの、耐えられないもの」


 泣きそうな、くしゃくしゃな顔でそう言った香奈に、私は手を伸ばしたかった。

 香奈がどこか遠くへ行ってしまうのが嫌で、どうにか引き留めたかった。


「そ、そもそも、どうして……、そんな姿になったの……?」

「それは、私にも、よく分からないの。自殺しようと海に飛び込んだ時に、一匹の鯛に助けられたの」

「鯛?」


 鯛といえば、この辺りでは鯛の養殖が盛んだが、たかだか一匹の魚に海に飛び込んだ人間を助ける力があるとは、到底思えない。


「その鯛が、私に何か話しかけたかと思ったら、気がつくと、この姿になってた。それで、今まで鯛と一緒に海の中で生活していの」

「その鯛って、何者なの……?」

「よく知らないけど……、自分のことをトヨウミって名乗ってた」

「トヨウミ?」


 そもそも喋る鯛の話など聞いたこともない。

 しかし、実際に人魚となった人物が目の前にいる以上、信じざるを得ない。


「私は、トヨウミさんのところで生きようと思う。だから最後に、晴海にお別れを言いに来たの。ずっと、子どもの頃から一緒にいてくれて、ありがとうね。晴海と一緒にいるの、すごく……、楽しくて、嬉しかったよ」

「ま、待って!」


 香奈が会話を終わらせようとする雰囲気を察知した私は、思わず声を上げた。


「えっと……、そうだ!」


 私は肩に提げていたショルダーバッグから、数枚のA4用紙を取りだした。家で小説を印刷してきたのを入れていたのだ。


「これ!」と私は小説を香奈に突き出した。「新作なの! 読んで! 今すぐ!」


 香奈を引き留めたい一心で、私は無理矢理、彼女の手に小説を握らせた。

 海水で少し湿ってしまったが、文字までにじむことはなかった。

 私はスマホの明かりを灯して、暗い夜でも読めるようにした。


「……そうだね。せっかく最後だし、読んでみようかな」


 最後。

 その言葉が、ぐさりと私の心に釘のように打ち込まれた。


 香奈はその短編小説を読み進める内に、段々しに顔が桃色に染まってきて、最後には耳まで真っ赤になった。


「す、すごい……、あの……、扇情的な内容だね……」


 小説は、女子大生同士の恋愛ものだが、ベッドシーンからはじまる。

 主人公はストレート黒髪の女性で、愛を確かめるように、恋人の体を求める。

 普段、色々なものを心の内に溜め込んでいる主人公が、ベッドの中では心を裸にしてさらけ出し、愛を露出しながら、溜め込んだものをはき出す。相手の女性もそれを受け止め、最後には甘いキスをして終わるという、純文学的な作品だった。


 私は、頬を赤らめて濡れた瞳をする香奈を見て、胸がときめくのを感じた。海水を吸った髪が頬に張り付く姿は色っぽく、月光を浴びて輝くはにかみ顔が、私の心を突き動かした。


 おもむろに、香奈に顔を近づけて、その無防備な唇に、私の唇を重ねた。

 海水のしょっぱい味と、香奈の甘酸っぱい桃のような香りがした。


 香奈は突然の出来事に、ぽかんと間の抜けた顔を作った後、小説の紙で顔を覆った。


「な、な、なにするの!? なんで、キスしたの!?」


 学校での噂話。

 香奈がレズビアンだと聞いた時。

 私が最初に思ったことは、一つだけだった。


 私にもチャンスがある。

 香奈と相思相愛になれるチャンスがある。


 そう。私もまた、レズビアンだった。

 そして―――――、香奈に恋をしていた。


 ふと気がつくと、香奈の尾ひれの鱗が後退していき、段々しに人間の足に戻っていくのが見えた。


「え……? なんで……?」


 香奈の疑問の声と、彼女の下半身が人間に戻るのは同時だった。

 人魚はもういなくなり、香奈という人間だけが残った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る