首相ディナビッグの誕生

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首相ディナビッグの誕生

 2033年、ディナビッグが日本国の内閣総理大臣に就任した。女装家の男性が首相となるのは日本初であり、海外メディアも「ドラァグクイーンがジャパンのPMに」と報じて話題をさらったのだった。

 共産党が組み込まれたことも「ジャパンでコミュニストパーティが政権に」と話題になったが、正確には閣外協力だった。




■来歴


 ディナビッグは本名を朽木大膳(くちき だいぜん)と言った。新卒で大手商社に就職し、36歳の時に出版社が主催するエンタメ系小説の公募の賞を受賞して作家となった。必ずしも小説家への強い志があったわけでもなかった。筆名のディナビッグは、本名の「大膳」を英訳したビッグ・ディナーから、適当に決めたものだった。

 38歳で商社を退職した後、公の場では女装で登場した。39歳で直木賞を受賞。受賞者記者会見でオネエ言葉でまくし立てる姿が世間に受け、様々なテレビ番組へ出るうちにテレビタレントとなっていった。既にマツコ・デラックスが芸能界を引退しており、「マツコの二番煎じ」と揶揄するむきもあったが、ディナビッグ本人は「恐れ多いわよ馬鹿」と謙遜した。


 ディナビッグはマツコ・デラックス以上に長身で恰幅が良かった。ふくよかな中高年女性・女装男性の「毒舌」タレントで言えば、占い師・細木数子にも連なっていた。細木数子が2008年にテレビタレントを退き、マツコ・デラックスは2009年に冠番組を持った。誰かしら一人はいたその「枠」にたまたま入り込んだだけだ、と本人は考えていた。

 マツコ・デラックスが(あるいは有吉弘行なども)ブレイク当初の「毒舌」をゆるめ、むしろ相手への共感を示す方向へ転換したのは、大衆の空気感に呼応した態度だったが、ディナビッグも「毒舌」というより単に物言いの率直さや当意即妙な受け答え、高い理解力や見識の深さなどがウケていた。

 時代の変化という意味では、ディナビッグはほとんどセクシャルな発言をしなかった。マツコ・デラックスは2020年代前半でも相手の外見について「好きなタイプ」「10年若かったら行ってた」などの発言をすることもあったが、ディナビッグは自分の好みを言うこともなかった。もっとも、マツコ・デラックスも本当に自分の性的な好みを語っていたかは定かではなく、ゲイの一般的な価値判断での好みや、人々の思う「オカマの言いそうなこと」を代表して言っていただけかもしれない。ディナビッグは「オカマ」を自称することもなかった。単に「こういう恰好と口調の人」でいるだけだった。




■出馬要請


 43歳の時に、ディナビッグは当時自民党幹事長だった福田達夫から内々に参院選への出馬要請を受けた。

 その頃の自民党は、国家主義的な価値観をすっかり定着させていた。実際の政策は世界的に見れば中道右派だったし、所属議員個々人の価値観はそうでなくとも、コアな岩盤支持層・団体がそうだったから、そのイデオロギーを掲げるしかなかった。自民党より更に右派的な政策やイデオロギーを掲げて勢力を伸長する党の存在も、支持層の流出を恐れて国家主義的なポーズを取らざるを得なくさせた。


 ディナビッグは自身の価値観を、革新ではなく保守だと考えてはいたが、国家主義的・体制主義的ではなくリベラルだとも考えていたから、価値観が合わないだろうと。福田幹事長へ率直にそうした考えを伝えた。ざっくばらんに話してみると、福田幹事長はディナビッグ同様、元商社員だったことも手伝って気の合う面があった。ただ早口で話が分かりづらいとは感じた。幹事長は自民党からの不出馬への理解を示した上で、「必ずしも自民党でなくても、あなたは政治家になることで人の役に立てる面はあるのではないか」と伝えた。ディナビッグはしかし最初に声をかけた自民党を蹴って他党からの出馬は不義理だろうと懸念を示すと、「そんなことはない」という。

「そしたらあんたと私、敵同士じゃないのよ」

 福田は笑って、日本の政治には野党の活力が必要だと言った。ディナビッグはそこに、本人がどれほど意識しているかはともかく、「自公政権の盤石さに変わりはないが」という余裕や留保を見て取った。そうなると一種の「ガッツ」が湧いてくる性分だった。

 そうしたやり取りもあって結局、ディナビッグは立憲民主党から参院比例区で出馬することになった。当時の立憲民主党は、旧民主党時代から数えて14年間、政権与党の座にあったことはなく、かろうじて野党第一党ではあったが、与党との議席数には大差があり、諸政党に埋没していた。


 ディナビッグは「政治家になる」つもりもなかったが、それで言えばもともと小説家になるつもりも、テレビタレントになるつもりもなかったのに、そうなっていた。声をかけられたのも縁かと思い、1期6年間だけ務めて、内側からどう見えるのかを作家として後でまとめてみよう、くらいの考えだった。

 ただそれは利己的な利益でしかないから、国民と政党への価値提供がなければ筋が通らない。「今から勉強する」だの「何かお役に立てることがあれば」だのと国会議員の立候補者が言うのは不誠実だろうと思った。


 出馬要請を受けたのが2028年1月であり、すぐに報道されたがディナビッグは否定も肯定もしなかった。2月後半に入り、出馬を正式に認め、3月のテレビの改編期に合わせて全てのレギュラー番組を降板する旨を公表した。


 出馬表明の前に、党の有力者や官僚、学者、NPO団体代表などへインタビューをしていった。ライフワークとして政治家をやるつもりもなかったから、ワンイシューで何かに取り組むべきかと考えた。「元商社員」の属性から経済産業政策か、「女装家」の属性からLGBTQ政策かと当初は安直に考えていた。実際にその分野の状況を聞けば当然課題は山積していたし、自分の取り組む余地はありそうだとも感じた。


 しかし第一に、自分は集票要員だという自覚がディナビッグにはあった。

 参院選の比例区は全国を対象にする。候補者の名前が書かれれば、政党の票としてカウントされ、その党の当選者数の増加に寄与する。(それだから、「それなりに支持者を掴んでいる/知名度のある人物」を擁立すれば、その人物自身が当選できなかったとしても党にとっては有利となる。)テレビタレントの自分に参院選出馬の声がかかるのは、その知名度でまずは議席を1つ確保し、さらに得票数の多さで他の比例候補の当選者数の増加を期待してのことだろう。

 一方で、自分自身を「単なる集票要員」として規定すれば、党への価値提供ではあっても、国民への価値提供ではないだろうと当初は考えていた。しかし中道左派的な既存政党の勢力を拡大し、政権党の選択肢にできれば、大きな意味では国民の利益にかなうはずだと考え直した。衆議院選挙で小選挙区制を取り、党内党(派閥)の力が弱められた以上、政権与党への規律を与えられるのは「野党転落への恐怖」でしか無い体制で、政権交代可能な政党が存在しないのは、与党支持者も含めた国家全体の不幸だろうと考えた。


 立憲の選挙の弱さは地方組織の弱さに起因する面があった。そのため党の支持率による、「風頼み」になってしまう。自民のように地方議員が汗をかいて票固めに貢献すれば、その報いが得られるシステムが構築できていなかった。本当は地方組織を着実に育てるべきだとしても、「下部組織が汗をかけば報われる」システムは中央で政権党であることが可能にしている側面があった。また野党勢力が離合集散を繰り返すせいで、地方議員は自分の意思とは無関係に所属政党や支援する政党がころころと変わってしまい、支えようにも支えづらい状況もあった。

 地方組織を強くするには政権を取らないといけないが、弱いと政権を取れない、というジレンマに陥っていた。

 それなら「風」を作り出して政権を取り、地方組織を育てていくほかない。「風」、世間の空気感を醸成するのは、ポピュリズムということだろうとディナビッグは考えた。


 そうして自分自身を「政権選択可能なレベルで党勢拡大するための集票要員」として規定して、それを最大化しようとした結果、ディナビッグはポピュリストへの道を歩んだ。




■政界進出


 ディナビッグは会見で、出馬表明とレギュラー降板に関する経緯と考えを率直に説明した。どうして自分が立候補する気になったのか、自民党に出馬要請を受けたことも含めて、洗いざらい説明した。

「政治が嫌だと思っても、代わりがいなかったら、不幸なのは私たちでしょ」

 ディナビッグは「国民の皆さん」という言い方は政治家のキャリアの中で一度もしなかった。「私たち」ないし「私たち国民」という言い方をした。他の場面で、「国民」という言葉は国籍や戸籍と紐づいたニュアンスがあるが、他に適当な言葉もないので、そこから零れ落ちる人たちも含めて便宜的に「国民」と言っている、という認識を語った。

「少なくとも、みんなが安心して選べる『代わり』を作るとこまでいかないと、意味ないじゃない」

 レギュラー番組降板までの期間も、他の出演者から政治家転進の話題を振られると、「どうして政治家になるつもりなんてこれっぽっちもなかった自分が、なろうとするのか」を説明した。

 タレントの政治家転身は、「素質も能力もない者が知名度で当選し、まともな仕事をしない」と世間に白眼視されることもよくある。実際、出馬しても得票数が組織内議員(業界団体・労働組合などが各政党に送り込む議員)を下回って落選することもよくある。「組織内議員を多く当選させるために(当選ラインの得票数を下げるために)タレントの知名度が利用された」という側面さえある。また参院比例区は、個人名ではなく政党名で投票され、候補者ではなく政党が選ばれる傾向にあって、必ずしもタレントが有利とも限らない。

 ただディナビッグは、元商社員、作家というバックグラウンドや、出馬表明前からの情報収集によって外交・安保から内政課題まで幅広く立場や見解をそれなりに正確に説明でき、語る姿勢も真剣で本気に見えたから、世間の反応はおおむね肯定的だった。

 レギュラー番組の降板後も、一定のメディアへの露出を保ち、党内外の様々な人物と会談を持ったりした。


 しかしディナビッグの姿勢は、立憲執行部との温度差を徐々に増していった。

 ディナビッグの発言は、政治構造の話にも及んだ。二大政党化へ向かわない現状に、立憲が最大野党としてイニシアチブを取ろうとせず、野党再編も党勢拡大も不十分だ、「そこそこの批判勢力」として今の立場を維持できれば良いと考えているフシがある、55年体制下での社会党に近い、という認識を示した。

 さらに支持母体である連合(日本労働組合総連合会)との関係を盲目的に重視し、旧同盟系(右派)の産別の取込みに躍起になって、本来の「労働者を守る」姿勢からは乖離しているのではないか、非正規や外国人などの弱い立場の労働者を無視するなら労組に存在意義はあるのか、といった疑問を呈するに及ぶと、執行部との関係は一気に悪化した。


 5月に入り、立憲はディナビッグを公認しないと決めた。立憲代表がメディアの要請に応じて会見を開いた。選挙前に各党で候補者調整をするのは当たり前のことであって、一候補者の公認を外す程度でわざわざ会見を開くのは違例だったが、既に連日ワイドショーが報道するレベルにまで加熱していたから、党の側も早急に収束させるために応ぜざるを得なかった。

 その会見場にディナビッグが乱入し、会場は騒然となった。

「私が間違ったこと言ったっていうなら、どこが違うのか説明しなさいよ!!」

と詰め寄ったが、代表は「党の方針」「党としての決定」という説明に終始した。それでも詰め寄られた代表が

「そもそもあなたが立候補したいとうちに持ち込んだんじゃないですか」

と思わず言うと、ディナビッグは静かに

「そうだよ。それをOKして、公認を約束したのは、誰よ?」

と問いかけた。代表は黙っていたが、生中継のカメラはその沈黙を捉え続けた。沈黙が続いたが、ディナビッグは沈黙を破るような助け船は出さなかった。沈黙に耐えかねて、ある意味で誠実な代表は、質問に真正面から答えた。

「我々です」

「何が」

「その当時、あなたの公認を決めたのは、私達ですが、」

「じゃあなんで約束を破るんだよ」

「それは、あなたが、党や支持者を否定するような発言を繰り返したから……」

「私が間違ったことを言ったんだったら、具体的にそれを正せばいい。どこが間違っているんだ!」

 話はそこへ戻り、代表は答えに窮し、代表や党が悪いという印象を与えていった。

 代表は党の現職議員や候補者、支持母体との関係性の話をしているが、ディナビッグはそれを自身の発言の正誤の問題へとズラしていた。関係性を悪化させたかどうかで言えば悪化させているからディナビッグは悪者、発言の正誤で言えば間違っていないからディナビッグは正しい、「わかりやすい」後者に相手を引きずり込んで、相手が間違っているというイメージをつくり出していた。


 ディナビッグ本人は、その剣幕とは裏腹に、心中では「執行部が公認を取消すのは仕方がない」と思っていた。また現執行部が、連合との関係維持、党勢維持に多大な努力と苦労を払っていることも理解していた。

「私は、政治家をやるっていうのは、本気じゃなきゃ失礼だと思う。だからテレビタレントもやめて、レギュラー番組も降りた。そうして準備したら、約束を反故にして突然排除する。そんな党はこっちから願い下げよ」

「新党を立ち上げる。私一人でもやるけど、もし私の方がマトモだと思う人は手伝ってくれたら嬉しい」

 ディナビッグは新党結成を宣言し、質問を浴びせ続ける記者を振り切り、騒然とした会見場を立ち去った。メディアにとっては耳目を集めてありがたいコンテンツだった。




■ゲームのルール


 公認取消し前の時点でのディナビッグの、日本の国政システムに対する認識は以下のようなものだった。


・かつて衆院選で採用されていた中選挙区制は、「一つの選挙区で複数人が当選する」ため、過半数を取って与党になるには、同じ党から複数人を立候補させる必要があった。

・同じ党の候補者同士で戦うので、党のカラーで勝負することはできず、それぞれの派閥をバックに戦うことになる。

・それが55年体制(与党自民党vs野党社会党が長く続いた体制)で、自民党の内部で派閥が権力を持った背景である。

・派閥は「党内党」として自民党の内部での権力交代を生じさせ、一種の緊張関係を生んだ。

・ただそれは国民の選択によらない「政治ドラマ」でしかなかった。

・小選挙区制(一つの選挙区で一人が当選)に変わり、与野党が派閥ではなく党を背負って戦うようになった。

・有権者から見れば「候補者を選ぶ」というより「党を選ぶ」ようになる。

・その後も自民党内の派閥の力は残存したが、「郵政選挙」で小泉純一郎首相(清和会)が「自民党をぶっ壊す」と宣言し、平成研(経世会)の公認を認めなかったり「刺客」を送り込むなどして落選させ、徹底的に弱体化させた。

・これは象徴的に「小選挙区制では党(執行部/党首)の公認が死活的に重要」な現実を知らしめることになった。

・小選挙区制では党内の派閥による緊張関係が失われ、政権に対する規律は「政権交代への恐れ」だけが基本的に働く。

・民主党政権の後に野党が瓦解し、政権に規律が働かない状況が生まれた。

・その状況下で、官邸官僚を組織し、官僚組織からの権力も奪うことで権力を安定化させたのが第2次以降の安倍政権だった。

・政権交代の可能性が失われた状況は、「国民の側に選択肢がない」「政権に規律が働きにくい」ことで国民にとって不幸である。


 こうした認識は、立候補を表明してから公認が取り消されるまでの間も、各種メディアでディナビッグが語ってきた通りでもあった。

 また政権交代は、以下のような基本シナリオに沿って生じると認識していた。


・コスパのいい参院の地方の1人区で議席を稼ぎ、ねじれ国会に持ち込む。

・ねじれ国会下で与党が提出した予算案や重要法案を滞らせたり廃案に追い込む。

・世論に「国会が混乱している」印象を与え、政治への閉塞感をもたらす。

・その閉塞感から「風」を形成して衆院選で議席を伸ばす。


 これは単にディナビッグが勝手に考えたものというより、過去の政権交代での実例もおよそこの流れを踏んでいた。

 参院1人区も衆院の選挙区も、小選挙区である以上、上記のストーリーを成立させる大前提として「野党側の候補者調整ができている(1名しか当選しない選挙区で2名以上出して票を割って敵方に利することをしない)」が必要になる。


 しかしそれが十分にできていないのが野党サイドの現状だった。

 票は団体が固める組織票と「風」に左右される浮動票とに分かれる。自民党は与党を組む公明党の母体である創価学会などの宗教団体や、経団連、農協、日本医師会、日本歯科医師会などの経済団体・職能団体、それから神聖連や日本会議などの国家主義的なイデオロギーを共有する政治団体、場合によっては(それで不足する場合は)反社会的カルト団体などからも支援を固定的に得られていた。

 組織票は、特に「無風」状態の時(選挙で大きな争点がなく世論の感心が低いため投票率が低く浮動票の割合が小さい時)に当落に大きな力を発揮する。500票があれば彼我に1000票の差を生む。また党や候補者にとって「票数をカウントできること」も大きな利益だったし、票を配分する者(派閥の長など)にとっては権力の源泉になり得た。直接の票数だけでなく、選挙戦には人手がかかる。団体はそのマンパワーを供給し、得票に大きな力を発揮する。そうした組織票の恐ろしさを知っていたから、自民党は90年代を通して公明党を徹底的に叩いて、90年代末に与党に組み込んでいる。


 一方の野党側は、最大野党である立憲の主な支援団体は連合だった。連合は自民党とも協力関係の構築を進め、立憲以外の野党への支援もしている上、立憲の共産との協力関係構築に否定的な立場を取っていた。自民にとっての公明と、立憲にとっての共産はほとんど鏡写しのような関係で、公明と共産は宗教とイデオロギーという違いはあっても構成員の全国的な組織化や、主な収入源が機関紙であるといった点でよく似ていた。「比例区で自党に、選挙区で協力相手に票を積む」という期待される役割も同じだった。その整理をしない限り、まともに「小選挙区で1対1の勝負をする」状況にはなり得なかった。

 この辺りの認識が、ディナビッグの連合への批判に結び付き、立憲の公認を失う要因となったのだった。


 もともとディナビッグは政治家になるつもりもなかったし、なっても中心ではなく周縁から(やや無責任な立場で)政権交代の理念を唱えて圧力をかけつつ、集票要員として拡大に貢献していく、くらいのつもりでいた。けれど、国会議員になる前にもう、ちょっとやり過ぎてはじき出されてしまった。そして流れの中で新党立上げを宣言して、自分が「そういうポジション」にいることに「気付いて」しまった。

 「つもり」で言えば、作家にもテレビタレントにもなるつもりがなかった。でもなってしまった、あるいはなり得る位置にいる以上、その役目を引き受ける、別に誰がなってもいいけど自分が引き受ける、という価値観を持っていた。

 それで「それなら、どこまで行けるかはわからないけど、やれるだけはやってみよう」という気持ちでいた。




■新党立ち上げ


 公認取消し会見から2日後、ディナビッグは新党「真善美」(しんぜんび)を立ち上げた。真善美はもちろん哲学用語ではあったが、ディナビッグは昔「スナック真善美(まさみ)」という店を見かけたことがあり、何となく「すげえ名前だな」と記憶に残っていたから、適当にそう名付けた。

 新党立上げの会見には、ディナビッグの両脇にギャルとスーツ姿の男が並んでいた。


 ギャルは長谷部究極美子(はせべ くみこ)といった。自身が学生の頃に経済的な困難にみまわれた経験から、大学生の時に貧困にあえぐ若者を支援するNPO法人を立上げ、15年ほど運営していた。その風貌で、時々メディアに出演することもあって一定の認知度を得ていた。

 行政の動かし方も上手く、ロビイストとして優秀だった。単に行政を批判するだけではなく、社会的課題を解決するモデルケースを自ら作り、それを比較的小規模な自治体に導入させ、成功したところで他の自治体へも導入させたり、メディアに紹介してもらう。そうして下地を作った上で、中央官庁や政治家へ持ち込んで法整備を進めさせることに何度か成功していた。政界・官界で「この問題はこの人が代表」と認知され、内閣官房の設置した対策室の政策参与や有識者会議のメンバーに就任していた。そうした立場を築いても、現場第一主義で支援活動の実務にも関わり続け、実際に問題対応や解決が早いために職員からも頼りにされていた。

 ディナビッグは究極美子とテレビ番組での共演がきっかけで2年前に知り合った。ディナビッグは究極美子を立派な人物だと心底尊敬して、時々トーク番組の中で言及したり、究極美子が代表を務めるNPOへも定期的に寄付をしていた。(認定NPO法人だったため、寄付により所得控除ないし所得税の税額控除が受けられた。)究極美子も、ディナビッグの興味は一過性ではなく、自分の活動を理解して応援もしてくれていると感じていた。それから単純に、二人は気が合った。

 新党立上げ宣言の当日に、ディナビッグが電話をすると、ディナビッグが頼むより先に

「ディナがやるってゆうなら、あーしもやるし」

と新党への参加と出馬を請け負ってくれた。


 もう1人のスーツの男は、伏原恋(ふせはら れん)といった。恋は究極美子と違って、ディナビッグとの面識はもともとなかった。会見に乱入したディナビッグが「手伝ってくれたら嬉しい」と呼びかけるのを見て、恋の側から事務所を通してディナビッグに接触した。

 恋は父親が元町長だったこともあり、市議と県議を務めた後、自民党の衆議院議員になった。それも4年前に辞め、今は会社役員をしていた。代議士時代には、議連事務局長、農林大臣政務官、経済産業委員会理事、自民党青年局長代理、農林部会長代理など、政府・国会・党それぞれの仕事をまんべんなく経験していたし、党や地元からは将来を期待されてもいた。遅かれ早かれ入閣は確実視されていた。

 花があるわけでも、弁が立つわけでもなかったが、勉強熱心で人の話もよく聞き、人的ネットワークの構築に長けていた。人を引き合わせて問題の落し所を見つけるのが上手かった。ネットワーク上のハブとして機能するような人物だった。(ただしそうした課題解決は、必ずしも全体最適ではなくコストがかかり、利益分配的な手法ではあった。)


 順風満帆と思われた政治家のキャリアの中で突然、週刊誌で21歳の専門学校生の男性への買春疑惑が報じられるというスキャンダルに見舞われた。翌日、恋は離党・議員辞職した。週刊誌報道の出ることを数日前に知らされ、地元後援会、党幹部、所属派閥である平成研(旧経世会)幹部へ状況を説明すると共に辞意を伝えた。遺留されたが恋は辞意を撤回しなかった。

 売春防止法は、第2条「この法律で「売春」とは、対償を受け、又は受ける約束で、不特定の相手方と性交することをいう。」、第3条「何人も、売春をし、又はその相手方となつてはならない。」とあり、売春の相手方となること(買春)を禁止しているが、罰則規定はない。(売春を勧誘・斡旋・場所の提供などをした者への罰則規定は定められている。)売買春そのものへ罰則がないのは、金銭のやり取りがあったとしても、それが性交の対価なのかどうかは必ずしも(当人にとってさえも)自明ではなく、例えば「おこづかい」との差も分からないためでもあった。また相手は未成年ではないから、児童買春・児童ポルノ禁止法にも抵触しない。刑事処分を受ける可能性はなかった。


 オープンリーゲイの国会議員としては2019年に初めて立憲から当選した事例はあったが、この時点でも自民党には一人もいなかった。

 辞任を遺留した人々の中には「両性愛者なら若い男と付き合ったのは遊びだろう、戦国自体や江戸時代は男色は武士の嗜みだったし気にしなくても良い」というようなことを「悪気もなく」「肯定的な意味で」言う者もあった。国家主義的な価値観を有し、自民党の岩盤支持層となっている神政連・日本会議どちらの議員連盟にも恋自身は所属していなかったが、週刊誌報道が出る前の時点でどこからか聞きつけたのか、わざわざ所属議員が来て「自民党で国会議員を続けるのなら同性婚は支持すべきではない、日本が世界に誇る戸籍制度の破壊につながる」云々の説明を(何も言っていないのに)されたりもした。逆に「辞めるべきではない、ここで辞めたらまるで同性愛者であることがキャリアを諦めることの前例になりかねない」と引き止める者もいた。


 週刊誌では、相手の男性のツイートもいくつかさらされていた。彼はゲイであることを明らかにした匿名のアカウントを運営していた。顔写真などは載せていなかったが、その気になれば特定できる程度の緩さで運用されていた。「連れてきてもらった!」と東南アジアのビーチリゾートの写真を載せたツイートには「うらやましい」「楽しんできてね」といったリプライがいくつもついた。金銭的な余裕のある優雅な暮らしぶりで他のゲイのアカウントから羨望が集まるのは気分が良かった。彼に限らず、そうしたアカウントはいくつもあり、一種のヒエラルキーの上位のように見なされていたから、彼も単に憧れて真似しただけだった。

 週刊誌報道を受けて彼はアカウントを消したが、ネット上の暇を持て余した幾人かが彼の本名や経歴を特定してさらしたことで、彼はひどく精神的なダメージを負った。


 辞任会見で恋は、自身がバイセクシュアルであること、相手とはインターネットの出会い系掲示板で知り合ったこと、月に1,2回会って、その度に2万円ほど渡していたこと、関係は1年ほど続いていたことなどを説明し、罰則はないとしても法で禁じられている行為で、道徳的に非難され得る余地はあるという認識を示した。しかしその「非難され得る余地」が直接的な辞任の理由だとは明言しなかった。

「私は、自身がバイセクシュアルであると公言したことはありませんでした。両親にも友人にも話したことはありません。週刊誌報道という形で、突然に、一方的に、個人のセクシュアリティを明らかにされました。また、たまたま公人だった私が報道されたことで、一般人である相手の男性も、インターネット上で素姓を突き止められたりもしました。こうしたアウティングに公益性があるのかは、疑問に思います。私のようにセクシュアリティがマイナーでなくとも、芸能人などの交際を週刊誌などが報じられることも含めて、社会にとっての必要性と、当人への不利益とが、バランスしているとは思われません。私は、仕事や社会関係から一度離れるしか、私の精神的な健康を守ることが難しいと感じました。これが私が国会議員を辞職する主要な理由です」

 会見後はおおよそワイドショーなども恋へ同情的な論調だった。それ以降、恋が一切のメディアとの接触を絶ったこともあり、この件は急速に世間から忘れられた。


 ディナビッグは、伏原恋という名を見ても思い出さなかったが、面談の前に調べて4年前の会見を思い出した。ディナビッグは「聞いていいことかわからないけど」と前置きした上で、相手の子は大丈夫だったのかと恋に聞いた。恋は、その相手とは今一緒に暮らしていると明かした。彼は専門学校で保育士と幼稚園教諭(二種免許状)の資格を取得し、今は公立幼稚園で働いているという。




■新党の体制構築


 真善美の結党会見で、ディナビッグが代表、長谷部究極美子が代表代行、伏原恋が幹事長に就任することが発表された。しかしまだ3人だけの党だった。

 公職選挙法の第86条の3 第1項は、以下のように参院選比例区に関する政党要件を定めていた。


参議院(比例代表選出)議員の選挙においては、次の各号のいずれかに該当する政党その他の政治団体は、当該政党その他の政治団体の名称(一の略称を含む。)及びその所属する者(当該政党その他の政治団体が推薦する者を含む。第九十八条第三項において同じ。)の氏名を記載した文書(以下「参議院名簿」という。)を選挙長に届け出ることにより、その参議院名簿に記載されている者(以下「参議院名簿登載者」という。)を当該選挙における候補者とすることができる。(以下略)

一 当該政党その他の政治団体に所属する衆議院議員又は参議院議員を五人以上有すること。

二 直近において行われた衆議院議員の総選挙における小選挙区選出議員の選挙若しくは比例代表選出議員の選挙又は参議院議員の通常選挙における比例代表選出議員の選挙若しくは選挙区選出議員の選挙における当該政党その他の政治団体の得票総数が当該選挙における有効投票の総数の百分の二以上であること。

三 当該参議院議員の選挙において候補者(この項の規定による届出をすることにより候補者となる参議院名簿登載者を含む。)を十人以上有すること。


 真善美は、現役の国会議員を誰も含んでいないから「1」の条件は満たさず、立ち上げたばかりで前回の国政選挙を経験していないから「2」の条件も満たさない。残る「3」の条件、「比例区と選挙区で計10名以上の候補者を立てる」を満たさなければ、参院選で比例区の候補者を立てることができない。

 候補者選定は恋が主に進めた。およそ100万票で得票率2%、比例1議席獲得となる。せいぜい1議席ディナビッグのみ当選か、上手くいけば2議席、ディナビッグに加えて究極美子か恋のどちらか当選できるか、という見立てだった。これから選定する候補者は当選の見込みが小さかったが、しかし適当に選べば良いわけでもなかった。立てた候補者は、次の選挙での候補者になり得るし、身辺がクリーンで信条も党(ディナビッグ)の政策に合致していなければ後々のトラブルのリスクになり得る。欲を言えば個人名での集票効果も期待したいところだったが、それは党名かディナビッグの個人名で賄われるから大きなファクターではなかった。

 恋だけでなく、もちろんディナビッグや究極美子も関わりつつ、苦労して追加の7名(比例区で3名、選挙区で4名)を選定し、「3」の条件である10名をクリアした。



 人選だけでなく、資金面も短期間で整えなければならず、大きな課題だった。

 参院選の供託金は比例区で600万円、選挙区で300万円であり、真善美は比例区の名簿搭載者が6名なため3600万円、選挙区は4名で1200万円、計4800万円が立候補に最低限必要だった。

 供託金は選挙後、比例区では「議席割り当て数×2×600万円」の範囲で返還を受けられる。ディナビッグ1名のみの当選で1200万円、2名当選できれば2400万円、3名なら3600万円が返還される。選挙区では「有効投票総数÷選挙区の議員定数÷8」が供託金没収点となるので、1人区であれば12.5%以上、定員6の東京選挙区なら2.1%以上の得票率を得ると全額が返還される。

 全員を比例区ではなく選挙区からも立候補させたのは、比例区で当選できる見込みと、選挙区で落選しても供託金没収ラインを超えられそうな見込みを考えての、金勘定も含まれていた。

 全国の比例区で出馬したり様々な献金を受けるには政党要件を満たさなければならず、政党要件を満たすには10名を立候補させなければならず、10名を立候補させるためだけでも多額の資金が必要になった。


 その他、選挙にかかる諸々の費用について、一部は公費負担制度が利用できた。(これも規定以上の得票は必要だった。)ポスター、ビラ、はがき、看板、車代など各費目に上限が設定されており、最大で候補者1名あたり600万円超がもらえる。中には上限いっぱいまでほとんど水増しまがいの申請をする者もいたが、ディナビッグの

「お金に関してはクリーンにやる。そういうところで汚い奴らだと思われるのは損だ。話も聞いてもらえなくなる」

という方針もあり、実費請求に留めた。いずれにしても諸々の人件費や事務所家賃などは公費負担の対象外なので自己負担が必要だった。

 供託金の返還や公費負担を差し引いても、選挙期間中だけで自己負担が1人あたり700万円ほどは必要で、加えて選挙期間前の活動も合わせると1人あたり数千万円は必要になった。


 ディナビッグは生来金を遣うタイプではなかったから、ある程度まとまった資金はあったが、手弁当で党運営するには到底足りなかった。

 政党要件の1または2の条件をクリアして、年末までに届け出れば政党交付金が得られる。国民1人あたり250円、総計で300億円超が(制度に反対し申請しない共産党を除いた)各政党へ得票率や議員数に応じて分配される。党の収入の平均4割、多い党では8割を政党交付金を占める。政党の大きな資金源だが、5月に立ち上げたばかりの真善美には関係のない話だった。

 「政治資金パーティーを選挙前に開いて資金を集める」手法も、自民党議員・派閥を中心に広く行われていたが、真善美はしないことにした。寄附であれば5万円超で寄付者の報告義務があるが、パー券購入者は20万円まで報告義務がなく、献金の抜穴となっている構造があり、「クリーンに」というディナビッグの方針に対してグレーだと判断された。

 企業・団体献金も、設立したばかりで未知数の新党に望むのは難しい。

 政党交付金、政治資金パーティー、企業・団体献金といった資金集めの手法は使えない・使わないことになった。真善美は党のウェブサイトに献金受付のページと、党員(年会費4000円)募集のページを置き、SNSや街頭演説でお願いをした。最終的には選挙費用を賄える程度には集金ができたのだった。



 党としての政策をまとめることも急務だった。それまではディナビッグ個人が収集・インプット・消化した政策課題や対策を発信していれば良かったが、党を立ち上げ候補者を擁立した以上、統一的な見解が必要だった。めいめいが勝手に持論を発信してちぐはぐな印象を与えるのはマイナス材料になりかねない。

 ディナビッグは特に経済政策に明るいわけではなかったが、作家になる以前に経済学者の岩井克人の著作を好んで読んでいた。大きな構造をシンプルに説明して読んでいて楽しかったのだった。その後、同じように全体像を描いてくれる経済学者として、岩井より12歳若い渡辺努を見つけて著作を読んでいた。真善美の立上げ以前、立候補を決めた後に、ディナビッグはフリーハンドで渡辺にコンタクトを取った。渡辺は以前に兼担教員を勤めていた東大公共政策大学院の準教授・越智えみをディナビッグに紹介した。


 越智えみは、国際機関の職員として途上国の行政改革支援を進めたり、国外の大学で教鞭を取るなどの経歴を持ち、経済・行政・政治学・国際関係学など幅広い知見を有していた。必ずしも日本の内政課題には精通していなかったが、必要な知見を持つ人物へ素早くアクセスし、力を借りることができた。越智えみは、ディナビッグのいわゆる「ブレーン」になることを了解した。(しかし当人たちはそうした言葉は使わなかった。)

 ディナビッグは本来的な意味で「保守」的だった。

「社会の急激な変化は望まない。国家の最適が、人間の最適とは限らない。歪みで真っ先に苦しむのは余裕のない人だから」

「外交・安全保障は、国家より上位の強制力を伴った組織が今はない、という現実を踏まえたものであってほしい」

という考えを持っていた。えみは自身の考えより、ディナビッグのその価値観に則して、政策を構築していった。



 候補者・資金・政策など党本部としての機能を早急に整えて、真善美は選挙戦に備えていった。




■立憲叩き


 ディナビッグは立憲民主党への激しい批判を展開し続けた。


 立憲は代表をはじめ主な役員が党勢を本気で拡大する気がない。55年体制下の社会党のようだ。自分たちの立場が守れる程度に、負けなければいいと思っている。いざ選挙になれば、暑い中で汗をかいて遊説して、声を嗄らして、「自分は頑張った」と自分で自分に言い訳する。「今の状況だと、ここまでが精一杯だ」と言い訳する。それで安心する。自分自身を矮小化している。

 そんなのは国民への背信だ。ポーズだけで政権交代を本気で目指さないなら、野党第一党の資格なんてない。いる必要がない。


 ディナビッグは与党批判をすることはあっても、それは自民党を批判するというより、与野党全ての政党を含めて過去への総括が足りない、といった方向での批判だった。「野党には政権運営能力がない」「文句ばかりで政府の足を引っ張る」という漠然とした世論の認識に背かないような批判の仕方だった。

 ディナビッグ本人は必ずしも「立憲民主党は野党第一党として資格がなく、存在意義がない」とは考えていなかった。個別具体的な政策や、政府与党の振る舞いに対して問題点を剔抉・指摘するのは(文句ではなく)野党の重要な機能であり、立憲を始めとした野党議員がそうした役割をサボっているとは考えてはいなかった。ただ、そうした点をフォローして、立憲を優しく慰めるようなことは一切しなかった。


 立憲民主党の設立者でもある枝野幸男衆院議員がある会合で、ディナビッグないし真善美について、一定の理解を示しつつ、野党間の対立を無闇に煽るポピュリズム的な姿勢に苦言を呈したと報道された。全体としてはディナビッグに理解を示す論調だったが、記事の見出しは「枝野氏、ディナビッグ氏へ苦言」というものだった。

 ディナビッグはTwitterでそのニュース記事のリンクを貼り、

「あたしがあなたの夢を追ってるのよ」

とだけ書いてツイートした。数万リツイートされた。ほとんどの人は記事の中身を読まず、タイトルだけを読んだ。

 2017年に、民進党の前原誠司代表が小池百合子都知事の率いる希望の党への合流を決めた。小池都知事が民進党のリベラル派を排除する旨を表明したことで、枝野議員は民進党から分離し、(最初の)立憲民主党を立ち上げ、リベラル派議員の受け皿となった経緯があった。「排除されて新党を立ち上げる」形だけを見れば、確かに真善美も同じだった。

 立憲民主党は10月2日に結成を宣言し、10月22日の衆院選で希望の党を上回り野党第一党、全体でも自民党に次ぐ議席を獲得した。「虐げられた側を応援したい」世間の判官贔屓の感情が働いた結果でもあった。11年後にその空気をディナビッグが再現させていたのだった。政権選択選挙でもなく、大きな争点もなく話題に乏しい中で、こうしたストーリーにマスメディアも乗っかって空気感を醸成していった。


 与党側は、ディナビッグによる立憲攻撃は、野党内での分裂であり与党に利する状況だと楽観視し、静観していた。長らく野党側からの脅威を感じたこともなかったため、正確に反応する方法を知る議員が与党側にもあまりいなかった。


 立憲から公認候補を外された後も、ディナビッグは立憲の議員や立候補予定者との接触を続けた。立憲の党本部が党内へ「真善美関係者との接触禁止」の御触れを出すと、それがSNSへ流出し、世間の失笑を買い、党内からも「子供じゃない、誰が誰に会おうと勝手だ」と反発を買った。立憲の党本部は自ら失点を重ね、政党支持率を落としていた。立憲の候補者もこうした状況に危機感を覚え、党本部を公然と批判する者も現れた。

 立憲は都道府県連と党本部、あるいは他の野党との候補者調整が上手くいかず、複数人区で当選できる見込みもないまま2名を立候補させたり、あるいは1人区で県連が長年支援して育ててきた候補者を押しのける形で、党本部が候補者を立てたりもした。ディナビッグはそうして党本部から「割を食った」形の候補者へ接触していった。その中から2名が立憲からの立候補を諦め、真善美の候補となった。(選挙区での立候補者4名に含まれる。)

 またその他の立憲の立候補予定者もディナビッグは積極的に応援していき、真善美が(立憲には無断で)推薦を出したりもした。候補者だけでなくその支援者や、他党の対立候補の支援者にまで顔を見せて回った。選挙戦に突入すると街頭演説などへも応援に駆け付け全国を回った。自前で遊説するよりも立憲候補の応援の形を借りた方が安上がりという側面もあった。

 そうしたディナビッグ・真善美の支援する候補の中に組織内候補は含まれていなかった。また政治的信条が異なる候補、人格に疑問のある候補、身辺がクリーンでない候補も含まれなかった。立憲側は相当な不快感を表した。

 「立憲を批判するディナビッグが立憲候補者を応援する」という図式は分かりにくかったが、ディナビッグは、

「そもそも敵じゃない。私は立憲の公認候補になるはずだったし、もともと応援する約束をしてた人達を応援してるだけ。私は約束を守ってるだけよ」

と言った。

 実際、ディナビッグの立憲民主党に対する批判は、中身をよく見ると、あくまで党本部・執行部に対するもので、議員や候補者個人に向けてのものではなかった。




■参院選


 第28回参議院議員通常選挙の結果は、与党全体としては議席を減らし、野党はトータルで議席を増やすという結果になった。立憲は議席を減らしたが、減少幅は投票前の予測より小さかった。真善美は比例区は3名、選挙区で2名を当選させる躍進を見せた。この時点で真善美は「国会議員5名以上」の政党要件をクリアした。

 立憲は比例で大敗したが、1人区をそれほど落とさずに済んでいた。ディナビッグが応援に入った選挙区で勝てているという結果となっていた。ディナビッグは口では立憲と敵対しつつ、しかし実質的には左派政党間での共食いを最小限に抑え、執行部はともかく、個別の所属議員からは恨まれないよう恩を売っていた。

 とりたてて争点もなく話題に乏しかったところへ、ディナビッグが世間の判官贔屓を喚起させる「ストーリー」を導入し、マスメディアも自己の利益のために俗情と積極的に結託してこのストーリーを掻き立てた。そのことで全体として投票率が上昇した。浮動票の増加により組織票は相対的に弱められた。この増加分は主にディナビッグ・真善美へ流れたため与党は議席を減らす結果となった。

 連合頼みの組織票と左派的な価値観の受け皿になることで、一定の勢力での現状維持に安住していた立憲にとって、その安定は外部からの強制的な「風」を受ければはかないものだと自覚させられ、内部的にも動揺した。



 参議院議員の通常選挙が行われた後には、必ず臨時国会を召集しなければならない。8月1日に召集され、会期は3日間、法案審議は行われず、新議員の議席指定、参議院の正副議長の選出が行われた。


 初登院で姿を表したディナビッグは、光沢のある黒いシルク生地の、ゆったりとしたドレープが美しい丈の長いワンピースドレスを着ていた。かつてマツコ・デラックスがテレビ番組で着用していたものと似た型のドレスで、ディナビッグも以前より好んでオーダーしていたが、黒地は国会議員になってから初めて身に着けるようになった。

 このドレスについて、ディナビッグはテレビタレント時代にインタビューで、「ブリオーに近い」と発言したことがあった。ブリオーは中世西欧で着られたゆるやかなワンピースの一種で、裾と袖がとても長いスタイルの服だった。11世紀末にはノルマンディーの僧が「若い男が最近はこうした服装をして柔弱だ」と嘆く記録が残されており、当初は女性の服装だったが、12世紀にかけて男女に広く着用された。

「僧っていうのは権威の側だと思うけど、若者の服に難癖つけるのはいつの時代も変わらないね。でも結局は広まって受け入れられたんだから、誰が何着たっていいし、男の私が着るのも別に変じゃないわけよ」

 ブリオーはワンピースである点や、裾と袖がゆったりと長い点はディナビッグのドレスと共通していたが、胸から腹にかけては身体に緊密に着けられる点が異なった。ディナビッグは「そこはフォルチュニの系譜かも」と語った。20世紀初頭イタリアの服飾デザイナー・総合芸術家のマリアノ・フォルチュニがデザインした古代ギリシャ風ドレス「デルフォス」が好きなのだと語った。デルフォスは極めて繊細なプリーツが施され、その装飾性が機能性に結びついた点に大きな特徴と革新性があり、ディナビッグのドレスはそれを引き継いではいなかったが、コルセットで腰を締め付けるスタイルから解放したという点で共通していた。「女性らしさ」を作り出すためのコルセットは16~20世紀の間に続いたが、アメリア・ブルーマー(ブルマで知られる)が19世紀半ばに、ポール・ポワレが20世紀初頭に、ガブリエル・シャネル(ココ・シャネル)が20世紀前半に、それぞれ女性の服飾をコルセットから解放するようなスタイルを提案していった。そうした歴史的背景の一つに重なるのかもしれない、という私見を語った。


 その黒いドレスに、髪をひっつめ、ミキモトの大粒の黒蝶真珠のネックレスとイヤリングを身に着けていた。ネックレスは45cmのものだったが、ディナビッグは首が太かったのでチョーカーサイズになった。

 「ディナビッグは生来金を遣うタイプではなかった」し、ジュエリーを数多く所有したりもしなかったが、このネックレスとイヤリングは300万円超の高級な品だった。(ミキモトである以上当然だが)一粒一粒の巻き・照り・形も最上級であり、ネックレスとしての連想の良さも極上だった。ディナビッグは作家になった後でこの品を買い求め、手入れを怠らず生涯偏愛した。


 ディナビッグは政界を引退するまでこのスタイルを続けた。

「男がずっとスーツでいいなら私だってこれでいいのよ」

と言って、同じ生地・同じ型のドレスを十数着仕立てて着回した。生地はいずれもシルクで、春夏はサテン、秋冬はベルベットに変えていた。Apple創業者のスティーブ・ジョブズが意思決定の回数を減らし脳のリソース消費を抑えるため、イッセイミヤケのニットシャツにリーバイスのジーンズという出で立ちを続けたのと同じようなシステムだった。(ディナビッグは別に「意思決定を減らすため」とは言わなかったが。)

 国会の中央玄関の扉は通常閉じられて「あかずの扉」と呼ばれるが、衆院総選挙・参院通常選挙直後の国会で議員の初登院時には使用される。その中央玄関で撮られた黒装束のディナビッグの写真が、「ラスボス感」と話題になった。



 真善美は選挙後に当選議員5名での会合を持った。

 ディナビッグは長谷部究極美子に「そのままのあなたでいてほしい。あなたが取り組んできた活動を、国会議員の立場で進めてほしい」と言った。究極美子は「あーしはあーしのままに決まってるじゃん」と笑った。

 一方で伏原恋には「政治の泥臭いことを徹底してやってもらう」と言い渡した。恋は「もちろんそのつもりです」と請け負った。

 この役割分担は、真善美の二面性そのものを表していた。左派政党としての理念や活動の側面と、政治闘争を通じて規模の拡大を目指す側面の、両面をこの2人が体現していた。


 それから選挙区で当選した2名は、1人が元職、1人が新人だった。

 中央においては、議連や委員会などを通じて国会・政府・官庁・関係団体との人脈を形成すること、また特定分野の専門知識を吸収する(族議員になる)こと。一方で地方においては、選挙区に毎週末帰って地元の支援者と接触したりイベントに出席して顔を売り、地元の要望を吸い上げ、また地方議会の関係者とも党派に関係なく接触して関係を築き、地盤を形成すること。この2人にはそうした国会議員としての「普通の活動」を求めた。ただしその「普通の活動」の高い質と密度を要求し、一定の目標を定めて恋とディナビッグが毎月進捗を確認することとした。

「私たちみたいな色物じゃない、地に足のついた政治家になってほしい。たとえ真善美がいつかどうにかなっても、たとえ無所属でも当選して活躍できる力をつけてほしい」

と伝えていた。



 立憲代表は、参院選敗北の責任論が浮上したが、辞任を否定した。幹部人事も変更はなかった。党内部では執行部への不満が蓄積した。

 真善美は選挙後も、執行部と距離を置いていた個別の立憲所属議員への接触を続けていた。執行部はそれを「切り崩し」と捉えたが、実態としてはディナビッグや恋が彼らの国家感や政策から個人的な話までいろいろな雑談をして、真善美への勧誘や具体的な離党などの話はほとんどしなかった。警戒感を強める執行部と、単に意見交換をしただけという認識の議員たちの間には溝ができた。

 国会議員には、我が強く自信に満ちた人物が多い。一方的に自身の意見を開陳することに強い快感を得る傾向にあった。好きに喋って気持ちよくなって、終わった後には「あいつは案外話がわかるやつだ」と思うようになる。


 真善美は、全国会議員の基本的な情報を網羅したデータベースを作成してあった。さらに立憲と共産の議員については直近の落選者の情報や、新聞やネットの記事、機関紙などの公開情報を収集して抽出したデータも加えていた。(そこまでは職員が作業を進めた。)そこへ、恋やディナビッグの直接の接触で得られたその人の性格や価値観、個人のトラブルや選挙区事情なども蓄積させていった。このデータベースは、恋とディナビッグと、恋の公設第一秘書(国会議員は国費で公設秘書を政策担当、第一、第二の3名まで持つことができる)にだけ共有された。




■衆院鞍替え出馬


 前回の衆院解散・総選挙が2025年2月に実施されており、4年の任期満了が迫りつつあることもあり、次の解散時期が取り沙汰されてきていた。ディナビッグは、次の衆院選では自身が参院から鞍替え出馬すること、共産党ほかの左派系野党との候補者調整などの選挙協力は進めるが、立憲とは協力しないことを公表し、話題を作った。

 参院選敗北に対して能力不足の責任を取って辞任するでもなく、原因を明らかにして抜本的な対策を取るでもなく、ただ漫然と居座る現在の執行部とは到底協力できない、という。他党からうちに入りたいという人がいたら歓迎する、ともいった。立憲の所属議員を意識しての発言だと当然解釈された。

 各種調査で真善美の政党支持率が立憲を上回ったこともあり、立憲代表の辞任圧力はさらに強まったが、代表は辞任を拒否した。立憲内で一定の勢力を持つ、相対的に左派・リベラル色の強い「国のかたち研究会」(旧菅グループ)の会長がグループに所属する議員へ「立憲離党・真善美への合流を容認する」とし、グループ内の衆院議員の4割が真善美へ移った。なお参院議員は全員が立憲に留まった。(結束の強い自民党の派閥と比較すると、立憲内のグループは議員が複数にまたがって所属可能であるなど締め付けも弱く、所属議員も不明確ではあった。)

 真善美の初期メンバーは切り崩し工作や説得などは行わなかったが、むしろ立憲から移ってきたメンバーが積極的に進めた。

 政党交付金の額は議員数と選挙の得票数で算出され、議員数は1月1日時点を基準とするため、年末に移籍が加速した。結果的に、立憲所属議員の2割が流出するに至った。その結果、右派系野党が第一党となった。自民党であれば土壇場で党首をすげ替えてでも党の分裂を避けて議席確保を優先した場面だったが、ずるずると進行してしまった。

 与党にとって左派系野党の分裂はメリットであったし、自党の選挙準備の進捗との兼合いもあり、任期満了に近いタイミングまで待って解散、総選挙に突入した。


 ディナビッグは衆院選では比例南関東ブロックの名簿1位で単独で(小選挙区での立候補はせず)出馬し、全国を遊説して回った。党勢拡大を目指すのなら、知名度があり当選の見込みのあるディナビッグは比例との重複もせず選挙区に回るべきではないか、党首なら選挙区から選ばれるべきではないか、といった意見も聞かれた。


 衆院選の結果、真善美は大きく勢力を伸ばし、一方の立憲は議席を減らし、衆院議員の数は真善美が立憲の約3分の2に達する勢力となった。(参院議員の数はそのまま立憲の方が真善美を大きく上回っていた。)ディナビッグは「立憲との選挙協力はしない」と啖呵を切ったが、実際には小選挙区で対立候補(刺客)をあえて立てることはしなかったため、今回も立憲のダメージは最小限に抑えられた。実質的には選挙協力ではないか、と記者からツッコまれたディナビッグは「『協力しない』と『攻撃する』は全然ちがうのよ」と嘯いた。

 立憲は党内からの突き上げが大きく代表は辞任、代表選の結果「サンクチュアリ」(国民民主党との合流前の旧立憲系グループ)に所属する議員が選出され、執行部は総入れ替えとなった。




■政策書


 衆院選後、真善美は大きく2つの動きを見せた。政策をまとめた書籍の出版と、連合批判の加速だった。


 ディナビッグは『日本健全化プラン』というタイトルの書籍を中公新書から出版した。新書としては比較的大部で400ページ弱(400字詰め原稿用紙600枚程度)となった。ディナビッグ側から企画を編集部へ持ち込んだ。

 新書は、特定の専門分野や社会的トピックを、専門家等が一般向けに解説する教養書である。既存の主な新書レーベルとしては、1938年創刊の岩波新書、62年の中公新書、64年の講談社現代新書が古く、その後の90年代にちくま新書、文春新書、集英社新書、00年代に光文社新書、新潮新書、幻冬舎新書などが誕生している。長らく「200ページ」の制約が存在しその後もコンパクトな作品の多い岩波新書や、ノウハウ・ハウツーなど軽いトピックの取り扱いも多い講談社現代新書と比較しても、一般書でありながらとりわけ学術書に近く、書名もシンプルで名詞的なものの多い独特なポジションを取っている中公新書が、ディナビッグは個人的に気に入っていた。

 新書ではなく一般書籍(単行本)として出版する方法もあったが、単に政策をまとめたり政治家個人の考えを披瀝するだけのものではなく、日本の様々な側面(外交・安全保障から内政課題まで)について主に明治期以降の歴史的な過程や諸外国の状況も概説した上で、現時点での一種の解を提示して、時間が経っても当時のまとめとして読むに耐え得るものを書きたい、という企画意図があった。そうした思いを中公新書の編集部へ伝え、編集会議を通過した。


 中公新書は、時事的なタイトルを他の新書レーベルと比較してあまり取り扱わない性格上、企画から出版までに3年以上かかるものも多い。原稿を編集部が受け取っても、その後の校正に時間をかけるため、発売までさらに半年ほどかかるケースが多かった。ただし緊急性・時事性の高い企画についてはその限りではなかった。

 ディナビッグは原稿を10ヶ月程度で仕上げ、その時点で十分に調べを尽くして書かれていたこともあり、企画持ち込みから1年弱で出版に至った。執筆のもととなる資料や報告はもちろんディナビッグのブレーンとなっていた越智えみらが大きく寄与したが、作家でもあったディナビッグは自身が一から書くことにこだわった。帰宅後の2時間を読書と執筆に充て(そのために睡眠時間が削られることとなった)、さらに移動中なども執筆の時間に充当された。


 中公新書のベストセラーとしては、木下是雄『理科系の作文技術』(1981)と野口悠紀雄『「超」整理法』(1993)が長年をかけてミリオンセラー(100万部超)を達成し、近年では呉座勇一『応仁の乱』(2016)が50万部を超えた例があった。中公新書の初版部数は通常1万2~5千部程度だが、ディナビッグの『日本健全化プラン』は出版前からの引き合いの強さもあり4万部を刷ったが、最初の週で刷り部数はほぼはけ、1年で60万部を超えて中公新書の全期間でもベストセラー10位以内に入った。

 ディナビッグは内容と質にはある程度自負を持っていたが、扱うテーマの幅が広く、分量も多かったため、どこまで伸びるかはあまり自信がなかった。「持ち込んでコケたら悪いなと思ってたからホッとした」と言った。

 既に真善美の党としての政策はまとめてあり、随時アップデートもされていたが、本書はその背景も含めて丁寧に語られていることもあり、真善美の他の所属議員やスタッフにとっても参照先として長く機能し「バイブル」となった。




■連合叩き


 もう一方の連合批判は、前年の参院選後、立憲執行部への批判は強めていたものの連合批判はしばらく沙汰止みとなっていたのが、衆院選後に突然、党をあげて再燃させていた。


 連合は、1989年に日本労働組合総評議会(総評)と全日本労働総同盟(同盟)という2大ナショナルセンター(労働組合の全国組織)が合流してできた組織である。自治労や日教組など官公労組中心で左派の旧総評系と、企業の民間労組(産別)主体で相対的に保守派の旧同盟系は、連合の内部で対立する構造があった。

 2017年に民進党が希望の党と合流しようとして左派系が立憲民主党に分離、残った民進・希望の勢力が再編され2018年に国民民主党が結成、さらに2020年に立憲・国民の合流が模索された結果、それぞれ解党の上で新たに立憲民主党・国民民主党が結成・再編された。その野党の離合集散の結果、もともと民主党の最大の支持団体だった連合は、左派の総評系が立憲民主党を、右派の同盟系が国民民主党を支持する体制となった。


 共産系の労組が路線の違いから、連合の発足時に全国労働組合総連合(全労連)を結成して連合と対立した経緯や、共産の掲げるエネルギー政策(原発ゼロ)に旧同盟系の電力総連が強く反発していることもあり、連合は共産党と対立していた。衆院選で議席を増やすには小選挙区で野党(というか左派系)候補を一本化し、票の分散を避けなければならないため、立憲は一時期共産との協力を進めたが、連合はこれに否定的な立場を取った。立憲代表が設立者の枝野幸男から国民出身の泉健太へ変わると、立憲は共産と距離を置き、連合との関係維持を重視する立場を取った。

 その後、国民側から組織内議員を送り出していた一部の産別が、国民では比例票が少なく当選できない状況に陥った結果、立憲へと移ったり、その一方で連合やトヨタ労組が自民との関係強化へ進むなど、明確な関係強化が進んでいるのかどうかは曖昧だった。


「連合は、野党共闘を邪魔して、国民が政権を選べない国にしている元凶だ」

「労働者を守らずに、大企業を守っていて存在意義がない」

などと、ディナビッグは真善美を立ち上げる前に主張して、立憲からの公認を失った要因になった。その批判を再び持ち出して連立叩きを再開した。「そこが改善されないなら立憲とは組めない」と主張した。

 ただしディナビッグ自身は相変わらず、連合が政権選択の構造を作りにくくしている主要因とまでは考えていなかったし、非正規労働者支援に乗り出している大企業の労組や、労組のない中小企業の労働者や非正規労働者などの受け皿になっている合同労組(ユニオン)などが、連合に加盟している状況も知ってはいた。


 今回はそうした理念的な側面での批判に留まらず、連合や、その下部組織である都道府県の地方連合会、連合に属する産別・労組の不祥事などを掘り出して攻撃した。

 炎上・トラブル案件を収集、広くバズらせて耳目を集めるSNSの匿名アカウントとひそかに手を組み、幅広く「通報」を受け付けた。さらに掘り下げれば「面白い」案件をジャーナリストや週刊誌へ流していった。この動き自体はディナビッグが仕組んだものではなく、恋が仕切っていたが、恋もこのアカウントとは直接接触はしなかった。このアカウントはその後トラブルに巻き込まれ、運営者の素性も暴かれたが、当時の反連立キャンペーンで真善美と協力していた点は、特に世間に曝されることはなかった。

 情報収集の手法が多少現代化されたとはいえ、90年代に自民党が公明党を叩いていたのとも似ていた。



 公明党は最初から自民党と連立与党を組んでいたわけではない。

 1993年に宮沢内閣で55年体制が崩壊してから、公明党は1999年に小渕内閣で自民党と連立参加するまでの間、途中で小沢一郎の新生党と合流して新進党となるなど、自民党とは対立する関係にあった。公明党が自民党と連立を組むまで(正確には98年に新進党が分裂し、自民党が公明党の取り込みに舵を切るまで)の90年代を通して、自民党は公明党および母体である創価学会を徹底的に叩いた。その反学会キャンペーンで先頭に立ったのが自民党の亀井静香や野中広務であり、学会からは「仏敵」と非難された。野中は学会・公明とのパイプを一手に握ることで自民党内で絶大な権力を得ることになる。後に自公連立政権の成立後に有力支持者の一人に「どのようにパイプを作ったのか」と聞かれた野中は、「叩きに叩いたら、向こうからすり寄ってきたんや」と答えたという。

 自民党は学会・公明を「政教一致」と批判した。

「公明党は選挙のたびに全国の学会施設や電話をタダで使っている」

「池田大作名誉会長が内閣成立前に大臣ポストを公明党が得たことを知っていた」

などと攻撃した。また宗教法人法改正に絡んで創価学会名誉会長・池田大作の証人喚問を要求し、それは免れたものの学会会長の秋谷栄之助が参考人招致されてしまう。自民党の機関紙「自由新報」で池田大作レイプ事件の追求記事を連載したりもした。1996年10月の衆院選では、「新進党は創価学会党だ」「日本を特定の教団に支配させるな」とキャンペーンを展開し自民党は新進党に勝利する。


 野中は様々な手法と情報収集で公明党・創価学会を叩いた。

 学会誌『聖教グラフ』に掲載された写真の背景に、ルノワールやマチスなどの高価な絵画が写り込んでいた点に注目し、創刊号から全て調べ上げ、学会が届け出ている資産リストと突き合わせ、届け出のない絵画が多数あることを突き止めた。それを直接学会に伝えず間接的に相手の耳に入れて学会側を恐怖させた。

 また暴力団(後藤組)と学会幹部の密会ビデオを取引材料にして、新進党内の公明グループの権藤恒夫との間にパイプを形成した。一方で「公明グループが新進党入りしたせいで反学会キャンペーンを招いた」と学会側が公明側に反発する状況を利用し、学会関西長の西口良三との間にパイプを形成した。公明と学会、双方のパイプを握っていった。


 公明はもともと、新進へ完全合流して消滅する予定だった。地方議会で公明党が自民党と連立を組んでいた事情があり、すぐに完全合流ができなかった。そのため衆院議員+1995年改選の参院議員が分離し、先行して新進党に参加し、残りの参院議員は公明のまま存続していた。

 残りの参院公明の新進合流・公明消滅にストップをかけ、公明存続のきっかけを作ったのも野中だった。1988年に成立した静穏保持法という法律があった。これは「国会議事堂・外国公館・政党事務所の周辺地域での拡声器使用を規制する」もので、学会名誉会長の池田が自宅周辺での右翼の街宣に悩まされていたのを、公明の事務所として届け出ることで街宣を排除する目的でつくられた法律だった。この法律を自民党が成立させるのと引き換えに、公明党は消費税導入に賛成する、という取引きの下でつくられた経緯があった。

 参院の公明が消滅すれば、政党要件を満たさず池田宅は政党事務所でなくなり、池田名誉会長の「静穏」が「保持」されなくなる。この法律の存在と目的を忘れていた公明・学会に、関西長を通じて野中が思い出させたことで、公明は消滅から存続へ舵を切らざるを得なくなったという。


 1996年から衆議院は小選挙区制に移行する。小選挙区制では一対一に持ち込まないと勝てないため、与野党ともに候補者の一本化を進める。公明党は全国の創価学会票を少なくとも600万票抱え、単純計算で300の小選挙区に各2万票以上を持っていた。学会票のついた候補は+2万、逃した候補は-2万で、4万票の差がつくことになり当落が左右される。「確実に確保できる組織票」の恐ろしさを知っているから自民は公明の取り込みを選択した。

 選挙で安定した議席を確保するために組織票を手に入れる、そのためには非協力的な組織を徹底的に叩いて弱らせ、協力せざるを得なくしていく。その「実例」をディナビッグないし伏原恋は認識していた。



 真善美による「反連合キャンペーン」の過程で、社員よりも高額の年収を得ている組合幹部があったり、幹部の遊興費使い込みが発覚し弁済して穴埋めしていた事例や、ストを打たないのに過去の名残のまま割高な組合費を徴収し、数百億円の資金をプールし数億円もの運用益を上げているような御用組合もあった。不当解雇に直面しても組合に守ってもらえずユニオンへ走った社員を、会社と結託して攻撃した労組などの事例も明らかになった。既に表面化はしていたが世間に広く知られてはいなかった事件も蒸し返された。

 それぞれの事件は個別のものだったが、間髪をいれず次々と出てきたことや、労働人口の半数弱が非正規労働者が占め、組合に加盟していない人の多い社会だったことも、大きな怒りを呼ぶ要因となった。「日本を悪くしている組織」という印象を形成させ、ほとんど「私刑」の様相さえ呈した。インターネット上で話題になり、連日マスコミ・ワイドショーが取り上げるようになり、ついには衆院予算委員会で連合会長が参考人招致されるに至った。参考人招致は各委員会の理事会や理事懇談会で協議され、原則全会一致のため反対があれば実現しないが、世論の怒りが高まる中で反対すれば「擁護している」と見做され矛先が向きかねない状況ではどの会派(党)も反対はできなかった。

 委員会で質問を受けた参考人(連合会長)は、「各組織の中で解決されることを望む」「連合が直接関与したり指導する立場にはない」「ほとんどの労組は真摯に活動している」と問題を認めず組織を防衛するような発言をしたため、ヤジや怒号が飛び交う状況に陥ってしまった。その場で資質や進退を問うような質問さえ出された。


 予算委員会そのものにはディナビッグは出席していなかったが、その夜に囲み取材に応じ、連合会長の進退について「もちろん自分たちで決めることだけど」と断った上で発言した。

「単に会長を変えればいいってことはないでしょう。自己改革を約束できなきゃ意味がないんだから」

「ちゃんと労働者のために働く、非正規も守る、歴史的な経緯がどうかなんて今働いてる人には関係ないんだから、よその組合を攻撃するのをやめる。当たり前のことを約束する。そういう会長じゃなきゃ意味がない」

「自己改革のロードマップを示して、連合が世の中を良くしていくって気があるなら、私ら真善美だって協力したい」

 それは一見常識的な一般論を述べただけにも見えたが、暗に会長の人選と今後の方向性へ釘を刺すものだった。「非正規も」は、もちろん立場の弱い労働者も守れという表の意味もあったが、平成期の約30年間で非正規雇用者の割合は2割から4割へと倍増し、非正規の労組加入率が低く、組織率が低下して集票力に限りがある連合のテコ入れという意味も含んでいた。「歴史的な経緯」も、御用組合ではない組合やユニオンを不当に攻撃するなという表の意味と共に、言うまでもなく全労連、ひいては共産党との協力関係を最低限許容しろ、という意味だった。

 連合側は、それが真善美の「反連合キャンペーン」停止条件の表明だと理解した。


 連合会長は任期2年で通例2期4年ないし3期6年務めるところ、1期で退任し、事実上の辞任だった。副会長の1人が会長に選任された。2年ごとの改選期には役員推薦委員会(役薦委)が立ち上げられ選考が進められる。現会長の側近が有力視されていたが、世論を考慮せざるを得なくなり、火中の栗を拾うのを躊躇して誰もが固辞する中で人選が難航した。最終的に総評系出身の副会長の昇格が内定し、定期大会で正式に選出された。歴代の会長は同盟系出身であり、総評系出身の会長は初だった。




■野党再編


 立憲と連合の代表/会長がそれぞれ代替わりし、方向性も変わったことで、ようやく野党再編への地ならしができた。

 立憲側からの要請を受け、真善美は合流協議に入った。立憲の方が規模も大きく歴史も長いこともあり、立憲側議員の中には「立憲は解散せず同一団体として存続、真善美が合流、党名も立憲民主党のまま」という主張もあった。しかし真善美の方が政党支持率としては高く、仮に真善美が過去の選挙で強く立憲に対立していた場合、立憲は現在の規模を維持できなかった(むしろ与党側の議席が伸びていた)という現実を多くの議員が理解していたこともあり、それほど大きな主張とはならなかった。

 両党とも解散の上、新団体の設立という形で合流協議は1ヶ月程度で両党の党首・幹事長の間でまとめられた。2020年に旧立憲民主党と旧国民民主党が合流した際は、合流協議が8ヶ月に及んだことと比較すると、かなりスムーズだったと言える。政党交付金との絡みもあり、年末までに新党を発足さえたいという事情も働いた。


 代表選には真善美代表だったディナビッグと、立憲前幹事長が立候補した。立憲前代表はディナビッグ支援を表明し立候補を見送った。

 同時にそれぞれが党名案も提出し、ディナビッグが「真民主党」、立憲幹事長が「立憲民主党」を出した。ディナビッグ自身はさして「真善美」という党名に愛着はなく、シンプルにただの「民主党」に戻ればよいと考えていたが、ここまで真善美を支援してくれた個人・団体・所属議員などへの配慮や、新党であることのアピールもあり、「真」の一字を残すことになった。もともと「真善美」がスナックの名前から来ていると知ったらみんなどう思うだろうか、とディナビッグはちょっと愉快な気持ちになった。


※なお、「真民主党」という党名は過去2012年に使用されたことがあった。衆院議員であった鈴木宗男が北海道の地域政党として立ち上げた新党大地は、国政政党として別に「大地・真民主党」(約2週間後に「新党大地・真民主」と改名)を立ち上げ、その1年後に「新党大地」と党名を地域政党と共通のものに変更したのがそれである。ただ今回の党名案選考にあたって、そのことは特に云々されはしなかった。


 立憲のいわゆる「フルスペック」の代表選は、国会議員と公認候補予定者票に加え、地方議員や党員・サポーターも投票して実施されるが、今回の新党代表選挙は国会議員のみで決定された。代表はディナビッグ、党名は真民主党(英語名はThe Truth Democratic Party of Japan、略称TDP)に決定した。結党大会で新代表のディナビッグは「政権党になる準備が整った」と発言した。

 代表代行は旧立憲代表が、幹事長には旧立憲幹事長が就いた。なお伏原恋は選挙対策委員長、長谷部究極美子は政務調査会長代行兼子ども・子育てPT座長に就いた。




■2度目の参院選


 次の参院選が半年後に迫っていた。(究極美子や恋は改選期ではなかった。)真民主は共産はじめ左派系野党と選挙協力・候補者調整を進め、32の改選1人区のうち30で候補者の一本化を早々に完了させた。ディナビッグ自身が積極的に地方を回って街頭演説を展開し、選対委員長の恋は地方組織の足固めに力を入れた。


 選挙期間前の活動は「政治活動」と呼び、期間中の「選挙活動」とは公職選挙法で許される活動の内容に違いがある。候補者の名前を連呼することも許されていないし、候補者名の入った街宣車やのぼり・たすきは使用できない。(そのため「本人」などというよく分からないたすきをかけることになる。)投票を呼びかけるような発言も許されない。そうした引っかかりやすいワナを避けつつ、選挙前の活動は進められた。ディナビッグの「集客効果」は抜群だった。自民党はネームバリューのある政治家が軒並み政権入りしていることもあり、そのレベルで「応援」することは難しかった。

 地域の大きくはないイベントへも候補者と共にディナビッグは現れ、その場の人々を驚かせ、感激させた。


 一方の恋は、過去に立憲民主党に所属し既に政界を引退していた小沢一郎と中村喜四郎に接触した。両名とも選挙戦に長けた政治家として知られた。小沢は89歳、中村は82歳だったが、何か妖怪のような雰囲気を醸しつつ、非常に元気だった。

 恋は彼らに、何としても参院選で勝利してねじれ国会に持ち込み、政権交代を目指すという意気込みを伝えた。

 参議院は248議席あり、比例区は100、選挙区は148で構成される。改選はその半数の124で比例50、選挙区74となる。現在は与党である自民・公明で非改選が63議席のため(前回3年前の参院選でディナビッグの真善美が出現して与党は議席を減らしていた)、次の選挙でねじれ国会に持ち込むには、野党が64議席以上を取る(与党が61議席を割る)必要がある。その「64議席」も、単に「野党で」ではなく、「真民主と選挙協力をしていない野党を除いた政党で」獲得する必要のある数字で、高いハードルだった。


 さらに欲を言えば、真民主単独での過半数獲得が望ましかった。

 かつての民主党政権では、鳩山首相が沖縄県の普天間基地返還・辺野古移設で迷走した結果、辞任に追い込まれた。これも背景には参院での基盤の脆弱性があった。党内でも「辺野古移設撤回は難しい」と考える議員はいたが、鳩山首相は「最低でも県外」発言を繰り返し、しかし現実解を見出すことができず、米政権からの不信も招いた。2009年11月の日米首脳会談でオバマ大統領から普天間問題の進展を促された鳩山首相は「トラスト・ミー」と発言し、12月には辺野古案回帰を表明して年内での決着を図ろうとした。しかし県外移設断念を伝え聞いた社民党が連立離脱を示唆する。社民が抜けると参院での過半数を維持できずねじれ国会になる状況だった。

 衆院で可決した法案が参院で否決されても、衆院は再可決して法案を成立させられる。しかし再可決には3分の2以上の賛成が必要となる。与党が衆院で3分の2以上の議席を持っていなければ、事実上は参院の多数派、「ねじれ国会」では野党が法案の成否を握ることになる。たとえ与党が衆院で3分の2以上の議席を確保できていても、政治的には再可決のハードルは高い。

 予算案(これも法案の一種として扱われる)の成立以前にねじれ国会にはさせられなかったため、鳩山首相は結論を翌年5月まで先送りにせざるを得なくなった。ますます米政府の信頼を損ない、国内的にも政治状況を混乱させたとして支持率を落とし、退陣に追い込まれた。鳩山首相当人の政治センスや理想主義的な資質の問題もあったが、連立を組んでいた社民党との関係、参院での基盤の脆弱性が足枷となった面もあった。国内の政治基盤の弱さが、結果として外交・安保政策の選択肢を狭めてしまうことがあり得る。


 真民主は、共産と選挙協力はしても、共産があくまで革命政党である以上(暴力革命を明確に否定し、現在の憲法の遵守を掲げていたとしても)根本的な党の性格の部分で連立与党を組むのが難しく、政権を取っても閣外協力に留めざるを得なかった。事前の政策協定を緻密にして離脱を避けられるかというと、かえって柔軟性を欠いて危険になり得るケースもあり、難しいところだった。たとえ党首間で合意ができていても、各々の党内・支援者の意向などの力学が働くこともある。

 そう考えると、真民主単独での参院過半数が望ましかったが、現実には非改選の勢力差を考えるとほとんど不可能だった。


 恋はそうした状況と認識を伝えた。小沢も中村も、もともと自民党に所属して大臣や党三役の経験を有し保守派ではあったから、民共共闘自体には否定的だった。とりわけ小沢は二大政党制を目指した小選挙区制導入の立役者の一人だったが、保守と保守の二大政党制を構想していたから、最大野党の左傾化には憂慮を示した。ただ、風まかせではなく着実に議席を確保する姿勢には共感を示したし、そのための協力を約束した。

 恋の個人的な資質として、「自分が話したい」政治家に多い性格とは逆に、相手に気持ちよく話をさせるのが上手かったため、政界引退し一定の影響力は保持していても、現役時より人に頼られる場面の減った寂しい老人にとって「キャバクラ」のように機能して気に入られた、という側面も大きかった。


 過去に民主党政権が成立した際は、小沢の「川上戦略」が大きな力を発揮した。山間部=川上から市街地=川下へ浸透を進め、辻立ち・ポスター貼り・ミニ集会開催・小型選挙カー導入等のいわゆる「どぶ板」の選挙戦略だった。その具体的な要諦を伝授された。

 参院選は一票の格差が衆院選よりも大きく、特に民主党政権成立当時は、鳥取県(1人区)と東京都(5人区)で人口が25倍違い、一票の格差が5倍あった(衆院は最大でも2倍程度)。合区導入、東京の定数増などの調整を経た後も格差は3倍程度残存した。このため「参院選1人区を取ること」が最もコストパフォーマンスに優れていた。

 小沢は全選挙区の過去の投票率や政党支持率、世論調査の結果などを細かくまとめたデータを秘書のカバンに常備させ、そのノウハウやデータは党内に開示しないまま引退した。データは多少古びていても、有効なものも多く、その大部分を恋は小沢から得ることに成功した。

 ただ、この四半世紀で人口減少が進行し、地方も都市部への人口が集中していた。需要の減った山間部へのインフラが衰退、生活条件が厳しくなりさらに都市部への移住が進んだり、山間部へ残っていた高齢者も減少していった結果、実質的な廃村・集団離村が起こり、単独で維持できなくなった自治体の統合も進んでいった。かつての「川上」自体が消滅していたため、「川上戦略」はかつてほど大きな力を発揮しづらくはなっていた。


 第28回参議院議員通常選挙の結果、改選124議席のうち、自公が46議席、真民主・共産・他選挙協力を組んだ野党が68議席、その他野党が10議席を獲得した。真民主と協力関係のない野党を除いた勢力で、改選前議席と合わせて参院の過半数を獲得し、ねじれ国会となった。さすがに真民主単独では過半数は獲得できなかった。投票率は高く、浮動票の割合が相対的に高かった。

 真民主の大勝は、候補者調整や、選挙期間前からの基盤固めも寄与していたが、大勢は真民主に対する「風」と言えた。ただしその風の大部分は、ディナビッグ個人に対する支持でも、真民主に対する支持でも、リベラル的な価値観の隆盛でもなかった。産業資本主義の極まりと、一種の安定構造だった冷戦終結から40年超が経過し、むき出しのエゴイズムで各国が自国の利益確保に走らざるを得ない世界で、ゆっくりと衰退してかつての先進国中で「一人負け」している(と感じさせる)国に暮らして、少しでも「何かが変わりそう」な気にさせてくれる「イメージ」にみんなで縋った結果だった。このどうしようもない停滞感に対する嫌気が、「風」の正体だった。

 ねじれ国会は、その停滞感を加速させる装置だった。ここから次の衆院選にかけて、真民主は「セオリー」通りに予算案・重要法案を参院で否決し廃案に追い込み、政治の停滞を演出していった。




■政権党への準備


 ディナビッグは、真民主が「政権を取ること」だけでなく、「政権党になること」への準備も並行して進めた。「党内安定化」「税調強化」「PR力強化」の3点を、真民主の結成直後から重点的に進めていった。



【党内安定化】

 1つ目の「党内安定化」は、党内の旧立憲側の議員、特に保守系グループや組織内議員によるディナビッグ体制に対する不満や恨みの軽減を意味した。真民主の設立に至るまで、ディナビッグと真善美は立憲や連合叩きを繰返していた経緯もあり、感情的なしこりは大きく残っていた。

 党内に反主流派勢力が存在し、分裂の可能性があれば「政権交代可能な二大政党制」の安定的な維持は難しい。実際、過去の民主党政権はその末期に、小沢一郎グループが離党して新党「国民の生活が第一」を結成して瓦解している。

 真民主の代表代行、幹事長、政調会長、国対委員長を全て旧立憲出身者で固めたのは、党内宥和への意思の現れではあった。衆参個別の議員と頻繁に対話を重ねていった。直接ディナビッグと話すと、「この人は自分のことを理解してくれている」という気分についなってしまうのだった。テレビタレントとして培ってきた話術は笑いを誘い、笑ってしまえば気を許したようになってしまう。ディナビッグ自身、リベラル的な価値観は持ち、国家主義者ではなかったが保守的な側面もあったため、保守系議員との価値観の共有もそれほど難しくはなかった。

 それから、参院選候補者の地盤強化のための地方周りを、参院選後は現職の衆院議員や立候補予定者を中心に勢力的にこなした。ディナビッグの知名度や集客力は、立憲内の首相・大臣経験者や代表経験者よりもはるかに高かった。議員にとって結局プライオリティの第1位は「当選すること」であって、ディナビッグへの個人的な感情がどうであろうと、そこを支えてもらって有難くないはずもなかった。



【税調強化】

 2つ目の「税調強化」も、過去の民主党政権の反省から来ている。

 自民党や真民主党など各党は、党内に政務調査会(政調)が設置されており、党としての政策や法案を取りまとめている。その長は政務調査会長(政調会長)であり、幹事長などと並んで党三役、党四役などに数えられる党幹部である。その中に、外交、農林、厚生など省庁に対応した専門の部会や、個別テーマに応じた調査会が存在する。自民党が与党である場合、党が取りまとめた政策は、政府の政策に反映されていくため、大きな力を持つし、省庁や業界団体などから様々な要望が党の部会や調査会に届けられ、政府も党の影響力を無視できない。

 過去の民主党政権では、党の政調を廃止してしまった。もともと自民党政権に対して「派閥や族議員が政策を決めて政府の責任が曖昧だ」と批判してきた。そのため「政府与党一元化」を掲げ、イギリスを参考に党幹部を入閣させ、菅直人が副総理・国家戦略担当相と党の政調会長を兼任する予定だった。しかし政治資金問題もあって入閣が立消えになった幹事長の小沢一郎が、政府入りを反故にされた警戒感から、党の政調を廃止し菅の党内での足場をなくし、政府と党を分断してしまう。

 また政調が消滅したことで、政府入りせず党に残った議員の役割が不明確になり不満を溜め、そうした議員がテレビなどで公然と政府批判を繰り返す事態に陥った。旧来の自民党のやり方は、政府の責任が曖昧になるという批判はあっても、党内に仕事を残すことで、政府入りしないメンバーのモチベーションやインセンティブの管理ができ、政権の安定に必要なことだった側面がある。

 さらに自民党政権で年末恒例だった予算陳情を、小沢幹事長が一手に取り仕切り、「政府が政策を決める」方針が骨抜きにされ、最後の野田政権では自民党の予算編成に近くなっていった。


 税調は「税制調査会」の略で、政調に属する各種調査会のうちの一つである。(政府にも税調は存在するため、政府税調/党税調と呼び分けられる。)

 税法は、所得税・法人税・消費税など本則の税法と、租税特別措置(租特)から成る。租特は本則に付随するものであっても、本則と同程度の分量があり、両者を合わせると巨大で複雑な(理解するには極めて高いコストのかかる)システムをなしていた。

 租特による税の軽減措置は、歳出で補助金を出すのと同じ経済効果を持つため「租税支出」と呼ばれる。一見すると税制でも、本質的には補助金と同じであるため、年末の予算編成では官僚組織や業界団体から大量の税制改正要望が届く。複雑な税制、とりわけ租特を知悉し、要求を差配し利益を分配する税調や税調会長は大きな権力を持ち、総理であっても容易に容喙できないような存在であった。

 過去の民主党政権では「政府与党一体化」の理念に基づき、政務三役(各省の大臣・副大臣・政務官で国会議員が就く)が党税調の役目を代行する仕組みとしたが、税制に馴染みがなく役人のペーパーを読み上げ、各省の利害を代弁するだけになってしまった。あるいは元官僚の議員など特定の「詳しい人」に依存し、その人物個人の考えがそのまま全体に反映されていく危うさがあった。


 政官の良好な緊張関係を保つには、政治家が勉強しないといけない。特定の個人だけが詳しければ済むことではなく、層の厚みが必要だった。政治家だけでなく、政治家を取り巻くスタッフ、秘書も勉強が必要になる。勉強をするには、国会議員やスタッフに「勉強する時間」と「勉強する機会」を確保しなければならない。それは税制に限らない。ただ税制については、

・権力の源泉になり得てしまい、機能が属人化したり誰か一人に牛耳られると党や政府のガバナンスが機能しなくなる

・税収の自然増が見込めない中で、言われるがまま租税支出を垂れ流すことはできない

といった理由から、ディナビッグは税制の学習と税調の強化をとりわけ重要視した。

 選挙基盤が脆弱な議員は、頻繁に地元に戻る必要がある。ディナビッグが議員や候補者の地元周りを精力的にこなして基盤強化の手伝いをしたのも、議員・候補者の「勉強する時間」を作り出すためでもあった。


 一方で「勉強する機会」については、与党であれば、毎年大量の要望が届き、それをさばいていく経験の中で学習していくことができる。しかし長い期間野党にあるとそれも難しかった。税制のうち本則の、一般によく知られている税(消費税や所得税等)について、理念や大方針を取りまとめて公表するだけの機関になってしまっていた。

 旧民主党が政権を取る前の2007年に、当時代表だった小沢は、ねじれ国会で苦しんでいた福田首相との間で、民主が自公政権へ与党入りする「大連立構想」を持ち込んだ。福田-小沢間で合意にまでこぎつけたものの、民主党内で猛反発が生じて頓挫したことがあった。これも政府に入った経験のない民主党議員への学習機会提供の意味があったが、その機会を失ってしまった。「政権交代可能な二大政党制」を目指す中で、「信任を失っていく与党に協力し、巨大与党が誕生する/最大野党が国会から消滅する」状況は国民には分かりづらく不自然だから、大連立の選択肢はディナビッグにはなかった。

 そのため「質の高い勉強会を党内で繰り返し開き、必要性を納得してもらい、所属議員やスタッフたちを参加させる」という極めて地味で地道な方法を取るほかなかった。現役の財務官僚や元財務官僚の国会議員、業界団体の役員、さらには自民党税調の経験者などに登壇してもらった。自民党にとっては「敵に塩を送る」ようだったが、日本の財政状況と税を蝕まれることが全体にとっての不幸で、それを防ぐには敵味方関係なく国会議員全体のレベルを底上げする必要があるのだと力説し、協力を得た。

 また税調以外の、政調の各部会・調査会に担当分野の租特の内実調査をするチームを立ち上げ、問題点を発見・調査する過程で、税制や業界構造への理解を深めさせていった。



【PR力強化】

 3つ目の「PR力強化」は、ディナビッグ自身は作家・タレントでもあり高いPR能力を持っていたが、属人的に党全体がそこに依存している節があった。党・所属議員・候補者の能力底上げが必要だった。

 真民主に限らず、ほとんどの日本の政治家は対外発信力が貧弱で、サウンドバイト(言動の音声や映像の一部)の切り取られ方への意識がまるで不十分だった。不用意な発言をこぼして「炎上」するのは大きなリスクだったし、ダメージの大きい場合は議席を失う。彼らのバックグラウンドが会社員など組織の一員で、当選後も知名度が高くなくメディア露出の機会が少なく、「常に見られている」「発言は都合よく切り取られる」という意識が希薄だった。頭では分かっていても、実際に体験したことがないから、立ち回り方を体で覚えていない。

 「見え方」「伝わり方」をコントロールするのは、政治家という職業にとって身につけて当然の技量なはずだが、ディナビッグから見るとまるで無頓着な連中が多過ぎた。逆に言えば、そこをきちんと鍛えればアドバンテージになり得た。


 特に政権を伺う真民主にとって、「まるでもう政権党であるかのように振る舞う」ことは必要不可欠だった。例えば会社組織の中で、誰かを課長に就任させる段になって、選ぶ側が安心して選び得るのは、「既に課長になる準備ができている(ように見える)人」で、それは「普段から要所要所で課長に相当する判断や行動が示せている人」である。選んでもらうためには「まるでもうそうである」かのように振る舞えていないといけない。

 「野党の主な仕事は政権批判」とはその通りで、議会制民主主義における重要なパートだとしても、「批判はするが統治能力はない」というイメージを与えてしまえば、安心して選んでもらえない。議会活動においては法案や政府・与党の問題点を追求はするが、それ自体をアピールポイントの中心には据えず、むしろ「我々はこうする」の表明に注力した。真善美時代の『日本健全化プラン』の出版もその一種だった。


 日本には有力なPR会社が少なかった。日本では、企業などがPRを必要とする時は、広告を載せてあげることと引き替えに、メディアの営業がPRを引き受けてくれたから、そもそも専門のPR会社の必要性が小さかった。これは日本のメディアでは「報道の自由」や「経営と編集の自由」が未分化であることを意味した。

 そうした土壌の中でも、質の高い仕事で業界の評価が高かったPR会社、ユキモトと真民主は契約した。ディナビッグがメディアの知人を頼って選びだした相手だった。ユキモトは従業員数50名強と小規模な会社だったが、代表の雪本功は著名なPRの専門家ジム・ハーフの元で米国のPR会社に勤務した経験があった。

 ハーフはボスニア紛争で、ボスニア・ヘルツェゴビナの外相(その後首相)だったハリス・シライジッチをテレビ向けに鍛え上げ、「エスニック・クレンジング(民族浄化)」というバズワードを生み出し、米国世論と政府を動かすのに大きく貢献した人物だった。雪本自身はそれほど押しの強い人物ではなく、むしろ腰が低く気配りのできる人物だった。雪本は、日本の大手メディアをある意味で軽蔑していたが、一方でそうした大手メディアに幅広く食い込んで、相手の利害を押さえて世論形成のできる人物だった。

 世論形成にはメディアへのアクセスだけではなく、その国の世間のタブーを踏まず、俗情に添うようなストーリーの提示が必要になる。ジム・ハーフのボスニア紛争では、ナチスによるホロコーストを強く想起させながら、「ホロコースト」という言葉を絶対に言わず、「エスニック・クレンジング」という新たな言葉をわざわざ作り出している。欧米諸国ではホロコーストは比較できない、相対化できない、史上の絶対的な悪であって、「それと同じ」という言い方は反発を生み必要な支援を得られなくなる。

 あるいは2022年に発生したロシアによるウクライナ侵攻を受け、ウクライナの当時のゼレンスキー大統領は各国の国会でオンラインの演説を展開し支援を促した。米議会ではキング牧師の演説を引用し、真珠湾攻撃に言及した。英議会ではチャーチル首相の演説を引用、ドイツ議会ではロシアとの貿易関係やウクライナの加盟への非協力的な姿勢に非難に近いニュアンスで語った。欧米各国へは強い調子で参戦を促した一方で、日本の国会では憲法の縛りによって武器供与などが不可能な国情へ配慮し、原発事故・広島長崎・オウムなどの過去の事件を想起させつつ、戦後復興支援・国連安保理改革支援などをソフトに訴えた。

 世論に怒りや同情を喚起させ、その国の政府の行動を望む方向へ進める。そのためにはその国・国民の歴史・文化・性質を踏まえて適切なメッセージを発出しなければならない。日本であれば「死屍に鞭打つこと」は嫌われるし、「他のみんなもそうしている」は好まれる。「一人負け」も「一人勝ち」も嫌われるし、「分をわきまえない」のも嫌われる。ただそうした少し古い価値観にべったりであることもまた、批判にさらされる。雪本功やユキモトは、影響力のあるメディア等へのアクセスができるだけではなく、文脈や価値観を踏まえた高レベルなメッセージ構築ができた。


 ユキモトの指導を受け、個々の政治家としては基本的な話し方や立居振舞からSNSなどでの発信の仕方、「外側からどのように見られるか」客観視する訓練を徹底した。最初からできている者や急速に上達する者もいれば、根本的な価値観の部分で他者を見下したり社会的な弱者の視点を持たず「炎上気質」な人物もいた。PR能力以外も含めた各議員の「通信簿」は伏原恋へ情報が集約され、リスキーな人物は要職から外すなど、その後のリスクマネジメントに活用された。




■政権交代


 ねじれ国会をもたらした参院選から1年8ヶ月後、衆議院は任期満了の少し前に解散され、総選挙に突入した。

 真民主党は今回も早々に協力政党との間で候補者調整を済ませた。ねじれ国会下での政治的停滞と、政権党のように振る舞うPR活動、地方での地盤固めなどが着実に進行し、選挙戦前の情勢は真民主有利が明らかだった。与党自民党は選挙前に総裁を交代しても大きな党勢回復にはつながらず、有望な将来の総理総裁候補をここで使い潰すよりこのまま進めた方が良いと判断し、総裁は辞任せず従来どおりの選挙戦を展開した。(事実、過去に自民党の野党時代に総裁を務めた河野洋平も谷垣禎一も、首相就任の目前で総裁選を辞退せざるを得ない状況に追い込まれ、再選が叶わず首相になれなかったという一種のジンクスがあった。)事前に「有利」との情勢があまりに伝えられれば有権者の投票行動は鈍り、有利な側の候補者の慢心に繋がることもあり、真民主党執行部は「苦戦」を演出した。

 「風」の効果もあり真民主党が大勝、単独で過半数を獲得し政権交代となった。


 月曜の午前5時前に全465議席が確定。ディナビッグは一旦、赤坂の衆議院議員宿舎へ帰宅した。

 シャワーを浴びながら「自分が首相になる」状況を、非現実的だと感じていた。別の人間を見つめるような気がした。

 ディナビッグが首相ってどういうジョークなんだ、と人は思うだろうし、私もそう思う。ただ「米国大統領がトランプ」というジョークのような現実を既に経験しているのだから、別にいいか、と思い直した。

 何かゲームのようだと思った。大学3年の時にPlayStation2で発売された「塊魂」を何となく思い出していた。家の中や街の中にある様々なものを巻き込んで、どんどん塊を大きくしていくゲームだった。塊が小さいうちは巻き込める対象物も小さく、大きなものにぶつかると吹き飛ばされたり塊が壊されたりする。小さい塊の時は、対象が巻き込めるかどうかを慎重に素早く見極めて、巻き込めるものは漏らすことなく丁寧に巻き込んでいく。そうして大きくなっていくと、かつては障害物だったものも巻き込んで雪だるま式に塊が大きくなっていく。一定以上に大きくなると、もはや障害となるような対象物はなく、一方的に蹂躙できるようになっていく。


 ディナビッグは、腹の肉をむんっと掴み、ゆっさゆさ激しく揺らし始めた。豊かな贅肉の振動が全身に伝わる。シャワーから落ちてきた水滴が肉に弾き飛ばされる。

 たった3人で新党を結成した。行けるところまで行ってみよう。それができる立場に偶然立ったのなら、役目を引き受けよう。必要なことを、適切な順序で、ひとつずつただ進めていっただけだ。最初は細かな金勘定にもあくせくしていた。(今も党の規模に対して資金が十分なわけではなかったが。)周りを叩いたり、なだめすかしたり、少しずつ巻き込んでいった。それが国政で第一党となるところまで来た。逆風にさらされずに、大きなつまづきもなく来られたのは、ほとんど偶然だろうと思った。偶然だとしても、その偶然の束の中で望む結果を手にしたのは、可能性を高める手を重ね続けたからだった。


 腹の肉を揺さぶり続けながら、片手で今度は尻の肉をバシバシ叩き始めた。叩かれた尻の肉が湖面のように波打つ。だんだんリズミカルになっていく。パンパン・スパパンッ・パン・スパパンッ!! 浴室の中で尻叩きのリズムがこだまする。ディナビッグは上を向いて大口を開けた。口の中に勝手に入ってくるシャワーの水をゴクゴクと飲み込んだ。身体にお湯が染み渡っていくのを感じた。

 肉体を感じていた。機能ではない。生身の一つの人間。別の人間を見つめているような感覚は消え去り、自分が自分の肉体に戻っていく。もうゲームではない。ゲームのような側面があっても、今生きている人間たちと、将来生まれてくる人間たちの人生に大きな影響を与えていく。偶然自分がそのポジションにいて引き受けたのだとしても、これを現に引き起こしたのはこの自分だと考える。私の手に余ると感じても投げ出すことは許されない。自分を矮小化しない。しかし過大評価もしない。孤独な判断に耐えなければならない。

 ディナビッグは腹肉ゆすりと尻肉たたきを続けながら「ウオォッ」と吠えた。ンゥオオォーーーーッと腹の底というより背中から声が出るような、全身を楽器のように共鳴させて低く吠えた。

 2007年に完成し、築26年の議員宿舎は、それなりの遮音性があったが、両隣にも低いディナビッグの吠え声が聞こえたほどだった。




■首相就任


 日曜の衆院選の投開票から5日後の金曜に、衆議院の各会派の代表者による協議会が実施された。憲法54条1項は「衆議院が解散されたときは、解散の日から四十日以内に、衆議院議員の総選挙を行い、その選挙の日から三十日以内に、国会を召集しなければならない。」とある。この規定に基づき召集される国会を特別国会と呼ぶ。衆院の議院運営委員会のメンバーは未定のため、各党の代表による協議会が開かれ、召集は5日後(投開票から10日後)の翌週水曜となった。

 特別国会の会期は通常、衆院議長・副議長の選出、内閣総理大臣の指名が主で、3日間程度となる。ただしこの時は衆院選と続く政権交代が2月であったため、年度内の予算成立が喫緊の課題としてあったことと、1月に召集され会期は150日間と国会法で定められている通常国会が短期間で終了していることもあり、7月下旬までを会期として設定されることとなった。


 特別国会の召集日の朝、臨時閣議が開かれ、閣僚の辞表が取りまとめられ、自公連立政権による内閣が総辞職した。午後に衆議院本会議が開かれ、新たな衆院議長・副議長が選出、その後に首相指名選挙が実施され、ディナビッグが第一回の投票で過半数を得て指名者となった。続いて参議院も本会議が開かれ首班指名選挙を実施、こちらもディナビッグが指名者となった。両院とも指名者同一のため両院はそのまま散会。首相官邸にてディナビッグは、内閣官房長官予定者や与党幹部と組閣本部を立ち上げた。内閣官房長官は伏原恋に内定していたため、恋より閣僚名簿を発表、新閣僚が首相官邸に呼び込まれた。(なお真善美のもう一人の立ち上げメンバーであった究極美子は厚労大臣政務官に任じられた。)


 夕方に皇居にて総理大臣の親任式と、閣僚の認証式が行われた。(なお2年前に前の天皇が71歳で生前退位しており、愛子が即位・改元していた。)

 ディナビッグは国会議員になって以降、ずっと通していた衣装のまま親任式に臨んだ。後日、一部ネットで「不適切・不敬ではないのか」と話題になったが、女性の昼の正礼装であるアフタヌーンドレスの要件(袖・スカート丈はロング、素材はシルクの無地)を満たしている、と解説がなされて沈静した。

 その際に、ディナビッグが自身の服について過去に語ったインタビュー記事が「発掘」されて広まった。ブリオーが女性から男性にも広まったこと、ウエストを絞らないスタイルが女性解放と結びついていることなどが広められた。単に個人がデザインを気に入っている、マツコ・デラックスへのリスペクトないしオマージュに留まらず、ジェンダーレスやフェミニズムなどの文脈に接続しているというストーリーが拡散した。

 この「ストーリー」は、その後の首脳外交でも海外メディアによって解説され、ある種の「正当化」ないし「キャラ付け」に役立った。


 なおディナビッグはアルファベット表記では「Dinah Big」とされた。ペンネームとして使用し始めた当初からそうだった。もともと本名である「大膳」に由来するので、「dinner」とするのが自然だったが、名前としては不自然かと考えて、特に深い考えもなくそのような表記にしただけだった。ディナ(Dinah)は、旧約聖書の創世記に登場する、ヤコブとレアの間に生まれた娘の名前で、ヘブライ語で「正義」「公正」を意味した。英語読みでは「ダイナ」となり、19世紀のアメリカで「ダイナ」は奴隷にされたアフリカ系女性の総称として使われた。

 服装の「ストーリー」と併せて、名前も一種の「特別な響き」をまとって、さらに自身が立ち上げた新党が「真善美」だったことも紹介され、本人のもとの意図とは別に、何か哲学的な人物のように扱われた。

 米国訪問時にはテレビショーにも出演し、流暢とは言い難いが商社員時代に培った英語能力と(ただし駐在経験はなく調査部門に所属していた)タレント時代に培ったトーク力を活かして、軽妙にやり取りする姿とのギャップが、それなりに受けた。


 それからディナビッグの花押も話題になった。閣議書には首相を含む閣僚が花押と呼ばれるサインを毛筆で書き込む慣行があった。事前に書家などに注文して作成してもらったり、何の準備もなく突然大臣になったためにただの名前の一字を取ったものだったり、人によってまちまちだった。同じ人でも途中で変えることもあった。慣行であり、特に規則で決められてもいなかった。徳川家康が上下に横線を引き、その間に「悳」(徳の古体)の草体を配した花押を用い、その後の徳川家でも天地に線を引く(元は明の太祖の花押に由来すると言われる)天地体のスタイルを引き継いだことで、江戸時代に花押の基本形となった。

 ディナビッグの花押は、そのデ・イ・ナの片仮名3文字を組み合わせつつ、一見天地体に見えるものだった。太字で堂々した様が、本人の体躯に似つかわしかった。名前の漢字を元にデザインされることが多かったため「片仮名の花押」と話題になったが、過去にも首相経験者では、能書家としても知られた麻生太郎が「タ・ロ・ー」を組み合わせた花押を使っていたり、桂太郎が「太・ロ」を組み合わせたものだったり、前例がないわけではなかった。


 49歳での内閣総理大臣就任は、戦後では安倍晋三の52歳、野田佳彦の54歳を抜いて最年少となった。しかし就任期間は1年5ヶ月と(日本の首相では珍しくないが)短かった。




■所信表明演説


 この特別国会の中で、ディナビッグ首相は所信表明演説を行った。演説の内容は事前に閣議決定され、衆参両院の本会議で同日に同じ内容で述べられるものである。


「21年ぶりの政権交代。21年。」


 冒頭でそう切り出すと、ディナビッグは黙り込んだ。30秒ほど沈黙の時間を取って、演説を続けた。


「長過ぎる。私は怒っていました。国民が政府を選べない政治状況に、心の底から怒っていました。怒りながら、『日本はそういうものだ』と諦めてもいました。でも、自分のできることをやろうと進んでいった先に、ここに立つことができました。多くの人の手助けがありました。最後は、国民の選択によって、ここまで来ました。

 しかし、道半ばです。政権交代は目的ではありません。たとえ政権が交代しても、党派がバラバラになって、また選択肢が国民の前から消える。そんな状況が、この40年間続きました。安定して国民が選べる政治状況をつくる。そのためには、これからの私たちの政治が、国民に安心してもらえるものでなければならない。私は全力を尽します。みんなの手を借りて、進み続けます。

 これは党派とは関係がない。権力を自分のものにするためではない。この国に生きる人々と、これから生まれてくる人々と、さらに世界に生きる人々のために、そうする。ここにいる『正当に選挙された国会における代表者』である私たち全員が、規律と緊張感のある政治をつくり上げるのだと、私は信じます。」


 ディナビッグの演説は全体を通してセンテンスが短く、口語的だったが、理念を語って確認するようなものになっていた。「正当に選挙された国会における代表者」は、もちろん日本国憲法前文の冒頭にある言葉で、その次も憲法の尊重に関する「理念の確認」が続いた。


「私は、立憲主義という大原則を、常に忘れずにいたいと思います。人間の権利は、国家の親切心によって与えられるわけではない。生まれながらにして与えられる。この原則を国家が侵すことはできない。憲法によって、この制約を国家が受け入れる。政府も国会も、権力に対して抑制的でなければなりません。」


 真民主党の前身が立憲民主党であることは周知の通りで、旧立憲を忘れていないという目配せにも聞こえた。一方で"the rights of man come not from the generosity of the state but from the hand of God"(人間の権利は国家の親切心ゆえに与えられるものではなく、神の手によって付与される)というジョン・F.ケネディ米大統領の就任演説にあるフレーズも思い出させた。(日本社会では「神の手」は馴染まないため「生まれながらに」と世界人権宣言第1条の言い回しになっていた。)

 これ以外の箇所も、日本の首相の所信表明演説からではなく、米国大統領の就任演説からの引用がいくつか見られた。


 例えば社会保障政策を語る中で、「『唯一我々が恐怖すべきは恐怖それ自体だ』。お金や人生の心配があまりに大きければ、その恐怖から抜け出すこともできない」云々の一節があった。フランクリン・ルーズベルト大統領の就任演説にある"the only thing we have to fear is fear itself"という著名なフレーズの引用だった。ルーズベルトは1920年代末の経済恐慌を受け、ニューディール政策(政府による積極的な財政出動)を矢継ぎ早に打った大統領であった。社会保障政策を語る中での引用だったため、積極財政をほのめかしているようでもあったが、実際のディナビッグ政権の政策はそれほど大胆なものではなかった。


 ディナビッグは首相になる以前の別の場面で「日本社会は偽善を嫌う」特性について語っていた。口では理念を語りつつ、実際にやっていることが違うという偽善を許せない。お互いに弱みを見せ合う、善を目指すことをやめた姿をみんなで見せ合って安心する。偽善を語る人を、「私は弱い、しかしお前も弱いだろう」と「恥の共有」で連帯に引きずり込もうとする。露悪趣味的な共同体の作り方が、伝統的に存在する。本居宣長のいう「漢意」が偽善で、悪いままでも正直な方がいいというのが「大和心」に相当する。さらにマスメディアがそれを再構築して強化するような構造があった。

 しかし偽善には、少なくとも善を目指す姿勢がある。「統制的な理念」というものがあり、今すぐには実現しないかもしれないし、永遠に実現しないかもしれないが、目指す方向として存在するような理念をいう。

 内輪では露悪で済ませられても、世界には通じない。1990年の湾岸戦争で、日本は130億ドルもの国費を投入して多国籍軍を支援した。クウェート政府が米紙に掲載した感謝の広告に、30カ国の名前が並んだが、その中に日本はなかった。広告は米国側の発案で、その30カ国は多国籍軍の参加国だったから日本は入らなかったという事情はあったし、資金提供は実際には感謝されてはいたが、一方で「金を出して汗をかかない国」という扱いを受けたのも事実だった。実態として貢献しても、そこに理念やストーリーが欠ければ効果は出ない。逆に、実態としての貢献がさほどでなくとも、理念を語ることで国際社会や世論への強い影響を及ぼす例も多い。

 偽善を語ることは恥ではない。政治家でも実業家でも社会活動家でも、理念を語れなければいけない。

 そのような認識を語ったディナビッグが、理念を語りあげることをしない傾向の日本のものより、4年に1度の言葉の祝祭である米国大統領選、そのフィナーレに位置する就任演説から引用するのは、自然なことだったかもしれない。


 冒頭の政権交代と立憲主義に関する言及の後は、一般的な所信表明演説と同様に、各種政策の表明だった。経済、外交・安全保障、社会保障について、おおよその方向性を語った。


 首相就任時の所信表明演説は、7千字強・30分程度が標準的なボリュームだった。(一般にアナウンサーは分速300字程度で話すが、演説ではおよそ分速250字前後となる。)長いものでは橋本龍太郎の約1万4千字、鳩山由紀夫の約1万3千字があり、鳩山は50分超もの長さだった。民主党政権では鳩山以外の菅・野田も1万字程度で長い部類だった。一方の短いケースは小泉純一郎の約6千字、安倍晋三(第2次)の5千字弱で、安倍は所要時間20分弱で収めた。小泉・安倍ともにポピュリスト的な政治家だったが、自覚的にポピュリズムを実践していたディナビッグはさらに短く、4千字15分ほどだった。


 演説はディナビッグ自身が書いた。政策面でのブレーン・越智えみや、PR面でのブレーン・雪本功らに直接手を入れてもらえば、より効果的な演説に仕上がるだろうと考えたが、こればかりは自分の言葉で語りたいと願ったためだった。彼らからはアドバイスのみを得た。


 一通りの政策の説明の後、「この目指す姿は、今から100日で達成できるようなものじゃない。私が首相でいる間にも終わらず、私たちが生きてる間にも無理かもしれない。それでも今、始める。」という決意が語られた。これもケネディの就任演説の"All this will not be finished in the first one hundred days. Nor will it be finished in the first one thousand days, nor in the life of this Administaration, nor even perhaps in our lifetime on this planet. But let us begin."をそのまま引用したのもだった。「統制的な理念」の性質そのものを語っていた。また現にディナビッグの短い就任期間では端緒につくまでとなった政策も多かった。


 なおディナビッグは、ケネディより、その暗殺後に副大統領から昇格したリンドン・ジョンソン大統領の方にむしろ共感を抱いていた。ベトナム戦争を始めとした外交はともかく内政に関しては社会的弱者への視線を持ち続けた点や、議会工作の巧みさなどを気に入っていたが、演説の引用には採用していなかった。別のインタビューで、尊敬する政治家として外国では西ドイツ初代首相のコンラート・アデナウアーを、日本では70年代末に首相を務めた大平正芳を挙げていた。アデナウアーは高い政治手腕を、大平は極めて高い見識を尊敬しているとして挙げたのだった。




■ディナビッグ政権


 ディナビッグ内閣の1年5ヶ月は、国際的にも国内的も大事件は起きなかった。大きな戦争・金融危機・災害は在任中に新規で発生しなかったが、国際情勢の不安定さと経済的な停滞は慢性的に続いていた。華々しく人々の記憶に残る成果はあげなかったが、自身が掲げた「土台作り」の面では基礎を築くことができた。こまごました(しかし当事者にとって切実な)内政的な課題はいくつか大きく進展した。ただそうした成果を大きくアピールはしなかった。また大きな政治的スキャンダルなどに見舞われることもなく過ぎた。



【政権基盤】

 官邸・省庁・与党のパワーバランスの取り方は時々の政権によって大きく異なる。

 かつての民主党政権は、政府与党一体化を標榜し、多くの議員を政府入りさせた。一方で党に残った議員の処遇が曖昧だったことが、党内に不満を溜めて政権批判に向かわせて崩壊する一因となった。不満を溜めないよう党内で忙しくさせ、それが現実の政策に反映されていると感じさせる必要があった。政権を取る前に党内の部会・調査会を強化したのはその意味もあった。


 また閣僚人事も党内の安定化には重要だった。その分野の素人や、醜聞の多い人物を大臣に起用するのは支持率低下へのリスクとなる。

 田中角栄内閣以降に確立された自民党の慣習として、大臣は衆院で当選5~6回以上、参院で3回以上が「適齢期」とされた。議員への一種のインセンティブないしエサとして働いた側面や、大臣経験によって知名度や箔を持たせて選挙基盤の安定化に繋げるなどの意味があった。閣僚の人事権によって党首・首相は党内の派閥・グループに対して一種の「恩」を売ることができる。

 ただディナビッグ首相は旧自民党政権のような大臣ポストの配分はしなかった。というより、それをするだけの余裕が真民主党にはなかった。21年前に民主党政権で政権入りを経験した政治家も少なくなっており、閣僚を務められる人材が限られていた。大臣だけでなく副大臣・政務官も十分に政府内で働ける人物を配置するほかなかった。閣僚ポストを与党内基盤の安定のためには使えなかったし、使うべきでもないと考えていた。21年ぶりに民間人閣僚が採用され、経済財政政策担当大臣に大学教授(越智えみではない)が、デジタル大臣に民間IT企業の著名なCTOが就任したが、これも党内へのポスト配分より実務能力が優先された結果だった。


 政権基盤の安定化という意味では、憲政史上最長となった安倍政権、とりわけ第2次以降の安倍政権が「参考」になり得たが、ディナビッグはその理解は持ちつつも、積極的には採用しなかった。ディナビッグは、安倍政権は一種の統治システムのハックであり、安倍晋三首相の才能は「図抜けた凡庸さ」にあるのだという認識でいた。

 まず最低限、外交と経済を「何かやっている」風に見せる必要がある。経済は有権者にとって自身の人生・生活に直結するものであり、外交は国家を自身のアイデンティティに投影させて反応しやすいものだから、この2つを「疎かにしている」印象を持たれると支持率が低下する。経済面では「アベノミクス」を、外交面では「外交の安倍」を標榜し、(実際上の成果の評価は別としても)この両面で「やっている感」を強くアピールした。

 また官邸主導を打ち出し「リーダーシップ」も強くアピールした。本省の本流から外れた官僚を、官邸官僚として取り立てていく。2014年に内閣人事局を設置、各省庁の幹部人事を官邸サイドが握り、官邸の評価が高い人物を人事面で優遇した。官庁の採用時の成績主義や内部のヒエラルキーは、官僚が「法の下の平等」「全体の奉仕者」の原則で働く仕組みとして機能する面があった。しかし安倍政権下では、官邸官僚になれば他省庁の官僚より上に立ち、出身の省へ戻った後も優遇される。官僚は自然と「官邸の奉仕者」となっていく。さらに各省庁は「自律的な専門家集団」から「官邸の下請け」へと変化していく。国益や国民の利益といった観点で必要と思われることでも進めなくなっていく。

 過去の民主党政権は、脱官僚依存・官邸主導を進めようとして失敗した。安倍政権では「脱官僚」を言い立てず、官邸に都合のいい人物を人事面で優遇し、既存の専門領域を侵犯したり、省庁間で競合させ、既存の官僚組織の力を削ぐことで官邸主導を実現させた。これは「脱官僚」というより、既存の官僚体制を脱しつつ、官邸周辺に新たな官僚体制を築くことで安定している。官邸官僚体制の形成は、政権の安定化に資するが、一方で民主主義の迂回や、国会や既存の官僚機構の形骸化が進む。


 小泉政権で党内の抵抗勢力(経世会)を弱体化させて総裁への権力統合が進んだとすれば、安倍政権では政府の抵抗勢力(官僚)を弱体化させて首相への権力統合が進んだと言える。日本の近代化自体が、お上からの独立性を持って抵抗する中間勢力を無力化していく過程だったことを考えると、これらはその一バリエーションだとも言えた。


 ディナビッグ政権は、「外交と経済のやってる感」アピールはほどほどにやったが、人事による官僚コントロールはほとんどやらなかった。場面に応じて本省の官僚より官邸官僚を使いはしたが、人事に関しては省庁の提案にあまり容喙しなかった。

 政権を安定させなければ政策課題に取り組むことはままならない。一方で省庁の自律性、「全体の奉仕者」の性格を失わせることが国益・国民の利益とは思われない。割り切れないものを選ばなければならない時は、最後の最後は自分の好みに従うとディナビッグは決めていた。それは単に偏見にまみれた個人の常識や、個人の利益に従うという意味ではなく、広く情報を集めて大きな範囲で見た上で結論を一意に決定できない場合、最初に感じた「正しさ」を信じて従う方が、トータルで間違いが少ないだろう、という意思決定の方針だった。

 ただ権力に関しては、よい按排に配分することは難しく、握るか引き渡すかの二択にならざるを得ない面もあり、官邸・省庁・与党の間であれば官邸におよそ集中させることになった。


 官僚の自律性を維持しながら、政治家が官僚の傀儡にならないためには結局、政治家が情報源を官僚以外にも持ち、官僚と同程度の専門性を持つか、官僚と異質な専門性を持つほかない。官僚からインプットされたことを、さも事情に通じているかのように語る政治家は与野党に掃いて捨てるほどいた。

 ディナビッグは究極美子のような人物が国政の世界にいることに大きな意義を認めていた。政治力があるわけでなくとも、ある分野で官僚以上に広い世界を見つめて政治に反映できるような人物。官僚が出すストーリーを、より大きな観点から位置づけられる人物が必要だった。

 結局は政治家が勉強しないといけない。政権獲得前から党内の政治家に勉強を強要してきたのもそのためだったし、政権交代後の政権運営も素人の「文化祭」のようにならずに済んだ。



【外交・安全保障政策】

 ディナビッグ政権はそれ以前の自公政権からの外交安保政策をほぼそのまま継続させていた。

 「挑発しない、させない、乗らない」を合言葉に、相手国へ口実を与えず、自国・他国のナショナリズムを刺激するような言動を徹底して避けた。国粋主義勢力からは「弱腰」と罵られはした。

 大規模な軍事衝突は発生しなかったが、(本来の帝国ではなく)帝国主義を堅持して覇権国家を目指す中国との摩擦が続いていた。日中間にある韓国・台湾の状況も芳しくはなかった。


 韓国は中国への経済的な依存度を2020年代中頃から低下させる方向へ舵を切ったが、中国側も自国の巨大なマーケットを背景にそれを許さず、十分に功を奏しているとは言い難い状態だった。韓国側が中国との距離を取るような動きを取れば、中国側は経済制裁や北朝鮮支援で揺さぶりをかけて断念させる構図が続いていた。

 また韓国は、西欧が300年かけ、日本は100年に圧縮して達成した近代化(産業資本主義社会化)を、さらに30年に圧縮して辿った歴史的な構造と、1997年の通貨危機によるIMF管理化での構造改革に応じて2000~10年代に強力な新自由主義経済を推し進めた結果、中間層が破壊され、極めて厳しい競争社会・自己責任社会となっていた。「社会は内部の矛盾を外部の敵に投影することで安定する」のはどの社会でも共通だが、韓国では強い格差社会の苦しさを反日感情に転嫁させる状況が続いていた。ナショナリズムは政治的なオプションを狭め、不合理な選択をせざるを得なくなった。


 台湾は、その厳しい地政学的な立場とコンパクトな国家規模を反映した、合理的な政治判断ができていた(外交的にも経済的にも不合理なことをする余裕がなかった)。

 半導体メーカーのTSMCを中心とした経済安保戦略を継続し、日本や米国に半導体工場を持ち、世界のトップシェアを維持できていた。国内的にも人権政策・民主政を先進的に高い水準で実現して価値観外交を積極的に展開した。西側諸国にとって「見捨てることが不可能な」エッセンシャルな存在であるような努力を重ねていた。

 一方で中国は東シナ海の権益主張を強硬に進めていった。南シナ海で、「九段線」に基づく中国の権益主張が国連海洋法条約違反とされた2016年の常設仲裁裁判所の判断を無視し、人工島建設と行政区設置を進めたように、東シナ海でもガス田開発を一層進めていった。台湾海峡では中間線を超えた軍事演習を常態化させていた。中国は南シナ海と東シナ海への海洋進出を切り分けて考えていた様子をかつては見せていたが、ほとんど両面を並行して進めていた。

 韓国・台湾のラインが下がれば、日本は中国とより直接的に対峙せざるを得なくなる。そうした厳しさが極東アジアに起きていた。


 真民主政権でも、2016年に安倍政権で提唱された「自由で開かれたインド太平洋戦略」と、日米豪印によるクアッドの枠組みが維持された。ASEAN諸国との関係維持も重視し、中国を牽制した。ブロック経済を形成する中国に対抗する中で、中東・アフリカエリアの取り込みは十分に進まないままとなった。中国の経済圏を縮小させ、西側諸国へ協力せざるを得ない、そのためには国際的な「ルール」を受け入れるしかない、という状況に中国勢を追い込むには遠く至っていなかった。一方で中国もまた国内経済の成長が鈍化し覇権国家となるには至らず、全体の構図が不安定な中で小競り合いと牽制が頻発する状況だった。


 防衛費・軍事費は再生産に寄与せず経済成長には繋がらないため、各国とも削減することが、産業資本主義の成長鈍化の中にあっての全体最適だと誰もがわかっていた。しかし防衛力・軍事力低下や他国依存を対立する国家につけこまれ、なすすべなく相手の不当な要求を呑まざるを得ない状況へ追い込まれるケースが現実に散見されると削減は難しい。

 実際、真民主政権でも防衛費は、軽微な合理化は進められたが抜本的な削減はされなかった。このことは左派支持者、とりわけ共産党の支援者に失望を招きかねなかったが、

「究極的には防衛力を含む戦力は世界各国が国連に寄託する未来を目指さなければならない」

という理念をディナビッグはたびたび内外へ発信していたために、共産党の閣外協力離脱を招くには至らなかった。

 それは単に政権安定の方便として言っていたのではなく、統制的な理念としてはディナビッグは本心から言っていた。日本が世界に対して言い得る普遍的な理念は平和主義くらいしか現にないだろう、現在の世界が国家以上の存在を持っていない(国連は独占的・排他的に戦力を持っていない)としてもこれが理想的な最終形態なはずはないだろう、という認識でいたのは事実だった。こうした話をすると「非現実的だ(売国奴だ)」「自国が軍事力を持っている事実と矛盾する」といった反論が左右両勢力からは投げかけられたが、現実への対処と理想を持つことは矛盾しない、理念を持たず「現実」に反応するだけなら人類ではないだろう、と一蹴した。

 国際社会でド正論を投げかけるような日本の首相がたまにはいてもいいだろう、私の見た目もキャラもそう「わきまえる」タイプには見えないし、ちょうどいいのでは、と本人は考えていた。


 ハードとしての軍事力増強には消極的だった一方、情報・認知領域と、経済安保分野へは比較的積極的に対応した。

 対象国へSNS等を通じて自国に有利な世論形成を図ったり、世論を分裂させ、政治指導者の決断を左右させようとすることが当たり前な状況となっていた。そうした「攻撃」に対する防護体制が十分に整っていなかった。2022年に自衛隊サイバー防衛隊が防衛大臣直轄として発足し、内閣官房には内閣サイバーセキュリティセンターが設置されていたが、いずれも情報システム・インフラへのサイバー攻撃からの防御が主な任務とされていた。この課題はディナビッグ政権以前から認識されていたし、内閣官房に専門組織を発足させる方針は既につくられていたため、それを追認して進められた。

 また半導体産業とエネルギー産業は安全保障と切り離せない関係にあり、民間部門であっても公的資金の注入が世界的なトレンドとなっていた。日本でも2020年代前半に台湾TSMCがソニー・デンソーと共同で半導体工場を熊本県内に新設する際に、整備費用として5千億円弱が補助され、県内・九州内の大学・高専で技術系人材の育成強化が図られたこともその一環だった。製造装置(露光装置)ではオランダASMLの後塵を拝していた日本のキヤノン・ニコンに対して、国は直接的な補助金の注入まではしなかったが、技術開発と流出防止等の環境整備で援助された甲斐もあり、EUV露光装置ではASML独走状態は続いたものの、3次元積層の分野で一定の存在感を保つことができていた。これも特にディナビッグ政権で始めたことではなく、前政権からの継続ではあった。



【経済政策】

 ディナビッグ自身は、大まかに分類すれば反リフレ派であり、均衡財政派だった。「デフレさえ脱却すれば解決する」「日本は国債を国内で消費しているから借金が増えても破綻はしない、減税と財政出動をすべき」と単純化して語る政治家やエコノミストを無責任だと嫌悪していた。「政府と日銀のバランスシートを合算すれば国債は相殺されるから健全財政だ」といった無理解な暴論は、さすがに経済学者は言わなかったが、政治家の中には当人も本気で信じて口にする者もいた。

 「財務省の役人とそれに洗脳された政治家が増税を進めて日本経済を破壊している」という論は、(完全に嘘ではないとしても)あまりに現実の条件を無視した短絡論だと考えていた。


 資本主義は価値体系の差分から利益を生み出す営みであり、その差分は、地域の差(遠隔地貿易など)、賃金水準の差(農村地域や発展途上国の労働力のプール)、現在と将来の差(新たな製品・サービス)から取り出される。地域の差や賃金水準の差といった水平軸上の差はほとんど失われているために、過去の高度成長期に見られたような構造的な成長はもはや望めない。時間軸上の差分を生み出していくほかなく、それは生産性の改善や技術革新、革新的なコンセプトの製品やサービスにより実現される。

 こうした原則を免れて、金融政策によって都合よく解決するなどと幻想を振りまくのは、ほとんど害悪だと考えていた。技術革新などによる持続的な経済成長がまず必要である、金融政策と財政政策はそれを邪魔せず円滑化するのに重要な要素で、主従を混同してはいけない、という認識がベースにあった。


 「財政赤字拡大で日本が破綻する」とは1990年代末から繰り返し言われ、現実には破綻は起きなかった。均衡財政派は「オオカミ少年」のように見られた。

 政府債務残高がどれほど大きくても長期金利が低ければ問題ない、という考え方がある。日本の長期金利が低位で安定してきた要因として、民間部門(家計と企業)の資金余剰の大きさがあった。民間の資金余剰が大きければ、財政収支の赤字と海外部門の赤字(日本の経常収支の黒字に対応する)の両者を賄える。日本国債が国内投資家によって安定的に消化され、外国投資家等の保有比率が低いままとなる。これがゼロ金利政策や長期金利の低下促進策と相まって、日本の長期金利の定位安定を支えてきた。しかし高齢化による貯蓄減少、貿易収支の悪化などがその条件を脅かしていた。

 貿易収支は日本企業の世界全体へのプレゼンス低下に伴って悪化、赤字になることもあったが、対外金融債権・債務から生じる利子・配当金にあたる第一次所得収支が大きく黒字なため、経常収支そのものは黒字が続いた。過去に働いて稼いだ金を、投資につかって不労所得を得ているような構造だった。ただし貿易赤字が続けば海外資産の取り崩しへ繋がり、第一次所得収支も縮小し、経常収支も赤字になり得た。

 長期金利が低ければ、過去に高金利で発行した国債を満期で低金利で借り換えられる。日本の場合「債務残高が増大しても利払費が減少する」という逆転現象が起きていたことが、財政上の問題が深刻化しなかった最大の要因となっていた。しかし長期金利の低下が限界に達し、それでも政府債務残高が急増を続けた結果、利払費の増加は2010年代から加速局面に入っていた。長期金利の上昇は、利払費をさらに増大させて状況をより深刻にする。低金利・高インフレを目指そうという金融政策を続けていった先に、いつかは物価安定のために金利引上げが待っているが、その時に巨大な財政赤字が一気に顕在化していく。


 1999年にバブル崩壊を受けて日銀はゼロ金利政策へ踏み込み、それまでの短期金利の誘導による経済刺激(伝統的金融政策)が使えなくなった中で、様々な以下のような「非伝統的金融政策」を打ち出していった。

・量的緩和……大量に国債などの長期債を買い、まだゼロになっていない長期金利の引き下げ・他の資産価格の上昇を狙う

・フォワードガイダンス・時間軸政策……「消費者物価指数が○%を超えるまで金利を上げない」などと宣言して市場の期待に働きかける

・非伝統的資産購入……株・ETF・外貨資産などを買って資産価格上昇による景気刺激効果を狙う

 世界の主要中央銀行は2000年代後半の国際金融危機の過程でゼロ金利へと踏み込んでいったため、日銀はいわば「パイオニア」ないし「実験場」だった。

 2013年にアベノミクスの開始と同時に、著名なリフレ派の黒田東彦が日銀総裁に、岩田規久男が副総裁に就任し、「2年で2%」というインフレ率(消費者物価指数の前年比上昇率)を掲げ、それまでとは桁違いに巨大な量的緩和を進めていった。ただし量的緩和自体はインフレ達成への直接的な効果はなく、人々への期待に働きかける限定的で間接的な効果しか持たない(そのこと自体はリフレ派も理解している)。

 消費税率の5%から8%への引上げの影響を受けた2014年を除けば、この2%は達成されなかった。黒田総裁の異例の2期10年の任期の末期であった2022年に2%を超えたが、それはコロナ禍・ウクライナ戦争など外的要因によるエネルギー高騰・原材料価格上昇の影響で、賃金の上昇を伴ったものではなかったため、岸田政権は家計への影響緩和のためとして財政出動を行うこととなり、さらに財政赤字は拡大した。

 バブル崩壊後の日本は、金融政策と財政政策を総動員してもデフレから抜け出せず、「デフレに陥りそうでも輪転機を回して金を供給すれば解決する」というリフレ派の考えは現実には当てはまらなかった。通貨供給の蛇口を全開にし、短期金利をゼロにまで引き下げ、財政政策を緩和して巨額の財政赤字を出しても、デフレは進行した。デフレ圧力と低成長に引きずり込んだのはバブル崩壊によるもので、デフレはバブル崩壊の結果であり原因ではない、というのが素直な見方だった。

 ディナビッグ政権下で日銀総裁が任期を迎えたが、新総裁は日銀出身の前副総裁が昇格するという新鮮味はないが手堅い人事となった。


 「日本の財政は破綻しない」は国家単位で見れば確かに成立する。しかしその時は、ひどいインフレによって国民の人生を破綻させることと引き換えに、という条件がつく。現実に人間が死に追いやられたり、非人間的な暮らしに追いやられる。そのショックを少しでも緩和するには、財政を均衡させる努力が不可欠となる。当然、景気情勢を無視した緊縮財政は、景気を過度に落ち込ませる。機動的な財政出動は必要だが、それは無責任に聞こえのいいものであってはならない。国債の発行は将来の税収の先食いでしかない。

 そうした認識から、ディナビッグ政権は、減税をうたうことをせず、「私は消費税率を30%にしたくない」と、むしろ「現状が既に減税状態なのだ」とアピールし、財政状況とあるべき方向性を繰り返し訴えた。「生産性向上・再生産拡大のための投資」と「タックスイーターの排除」を掲げた。



【租税政策】

 財政を健全化するには徴税力を上げなければならない。しかしこの30年間は、「取れそうなところから取る」「文句を言わなそうな(文句を言っても政治への影響力がなさそうな)人々から取る」ような増税が繰り返されていた。それはむしろ再生産を挫き、格差を助長するようなものだった。財政の健全化はあくまで「未来の幸福」(もしくは「未来の不幸の回避」)のための手段だったはずが、目的へと転倒していた。政権を獲得する前から党内で税制を理解する議員を育てようとしていた目的のひとつが、ここにあった。


 税収は、生産力の強化からもたらされなければならない。子育て・教育・研究開発を強化する必要があった。自己責任や自助、研究分野での選択と集中といった過去に掲げられてきたスローガンは、この分野への投資・強化の回避を糊塗するためのものだった。

 有権者に占める50代以上が半数を超えると「終電が出た」と表現される。政治的に将来世代より高齢世代への生活保障を手厚くする選択に偏ってしまう。日本の場合、2000年代前半には世界の中でも早々に「終電が出」ていた。2016年に選挙権年齢が20歳から18歳に引き下げられて若干は解消されたが、焼け石に水だった。将来への投資より曖昧な現状維持に進んだ構造的な背景がここにあった。

 即効性のある都合のいい政策というものはなかったから、人口減少・少子高齢化を緩やかにする努力、科学技術・産業の強化と、その土台となる大学・研究機関での基礎研究の保護・促進などの環境整備を地道に進めるしかなかった。


 税収改善には生産性向上と再生産拡大が必要で、それには投資が必要で、投資には財源が必要で、財源には税収が必要で、税収には生産性向上と再生産拡大が必要……という循環があった。税収増がインスタントに見込めない以上、支出を抑えるほかなかった。しかし旧民主党政権の時のような、テレビカメラを入れて事業仕分けを行うといったパフォーマンスはしなかった。それらは十分な財源確保に結びつかなかったり、散々煽った末に据え置きとなった際に大衆を落胆させたり、過度に官僚や予算要求側との対立を煽りすぎるなど弊害が大きかった。

 2008年のリーマン・ショック、2011年の東日本大震災、2020年以降の新型コロナウイルス、2021年の東京オリンピックなどで巨額の財政出動がなされたが、使徒不明な資金があまりに多く、検証もなされず責任も取られないままとなっていた。大義名分があれば使いみちを問われずに金を引き出せてしまう。財政再建が語られる際に「膨張する社会保障費をいかに抑制するか」が常に主眼となるが、毎年の社会保障費の増大分を上回るこうした財政出動が垂れ流されていてはどうしようもなかった。


 その対策の一つが、租税特別措置透明化法の強化だった。この法律は2010年に民主党政権時に成立したもので、当初は粗特を利用した個別企業名も明らかにする趣旨だったが、財界・業界の圧力を受けた財務省主税局の猛反対の結果、除外されていた。これを改めて盛り込んだ。以前、連合が叩かれたように、世間の目にさらされて「悪者」に仕立て上げられて炎上し、トップの首を差し出さざるを得ないところまで追い詰められる恐れから、極端な抵抗は見られなかった。


 それから、会計検査院の機能強化も進められた。会計検査院は憲法90条に定められた組織で、その2項に「会計検査院の組織及び権限は、法律でこれを定める」とある通り、会計検査院法の20条により

①会計検査院は、日本国憲法第九十条の規定により国の収入支出の決算の検査を行う外、法律に定める会計の検査を行う。

②会計検査院は、常時会計検査を行い、会計経理を監督し、その適正を期し、且つ、是正を図る。

③会計検査院は、正確性、合規性、経済性、効率性及び有効性の観点その他会計検査上必要な観点から検査を行うものとする。

とその機能が定められている。この3項は1997年の改正時に追加されたもので、同年に国会法も改正され、両院の決算委員会が組織変更され、衆院に決算行政監視委員会が、参院に従来の決算委員会に加えて行政監視委員会が設置された。これにより予算のアウトプットを検証して一定の責任を取らせる法的な根拠自体は整っていたが、実態としてはあまり機能していなかった。20条3項の機能を果たすような組織、人員と予算がディナビッグ政権で確保され、会計検査院の機能強化が図られた。

 さらに外部の目を入れるため、地方自治体における住民訴訟に該当するような、国の行政機関に対する「国民訴訟」の制度整備も進めたが、これはディナビッグ政権下での成立には至らず持ち越された。


 ディナビッグ政権は新自由主義的な政策ではなかったが、やっていることは小泉政権の「痛みを伴う構造改革」などの行政改革の延長にあった。

 例えば小泉政権の郵政改革は、「自民党内で清和会が経世会を潰す政治闘争」の側面で語られることも多かったが、本来は不要な財政支出を止めるための措置だった。当時の財政投融資(財投)は、郵貯や簡保、年金などの資金を原資として、特殊法人等(財投対象機関)へ投資・融資をするものだった。最盛期の1996年には40兆円にまで規模が膨張していた。投融資である以上は最終的には資金が回収される建前だったが、資金回収の見込みも公共性も乏しい事業に資金が何らの規律も働かずに投じられたりしていた。特に年金福祉事業団が全国に採算性のない保養施設(グリーンピア)を建設し、資金は回収されず自治体や民間に譲渡・売却された件は当時大きく報道され、国民の怒りを買ったりした。また郵貯や簡保は国債発行の引受けの原資にもなっていた。

 財投や国債の資金源である郵貯・簡保の流入をまずは断つことが、構造改革に大きく寄与するという認識から、郵政民営化が進められた。しかし財投対象機関が官僚の天下り先であったり、全国の特定郵便局のネットワークが優秀な集票機構として郵政族議員の力の源泉であったことから、頑強な抵抗を受けた。「自民党をぶっ壊す」と世論を喚起し「抵抗勢力」と名付けて叩いたことで、郵政民営化は進められた。

 ディナビッグ政権では入口より出口のチェック機構の強化が進められたが、世論を見方につけて叩く、その恐怖で抵抗勢力を黙らせて進める、という手法は共通していた。


 日本は「富の再分配によってかえって格差が拡大する」逆進的な社会だったが、配分先の見直しや中低所得層の賃金改善で多少の改善が見られた。しかし根本原因はよりシンプルに大企業・富裕層に対する徴税力の弱さにあった。とは言え、単純に法人税・所得税率を高めたところで、多国籍(無国籍)企業や富裕層は租税回避が容易なため、一国だけの取り組みでは限界で、国際的な協調が必要だった。

 2017年度改正税法に対して、参院財政金融委員会が「近年の国際的な租税回避行為に対して厳正に対処するとともに、富裕層やコンプライアンスリスクの高い層への調査を充実できるよう(国税)職員の育成や定員の拡充等、従来にも増した税務執行体制の強化に努めること。」という附帯決議を出したように、強化は従来から進められていたが、いたちごっこの様相もあり手を緩めることはできなかった。

 その一環で、国税庁次長に国際業務課長経験者の庁キャリが据えられた。国税庁の国際業務課は、外国税務当局との情報交換やOECD租税委員会への参加等を担う組織だった。国税庁は財務省の外局であり、職員は財務省採用キャリア(省キャリ)、国税庁採用のキャリア(庁キャリ)、一般職員(ノンキャリ)に大別される。国税庁長官・次長、主要部長、主要国税局長は省キャリがおよそ占めていたため、この人事は異例と言えた。(財務省事務次官、財務官、国税庁長官は財務省における次官級ポストで財務官僚のキャリアのゴールとなっている。)官僚機構の人事の自律性への配慮から、長官人事には介入しなかったが、この人事によって政権の意思表示と、次長クラスに国際的な取組み強化を積極的に主導させてこの分野での日本のイニシアチブを発揮させようとした。



【労働・社会保障政策】

 特にディナビッグ政権から始められた話ではなかったが、「賃金改善」は継続して進められた。

 2020年4月のパートタイム労働法改正により、パートタイム労働者だけでなく有期雇用労働者や派遣労働者も同一労働同一賃金の対象に含まれ、先んじて大企業が、1年後に中小企業が適用された。4割が非正規労働者である日本の労働市場で、賃金上昇を伴う「健全なインフレ」には、低賃金に抑えられている非正規の賃金改善が不可欠だった。ただ20年改正では罰則規定等はなかったこともあり、格差縮小はまだ不十分だった。

 企業は「安価な労働力」を欲したが、既に産業資本主義の成熟した社会では、都合よく存在するわけではなかった。また安価な労働力を政府の側が構造的に用意して甘やかせれば、企業が技術革新や生産性改善を進めるインセンティブが失われる。

 ただ一方で賃金の強制的・急速な引き上げにはディナビッグは慎重だった。例えば韓国の文在寅政権で、最低賃金を2年間で3割引上げた結果、大企業は人件費高騰を嫌って海外移転(生産拠点だけでなく本社まで移転する企業が出た)し、自営業者は廃業に追い込まれた。経済指標が「IMF危機以降最悪」となり、新自由主義による格差是正を目指した政策だったはずが、逆に低所得者層の所得を低下させてしまうという苦しい事例があった。

 罰則規定の追加などでの対応ではなく、実質的に「同一労働」であるものを異なる労働として「同一賃金」を迂回するケースや、正社員側の待遇を落とすことで「同一賃金」を実現するケースなどへのパッチをあてたり、最低賃金のゆるやかな漸増で対応した。

 政権交代前の連合叩きによって非正規労働者の組織化を進めさせたことも、非正規の賃金上昇へ寄与した。日本では1980年代に連合ができてコーポラティズムが完成した。株主が配当をよこせと言わず、労働者が賃金を上げろと言わず、みんなが貧しいまま会社だけが豊かになる。そうした構造自体の大きな変化とまでは言えなかったが、改善の端緒ではあった。


 外国人労働者拡充と彼らへの教育体制充実や、それにまつわる入管体制や技能実習制度・留学生の資格外就労制度などの人権侵害・労働法令違反問題は、構造的に課題解決が不可避だったが、これも右派政権下では岩盤支持層からの不支持によって曖昧にされていた課題ではあった。

 日本に限らず、現実問題として先進国の人口がシュリンクしていく中で、人口が増加している開発途上国から労働力の供給を受けない限り、社会の維持は困難だった。

 前政権以前に高齢者への手当は減らされ、平均的な就業年数は伸び続けていたが、老人を働かせるにも限界があったし、既に高齢者もボリュームゾーン(団塊世代)は通り過ぎていた。

 2020年代前半に発生したコロナウイルスのパンデミックにより高齢者の死亡者数が増加し、人口構造そのものが「コロナ前後」で大きく変質していた。初期は厳しい処置とワクチン接種促進により、日本は国際的にも死亡者数を低位に抑えることに成功したように見えたが、その後に曖昧に対応を緩めていった結果、世界的にも死亡者数はトップレベルとなった。ウイルスが免疫を免れて流行を繰り返す(免疫が持続しない)特性を踏まえ、理論疫学者からは「データをウォッチして流行直前に高齢者・高リスク者へのブースター接種を継続」というエンデミック期(ウイルス定着期)に向かう出口戦略が提言されていたが、接種は自己責任でタイミングも時機を逸した状態で継続された。この間、逼迫した医療サービスへアクセスができず、コロナと無関係の死亡者数も増加した。

 それは政治的に明確な判断と説明の上でなされた「諦めて死んでもらう」政策だったわけではなく、世間の我慢に対する漠然とした「飽き・倦み」を反映した結果だった。「高齢者を減らして社会保障費を抑制したい」という未必の故意でもあった。ボリュームゾーンであった高齢者が減少し、人口全体が縮小していた。


 外国人労働者の受け入れ拡大には、自国民からのヘイトを生じさせないような手当が必要だった。

 教育・生活支援などを充実させると「自国民が苦しんでいるのになぜ外国人を優遇するのか」と非難される。都合よく高学歴・高スキルの外国人だけを受け入れようとすれば、自国民の下層定着化を一層進めてしまう。支援を十分に行わなければ同じ出身国同士の外国人が助け合って生き延びなければならなくなり、文化も言語も異なる「社会内社会」が形成され、一層の断絶が生まれていってしまう。外国出身者の子供への学校教育の充実化を通して、その親の地域社会参画へのハードルを下げることが重要だった。こうした課題は、より積極的に外国人・移民を受け入れてきた欧州が2000~10年代に通ってきた道だった。

 これは真善美と合流する以前の立憲民主党が政策として「多文化共生社会基本法」を制定するとしていたものを素直に引き継いでいた。

「ディナビッグは日本を破壊している、と言う人がいる。それは日本を見くびり過ぎてる。数千年に渡って、外国のエッセンスをどんどん吸収しながら、日本の言葉、日本の文化は変わっていった。それでも日本は日本だった。私ごときが日本を壊せるなんて、買いかぶりすぎよ」

とややヒステリックな右派からの批難に答えた。


 ディナビッグ政権は「子供を産むと罰せられる社会からの脱却」を掲げ、子育て・教育支援政策パッケージを政権初期に成立させた。子供を産めば、重い経済・時間・労力の負担を親が背負う。子供を持つことのハードルが高くなるほど、子供を持たない/持っても一人だけという選択になって出生率は低下する。2023年のこども家庭庁の設置により、子供関係の行政事務の集約・効率化は図られていたが、財政出動が十分とは言えなかった。社会の維持と再生産に直結するもので、財政規律の維持のために犠牲にするのは主客が転倒しているという考えから、ディナビッグ政権の政策全般の中でも比較的手厚く財政的な手当がされた分野となった。



【その他政策】

 同性婚、選択的夫婦別姓制、ふるさと納税制度改正など、自公政権では十分に進まなかった政策が、ディナビッグ政権の初期に、政権交代前から法案が準備されて矢継ぎ早に成立されていった。野党からは「議論を尽くせ」「国会軽視だ」と批判を受けた。野党による法案の問題点の修正は国会の重要な機能だという認識は政権にあったが、こうした政策は初期の勢いのあるうちに進めてしまわなければ、また数十年にわたって実現されないかもしれないという思いがあった。またその機能をないがしろにして「数の論理」で政権与党が一方的に進めるスタイルは、むしろ自公政権下で顕著だったはずで、「どの口が」という感情も与党側には働いた。


 選択的夫婦別姓や同性婚は国民と国政政党の大多数が支持していながら、自民党の岩盤支持層の不支持のために長らく実現されていなかった。

 選択的夫婦別姓は、国粋主義者から「日本が世界に誇る戸籍制度の破壊だ」と反対されていたため、「戸籍制度を失くすことではない」という建前を取って一定の配慮を見せはした。

 150年以上に渡って続く「氏名」という制度が、「当たり前のもの」と感じられる人々にとって、その一部でも変更されることへの感情的な抵抗感や不安感は存在した。この感情に訴えてディナビッグ政権を「伝統の破壊者」とレッテル貼りしようとする勢力も存在したため、ディナビッグ政権側は、氏名が必ずしも「当たり前のもの」ではなく、明治期の一時的な事務手続き上の必要から生じただけのもの、という歴史的な経緯を繰り返し語った。政府が自ら語ったというより、メディアなどが「解説」として繰り返し提示した。

 明治6年に徴兵令が施行された。初回の徴兵では8割にも上る兵役逃れが発生したことで、厳格な国民管理が政府として必要になった。明治3年に苗字自由令が出された以降も、苗字を使わない者もいたし、特に行政も強制していなかった。しかしそれでは国民の識別が難しい。そこで明治8年に苗字を強制する太政官布告が発せられた。布告の当初案には「現今無姓之者有之哉相聞、取調方差支候条」と、「苗字がないと政府の国民管理に支障があるため」という理由が明記されていたが、実際の布告では削除された。江戸時代には頻繁な改名が常識であり、「一生涯同じ氏名を名乗る」方が異常だったが、井上馨からの「苗字や屋号を変更されると国民管理の都合に支障があるから禁止すべき」という提案を受け、明治5年の太政官布告で「自今苗字・名並屋号共、改称不相成候事」と改称禁止の命令が出されてから、「改名しないこと」が常識に取って代わった。

 夫婦の姓については、明治8年時点では政府は「女性は婚姻後も実家の苗字を使用(夫婦別姓)」を基本方針として地方に回答していた。しかし明治31年の民法によって「戸主と家族は全て同姓」とされたところから夫婦同姓がスタートしていた。この「家制度」がまさに国粋主義派が存続すべき「伝統」と主張するものだったから、あまりそこには触れず、単に「氏名は固定的なものではなかった」「事務手続きのために導入されたもので、国民の識別はすでにマイナンバーでできているのだから、その必要性はもう解消されている」点を強調していった。

 選択的夫婦別姓制の導入と同時に、改名の要件緩和もなされた。ディナビッグは、自身の本名である「大膳」が、江戸時代以前に正式な官名から派生した疑似官名と呼ばれる種類の名前で(大膳は疑似官名のうち京百官に分類される)、明治の氏名の成立とともに廃れたものだったこと、そんな「過去の名前」を名付けられ、更に通称に変形させて使っている自分が、首相として受け入れられていて、その政権下で緩和されるのは、歴史的な必然なのよ、と冗談交じりに語った。


 ふるさと納税制度は、制度そのものは残されたが、返礼品の生産・製造地と価格の厳しい制約を設ける制度改正が実施された。反対の声(稼いでいた自治体や、中間マージンを取っていたポータルサイトなどの事業者、返礼品のビジネスを扱っていた事業者、節税目的での利用者などからの)もあったが無視した。税制も、寄附金控除の制度も歪めている点で、よい制度とは思われなかった。

 またその他に、行政が主導するポイント制度関係もディナビッグ政権下では新たなものはスタートされず、既存のものも多くは終了への筋道がつけられた。ディナビッグ自身の「ポイント嫌い」も関係していた。制度やシステムは可能な限り透明でシンプルなものがよいという考えを従来より持っていた。ポイント制度は、「調べたりアクセスできる人だけが得をする」制度で、フールプルーフではなくフールペナルティのような側面を持ち、一種の逆進性が働いていた。小手先のポイント制度で国民を誘導しようという発想が気に食わなかった。



 総体として、ディナビッグ政権では外交や経済など大きな政策では、あまり派手な変更は実施されず、大きな方針を示してそこに向かって微修正をかけるような動きが取られた。一方で負の影響がそれほど大きくはないと思われた内政課題は即座に変更を打っていった。ディナビッグ本人が自認する通り保守的であり、これまで日本が「衰退している」と言われながらも、破滅的な状況が訪れなかったことも、「動きの遅さ」「政策の曖昧さ」に起因する面があると考えていたという価値観から来るものだった。




■辞任


 ディナビッグ首相は、7月の参院選の前に辞任し、政界も引退する旨を、5月に突然発表した。最初に参院選へ出馬した際に「1期6年間だけ」と心に決めていた、衆院選へ鞍替えはしたが、6年で引退するつもりであったと理由を語った。テレビカメラも入れた両院議員総会で、自身の6年前の写真パネルを横に並べ、「どう考えても私、太り過ぎだろ」と言った。実際、政界入りする前と比較してこの6年で20kg以上体重が増加していた。暗にストレスの大きさないし健康問題を示唆していた。引退後の政治活動もテレビタレントへの復帰も明確に否定した。

 1年半程度での辞任に「無責任だ」と非難する声もあったし、強く遺留する声もあったが、既に表明した引退を変えることはなかった。

 政治家になる前から心には決めていたが、権力は目指さなくなった瞬間から急速に離れていってしまうから、誰にも言わずにここまで来たのだった。


 通常国会の会期中であり、委員会の中で辞任について質問が及んだ際に、与野党の議員に向かって「あんたたちには理念を本気で語ってほしい。国会議員、政治家なんだから。心の底から理念を語れ~!」と熱く語りかけて委員会室を笑わせながら、やや議員たちを熱い思いにする一場面もあった。辞任表明前に比べて、かえって生き生きして自然体のようだったし、そうしたリラックスした雰囲気が周囲にも伝搬した。とりわけ首相就任後はかなり抑制した語り方が増えていたが、テレビタレント時代の軽妙な語り口が戻っていた。



 裏切りも挫折もなく、大きなドラマもなく6年が過ぎたことを、ディナビッグはやはり夢のような気分で思い返した。

 自分自身ではどうしようもない外部要因が発生しなかったのは運だったが、それ以外は結局、世論の喚起がディナビッグにとっての力の源泉だった。「炎上させたもん勝ち」の世界の肯定だろうかと内省したが、SNSの登場以前から世論形成とはそういう「仁義なき戦い」だろうし、政治家であればやるのが当然だろうとも思った。

 一方で、あらゆるプレーヤーが世論形成に血道を上げて、それを仕掛ける側も、それに曝される大衆の側も、全体のコストが過剰になるのなら、それは全体最適から乖離していくのかもしれない。かえって本音が貴ばれて全員が無防備でいる環境の方が楽だったのだろうか。しかし「正しいことを言っているのだから理解されるはずだ」と無邪気に構えて、いざ支持されずに「正しい自分を分かってくれない大衆が悪い」と不貞腐れるような存在は、政治家の名に値しないだろうとも思えるのだった。

 そうした世論形成の強力な道具を持とうとする者は、その力に対して自覚的で誠実でなければならない。権力に対して抑制的だったか、弱者への視線を忘れなかったか、とディナビッグは自問した。常々「死んで閻魔さまの前に立った時に『私はあの時ちゃんとやった』と言えるか」と照合して考える習慣があった。特に「死後の世界」も「閻魔さま」の実在も信じてはいなかったし、それは「閻魔」でなくても「神」でも「歴史」でも構わない仮定だった。超越的な存在から「常に見られている」「行いが裁かれる」という措定によって自らを律していた。「完璧じゃなかったけど、そこそこちゃんとやれた」とディナビッグは自分自身を赦した。



 旧立憲民主党の最後の代表が、真民主の後継の代表に選出され、参院選の直前にディナビッグ内閣は総辞職し首相が交代した。

 閣僚の多くが横滑りし、伏原恋もそのまま新内閣で官房長官を務めが。参院議員として任期満了を迎えた長谷部究極美子は再出馬せず、ディナビッグと共に政界を引退した。

 政権交代自体がディナビッグ個人への期待、「何かが新しくなりそうなイメージ」に依拠していた側面はやはり大きく、参院選前に内閣・政党支持率を落としてしまった。自民党が極めて知名度と好感度の高い俳優兼研究者の女性を擁立したことも相まって、真民主党・共産党ほか与党を形成していた政党合計で過半数をぎりぎり割ってしまい、再びねじれ国会となった。その後は苦しい政権運営が続き、次の衆院選で政権交代が起きて真民主党は下野することとなった。その間は苦しいながらも首相は退陣せず1年8ヶ月、内閣を維持した。


 ディナビッグは政界からも芸能界からも去り、インタビューや対談にも応じず、政治とも芸能とも無縁の題材でエンタメ小説をコンスタントに発表した。首相経験者として記録を残す義務はあるだろうと回想録を出したが、それは15年後、65歳の時のことだった。



 ディナビッグはサイゼリヤで、イカの墨入りスパゲティをWサイズで2皿と、リブステーキと生ビールジョッキを注文した。

「あの黒の服着てこればよかったのに。はねたら目立つでしょ」

と真っ赤な服を指して究極美子の娘に言われ、ディナビッグは

「こっちのが派手でいいじゃない」

と答えた。

 作家に戻ってから普段はただの「50代の太ったおじさん」の服装で暮らしていた。今日は政界引退後、初めてあのタイプの服を着たが、政治家だった時の黒ではなく鮮やかな赤を着ていた。30kgほど体重を落として肉の盛り上がりが減った分、裾が長くなったため、少し丈を詰めてあった。フルでメイクをするのも真珠のジュエリーを着用するのも久々だった。

 政界引退から2年ほどが経っていた。かつての真善美の初期メンバーとその家族で食事に来ていた。サイゼリヤが選ばれたのは、ディナビッグのポイント嫌い、シンプルなシステムが好きという志向を体現したようなチェーンストアだったからだった。

 ディナビッグは内陸県出身で「海に憧れがあるから」と神奈川県藤沢市の海の見えるマンションに住んでいた。ディナビッグが出やすいところで、大船で集まることになった。サイゼリヤ大船駅前店は地下にあった。ディナビッグは店の前でタクシーから降りると、体重を落として軽やかになった足取りで階段を降りていった。首相経験者にはSPが1~2名つくが、それは現役の国会議員を続けている場合で、議員でなくなった者にはSPはつかない。歩行者や店内の客はディナビッグに驚いて、写真や動画を撮るものもあったが、大きな騒ぎにはならなかった。


 ディナビッグ、恋とそのパートナー、究極美子とその娘の5人で食事を楽しんだ。

 恋は派閥・グループを超えて参院側の所属議員をまとめるような役割へと自然に収まっていた。そうした働きの甲斐や過去の教訓もあって下野後も真民主党は分裂せずに一定の勢力を維持し、「政権の選択肢」になり得ていた。恋のパートナーは30代前半の青年で、そのまま公立幼稚園で先生を続けていた。もともと専門学校で幼稚園教諭の二種免許状を取得していたが、給与や待遇アップのために大学で単位を取得して一種免許状の取得を目指していると言った。家では2人でレトロゲームに最近ハマっているといい、初代のプレイステーションを中古で買って「ブシドーブレード弐」を遊んでいるという。

 究極美子は、参院議員になった際に、もともと自分の立ち上げた若年貧困層支援のNPO法人は後任に任せていたが、政界引退後もそのNPO法人には戻らなかった。政治へのアプローチやロビイングを様々な団体に指導するコンサル企業を立ち上げていた。究極美子自身の価値基準に合った団体だけを対象にして、他者を虐げて自己の利益の確保に腐心するような団体とは距離を置いていた。「もっと政治を動かせる団体があった方が面白いし」という。究極美子は一度も結婚せずシングルマザーだった。娘は21歳の大学生で、真善美立ち上げ以前、まだほんの子供の頃からディナビッグとは知り合いだった。どういうわけか突然「船乗りになる」と言い出し、外航船の航海士を目指していた。しかし既に一般大学に在学していたため、日本には3社しかない海上職の養成コースを持つ商船会社への就職を考えていたが、非常に狭い門だったため、なれるかどうかは分からなかった。究極美子やディナビッグなど、ファッションとメイクへのこだわりの強い大人に囲まれ、小さいうちからメイク道具を拝借してはあれこれ試していたが、今は極めて「自然に見える」メイクを細かな技術の集積で実現させていた。


 お互いの近況や暮らしぶりといった他愛ない話が続いた。

「すっかり食が細ったわ」

とディナビッグは言ったが、イカ墨スパゲティ(Wサイズ)2皿もリブステーキも既に空だった。イカ墨のソースをスプーンですくって「海のお出汁がほんと美味しいのよね」と口に運んでいた。歯はお歯黒のように黒く染まっていた。

 サイゼリヤ創業者の正垣泰彦が著書の中で、商品は「ほっといても売れる商品」「店が売りたい商品」「売れないけど、無いと困る商品」の3つに分類されるとし、「売れないけど、無いと困る商品」の典型例として挙げたのがイカの墨入りスパゲティだった。万人受けしないが一部に根強いファンが存在し、「提供をやめるとファンからクレームが入る」とされた商品だった。ディナビッグは、そんな「一部の根強いファン」だった。

「Wサイズは無理だけど、もう一皿イカ墨、いっちゃおうかしら」

と注文票を手に取ると、他の4人が一斉に「食が細ったって嘘じゃん」「めちゃくちゃ好きだな」とツッコんだ。

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首相ディナビッグの誕生 OjohmbonX @OjohmbonX

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