第12話 魂の色

 

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 晴れなのか曇りなのか、曖昧模糊とした天気を天窓越しに眺めていた。

 混雑した駅のホーム。

 背筋を綺麗に伸ばして隣に座るセルフィは読書に勤しんでいる。貪欲な好奇心。初めて手にした内容の書物に釘付けだった。周囲の騒々しさなど気にも留めていない。以前セルフィが云うには、目の前の事に集中すると何も聞こえなくなり、それ以外の事に目が向かなくなるそうだ。

「………」

 昨日に聞きそびれた事を訊きたくて仕方がなかったが、かといって邪魔をする気にはなれなかった。

 セルフィにとって、新規の刺激を得る事は生き甲斐だ。しかし不足の苦しみを知らない彼女は、逆に言ってしまうと、それ以外に幸福を感じ取る方法を知らない。

 生まれた時から満ち足りていた者。


 ──なるほど、確かに私とは正反対だ。


 だからこそ、セルフィが私の苦しみを理解し得ないのと同じように、私もまたセルフィの苦しみを理解できない。ようするに触れられないのだ。幸福の瞬間を不用意に踏み躙って、下手に彼女を怒らせたくはなかった。

 小心者と、心臓の鼓動からそのような呆れた風の罵倒を空耳した。

 天窓そらを眺める。

 実に日和にわであった。雲の縫い目には大きなほつれがあり、奥に真っ青とした空が覗ける。雲のほつれた端は遠心力に漏れた綿飴の糸のようであり、青空を縁取る枠としてのんびりと移ろいている。

「……来たか」

 彼方より列車の走行音が聞こえてくる。

 ちょうど五分が経ってから、列車の到着を告げるベルが高々と鳴り響いた。

 隣を見遣る。未だ本の世界に閉じ籠ったままのセルフィ。無我夢中である。本から目を離す気配はまったく見られない。

 そこでふと、悪い企みが浮かんできた。


 ──このまま置いて行ってしまおうか。


 我ながら冴えているように思えた。そうすれば面倒事は晴れてなくなる。気兼ねなく記憶を取り返すため、ポレモネートに乗り込む事ができるだろう。

 迷うまでもない。私は間髪入れずに決断した。


 ──よし、そうと決まれば。


 瞬間、立ち上がろうとする私を引き止める手が、腰の裾に伸びてきた。心臓が大袈裟に跳ね上がったのはここだけの内緒はなし。いや、つい殺し屋かと怖気づいてしまうほどの素早い手腕であった。

 底冷えするような声が肌を這う。

「───逃がしません。私、言いましたよね? 片時も目を離さないと。周囲に全く注意が行き渡っておらずとも、ストラは例外なんですから」

「………そこまで気を遣ってもらえて感激の至りだ」

「ふふふ、その謝辞、ありがたく受け取っておきます」

 セルフィは純真な微笑みを湛えながら軽く流していく。皮肉は少しも通じなかった。

 囚人が連行されるような形で、私はセルフィと共に列車に乗り込む。

 ここから長い列車の旅が始まる。始まってしまった。

 

「─── 一昨日の夜に何が行われたのか、やっぱり気になります?」

 早速前置きもなしに本題ストレートが飛んできた。

 私は表情が段々苦々しくなっていくのを感じる。

「気になるとも。しかし素直に話してくれないんだろう?」

「ええ、話せません。唯一話せるのはそうですね。ふふ、そういう約束を交わしたから、という事くらいです」

 約束。他言無用の取り決めという事か。私の意識が闇に落ちた後、何かおいそれと言葉に出せない事があの場で起きたのだろうか。

「──って待ちたまえ。あの場にいたのか、君は」


「───あれ、言ってませんでしたか、私?」


 自分でも驚くようにぽかんと意外そうな表情を浮かばせるセルフィ。

 全く何も、と私は首を横に振った。

「なら聞かなかった事にしてください」

「………既に遅いだろう、それ」

 澄まし顔で前言を撤回する。性格が不安定に揺れているとしか思えてならないほど、昨日のセルフィより口が疎かになっていた。

 しかしセルフィがあの場にいた事など、少し頭を回せばわかる事に過ぎない。事態は依然として進展していない。元より問題はその先にあるのだ。

 私がどう聞き出そうか思案していると。

「それはそれとして、ストラ」

「……なんだ?」

 妙に優しさの篭った声音に寒気を覚える。

「記憶を奪われた後に、ティアレナ姉さまとお会いしてましたよね?」

 決して無視できない一言が平然と放たれる。だがその後の急変とも言えるセルフィのコワイ目に息を呑み、結局は放置せざるを得なかった。

 セルフィが瞳に飴粒ほどの影を喰ませる。

「……あの後何があったんですか?」

「───」


 魂を射抜かれている。

 魂の手触りをその瞳を以て測られている。


「ティアレナ姉さまの姿が見えた途端に“映像”が途絶えてしまって、あの後に起きた事をイマイチ把握できていないんです。───明らかにおかしいですよね。ストラの色にティアレナ姉さまが紛れ込んでいます」


 セルフィは私の胸へと手を伸ばし、

「昨日から──いえその日より前からずっと、気になっていたんですよね」

 今も刻む鼓動を確かめるように耳を添わせてきた。


「──まるで二重奏のよう。二つの鼓動と二つの魂。煩わしい音です。美しくない色合いです。中途半端な混合物に堕ちて……。二人は繋がれてしまったんですか?」


 胸の奥底で羞恥と憤慨に挟まれ悶える彼女ティアレナを知覚する。

 けれどそんな見慣れた光景よりも、セルフィの様子が気になって仕方がなかった。

 涙を流している。悲喜交々も通り越したような穏やかさを滲ませて、セルフィは私の胸に頭を押し付けている。


 ──それは一体、どういう感情なのだろう。


「鑑賞できなかった事が悔やまれます。欠落した存在同士が補い合い縺れ合う様なんて、こうも胸が熱く刺激される見世物はないはずでしょう? 残念です、残念でならないんです」

 とてつもなくコワイ熱情を、セルフィは明け透けにこぼしていく。

「ああ、どうしてなのでしょう。世の中には、人様の過去を覗き見れる人がいるそうです。私も、そう在れたら良かったのに……」

 過去を見れない存在でありながら、セルフィは人の魂を覗き見て、盗み聞いているようだった。そこには一体、どういう違いがあるというのだろう。何が違いと云うのだろう。

 しかし、それでも言える事は一つある。例えセルフィが元からそういう存在であったとしても、セルフィはきっと今のように渇きに踠くだけだっただろう、と。

 視点が変わって得られるのは樹木の外観と枝葉の形状のみ、根本は変わらずそこにある。どちらにしたところで掘り起こして確認しようとしない限り、己が本性かわきを満たせない。セルフィは、その途中なのだ。


「───セルフィには、世界がどう見えているんだ?」


 つい、そう訊いてしまっていた。他に聞くべき事が山程ある中で、そのような曖昧で変動的で参考にもならない主観の事を。

 するとセルフィが口許を弛ませた。

「鮮やかですよ。世界はとても鮮やかです。実は真っ黒な人なんてこの世にはいないんです。真っ白な人は生まれて間もない赤ん坊くらいのものです。真っ赤な人なんて後先考えずの熱血家で、真っ青な人は悲観主義に溺れた堅物なんです」

 その上で───。

 か弱い彼女は私を見上げてこう問うた。


「───私は、何色だと思いますか?」


「………」

 私はすぐに答えられなかった。

 彼女の至上命題に答えられるほどの“色”を、きっと私はまだ持ち合わせていなかった。それは彼女自身もわかっていた事だろう。理解した上で彼女は今の私の言葉を期待している。無色しろに限りなく近いらしい、この私に。ティアレナという個も内包した、私たちに。


あなたは、灰色だろう──。おそらく、生まれた時から灰色だ」


 不足の苦渋を知らないままに、満ち足りた事が一度もない彼女。それはまさしく、白にも黒にも振り切れない灰色だ。

 セルフィが弾むように微笑む。

「ええ、そうでしょうね。そんな今のストラは薄紅です。見ない間に血と女の味を知りましたね?」

「……やはり言い方に鋭い棘があるように思える」

「当たり前でしょう。ストラにティアレナ姉さまをられて、挙句にティアレナ姉さまに抜け駆けされたんですから」

「念の為訂正しておくが、そこまでの行為には及んでいない」

「それは欺瞞というものです。こういうのは行為の深度ではなく、どれほど心に刻み付け合ったかの話でしょう。その点で言うとストラとティアレナ姉さまの繋がりは少々度が過ぎてます。十分に仲を積み重ねない内にそこまで踏み込んでしまうなんて、お二方の将来が心配です」


 そうして、いつの間にか本題から逸れに逸れていき、くだらない言い合いや雑談に時は費やされていった。

 

       ◇

 

 夜の風景は寂しい。

 昼とはほとんど変わらない長閑な景色が流れているのだろうに、暗闇の中に沈み込み見えなくなるだけで、こうも宇宙の中を闇雲に進んでいくような心許ない孤独感に晒される。

 列車は速度を緩める事なく、しかし閉じたこの個室に流れる時は緩やかに沈殿していた。

 対面に座るセルフィの読書は早くも今日で三冊目に突入しており、読み終わったその一冊目を借りた私の進みは拙く遅かった。なにしろ片手に辞書を持っての読書である。すらすら読めていた気がする文字が実際は全く読めなかった、というむず痒い感覚を何度も味わいながら、私は本をじっくり読み進めていた。

 その休憩途中。

 窓の外に、一際大きく瞬く光を見た。それは本当に一瞬で消えてしまい、距離も離されてしまう。

 今のは何だったのだろうという疑問を一足遅く心に残しながら、私は本に目を戻した。

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