第11話 黒猫と遠出
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傷の具合などを憂慮し一日を休息に充て、翌日に先端都市コズモメヌトーレを発つ事となった。
これは、その
───事の始まりは些細な闖入者からだった。
“お互い、今日は頭を冷やしましょう”
そんな言葉を残してセルフィが部屋を出ていき、私ひとりがベッドの上に取り残され、暇を持て余しながら頭の後ろで腕を組んでいた頃。
か細げな痛みが慎重にのそのそと腹の上に乗ってきた。
もちろん傷の痛みに微かに声を吐き溢したのは言うまでもない事だろう。
異様な圧迫感の
どうやら開け放たれていた窓から入ってきてしまったらしい。罪はセルフィにあった。
「野良かい、君……?」
私は腑抜けた喉でそう問うた。猫撫で声、というほどではないが、普段の私からでは考えられないほど優しく囁いた声に思えた。
しかし其奴は聞く耳を持たず、暢気に欠伸をする。その上、私の腹の上で丸まってしまった。
「……理解した。お前、悪魔の手先だな?」
私が呼吸を繰り返すたびに、昨日の傷が痛んで仕方がなかった。やはり猫は苦手だ。その愛くるしい姿で眠られては、こちらが苦しいと思いをすれど、おいそれと退かそうとも思えない。人身掌握に長けた動物、まさしく悪魔の手先として相応しい。
黒猫の温もりで腹に熱が篭る。不思議と暑苦しくはない。その熱はどこか心地が良かった。
黒猫から視線を天井に戻し、自然と従うよう瞼を閉じる。気の抜けた微睡み。張り詰めていた糸が、途端に緩んだ気がした。単純な疲れから来るものではなく、安心や牧歌的空気から生じる
そこから三十分ほどが経過した。
するとなにやら腹の上で起き上がる気配。私も釣られて目を覚ます。一眠りした効果は大きかったようで、その目覚めは晴れ晴れと清々しく、気分も幾分と良くなっていた。切り傷の痛みも格段と薄れている。
其奴は腹の上から降り、掛け布団の踏み締める音と沈み込む確かな感覚が首元まで這い上がってきた。
顔のすぐ横の枕に隙間が出来上がり、くすぐったさが近づいてくる。
もちろん黒猫である。其奴が私の頬に匂いを嗅ぐように鼻を近づけているのである。
「なんなのだろうな、お前は……」
左の手で黒猫の頭を僅かに抱え寄せるように撫でる。
その状態が数秒続くと、するりと小さな頭が滑り抜けていった。
黒猫が私の上を軽々と飛び越える。そしてベッドからも降りた。其奴が
黒猫は既にベッドの上からでは見えなくなっており、仕方なく通路と部屋の境目まで歩いた。
「───」
扉の前で、光を反射した鏡のような黄色い瞳が私を見つめている。
「……ついてこい、という事だろうか?」
其奴は当然頷かない。一鳴きもしない。ただじっとこちらを見つめてくるだけ。
しかし今の私は厚手の白いローブ姿。風呂上がりのような格好だ。この格好のまま外を出歩くわけにはいかなかった。
「少し待て。人間が外を出歩くには、相応の準備が必要なんだ」
黒猫の私を見つめる色が、微かに翳ったような気がする。呆れやら鈍いやら、そういうあまりよろしくない視線を受けた。結局それは当然、私個人の錯覚に過ぎないのだが……。
着替えを終え、黒猫が行儀良く座り待つ扉の前。
開けてホテルの通路に出ると、黒猫が先を行く。少しばかり進むと私がきちんとついてきているか確認するように振り返ってくるので、やはり私についてきてほしいようだった。
誰もいない廊下。水色がかった午前のそれは涼やか。
私と黒猫だけが歩む、物静かで穏やかなひととき。
こじんまりとした昇降機に乗り、とりあえず一階を押した。
一階に昇降機が着き、扉が開かれる前に黒猫が私の肩に乗ってきた。戸惑う私。扉が開き切っても動かない私に痺れ切らした其奴は、ぺしりと尻尾で頬を叩く。
「───」
釈然としない心持ちでエントランスを横切っていく。
向けられるいくつかの怪訝な目線。なにより痛いのは従業員からの視線だろう。なに猫なんぞ連れだしているんだ、と責めるような視線が居た堪れなくてしょうがなく、私は足早にホテルを出た。
ホテルを出た途端、あまりの騒々しさと気配の多さに、軽く眩暈を覚えた。秋空のようなからっとした肌寒い晴天。雑多な音色が鼓膜を染め上げる。そして黒猫は肩から飛び降りた。
黒猫が先を行き、私はそれを慌てて追う。
「………」
──昨夜の爆発騒ぎが嘘のようだ。
台風一過の翌朝。笑顔溢れる賑やかさこそないが、街中を歩くそのほとんどの者達は平然と続く今日を生きる事で精一杯のようだった。自分達とは関係のなかった危機に関心を寄せる素振りがまるでなかった。それこそ、平行に並ぶ違う世界に
けれど、そのような私の心配は全くの見当違いなのだと、その後割とすぐに知れた。
立ち入り禁止を示す小高い柵にそれは囲われている。
廃墟となった高層ビル。
焼け残った残骸。
まるで映画用に設られたセットのようだ。他人事のようなこの空気感にも頷ける。ようするに現実味に欠けているのだ。被害があったのはこの建物くらいのもので、周りの風景に比べて明らかに浮いていた。
しかしその現実は目の前を歩く黒猫には預かり知らぬ事で、相変わらずの足取りでひたすら前へ進んでいく。
目的地は不明。意図も通じ合わない。いや、其奴に私の言葉くらいは通じているのかもしれないが、しかし私には其奴の考えている事など全然計り知れない。ただ私が一方的な要求を飲み続けているのが現状だった。
脇道に入る。影に冷やされた風が後ろへ通り抜ける。
都市の華やかさに似合わない日陰。どこかしら雰囲気が荒れており、この区画だけ“外”の発展に見捨てられたかのよう。時折感じる視線など、余所者への排他的感情をろくに隠しもしない。ここは都市の病巣だ。光に影が不可欠なように、健常に病は付き物なのだろう。
脇道を抜けると、陽に晒される古い街が姿を見せた。
都市の中心ほどではないが、それでも建物の背は高い。五階層の雑居なビルが並び建っている。一瞬ばかり巨人の墓標と空見したが、それは失礼にあたる。まだ利用している人々がいるのだから。
人通りはまばらだ。若々しさがない。萎びた枝のような人達が道を歩いている。
気がつくと黒猫から距離が離れていた。案の定少し離れた先で黒猫が私を見据えている。なにやら不機嫌そうな視線で『早く来い』と訴えられている気がした。
黒猫に駆け寄る。一日限りの奇妙な旅はまた再開した。
雑居ビルの通りを過ぎ、下水路に架かる橋を渡り、背の低い住宅街の舗装された坂道を登っていくと、なにやら教会が見えてきた。
切り立った崖の上の教会。
途中で折り返すように坂道を
そして察するに黒猫の目的地はあそこなのだろう。
ところで少し話は変わるが、私はある一つの事を失念していた。それは案内役が人ではなく一匹の猫であった事だ。私は今までがそうであったように、教会までも道なりに進んでいくのだろうと勝手に思い込んでいた。
なんとこの黒猫、途中で道を外れ出したのだ。
「───なんでっ、私はこんな事を……」
進路を悉く塞ぐ薮を掻き分けるように走っていた。その遥か先を黒猫は悠々と進んでいく。小さきその身体は薮の中を進むのに適していた、この私と違って。
──おのれやはり悪魔の手先……!
テンションも混沌に生い茂る林の如く乱れていた。
おそらく十分は続いたであろう障害物レース。
そうして。必死こいた苦労の末、私は薮を脱出し、レースは惨敗だった。
眼前に白亜の壁と色彩鮮やかな窓ガラスが聳える。
ちょうど教会の真横に出たようだ。順序は逆転してしまったが、入口の方へ回り込む。
威圧的に仰々しい扉は開いていた。
教会の内部は薄暗い。カーテンを開ける前のような陽光の遮断具合。厳かな雰囲気。柔らかな曲線を描いた長椅子が、奥の神聖な装飾ガラスに向かうよう整列している。
その内部に、明らかに不釣り合いな雰囲気を纏う何者かが、長椅子の一部を陣取っていた。
「───おや、祈りの日でもないのに来客とは珍しい。お生憎、神父様なら今留守だよ。たんに話し相手をご所望ならばまあ、僭越ながら僕が努めてあげてもいいけど」
それとも道聞きの類かい? と軽薄な物言いの男がこちらを振り向く。
ニヒルな笑み。目深に被った平たく唾の広い帽子は男の前髪を押さえつけ、奥の瞳を隠している。一言に胡散臭い。その真っ先に目が行く装いの所為で、男の第一印象はそれだけに占められるだろう。
すると、おや? と男が呟く。視線はおそらく私の足元にいる黒猫へ向けられていた。
「熱心に勧誘かい? だったらソイツはやめといた方がいいと思うけど──ん? そういう事じゃない? それは要らぬお節介すまなかったね。けどさっきも言った通り神父様は留守でさぁ、帰るのも遅くなるって言付けだ。だから今回は縁がなかったという事で帰ってもらいなよ」
困惑の渦に陥りながら、私はようやく口を開いた。
「……あなたはそこの黒猫と話せるんですか?」
「おっ、余所者の割には察しがいいね。そうだよー」
「………」
そういう存在がいるとはティアレナの知識にもあったが、中でも人の姿で他の動物と言葉を交わせる者は希少という話だった。まさか目の前の男がそうだとは……。
男はしげしげと私の全身を舐めるように眺め、さらに笑みを深くした。
「ははぁ、面白いな。うんうん、気が変わった。少し話してこうよ。君は神父様との縁には恵まれなかったみたいだけど、これもまた何かの縁だ、この場限りに僕と仲良くなってこうぜ」
これもまた何かの縁。確かにその通りに思えたので、私は男の気まぐれに乗ることにした。
手招きに従い、男の隣に腰を下ろす。すると私の膝の上に黒猫が乗ってきた。
「相当気に入ってるみたいだぜ、君の事」
「身に覚えはないんだが……」
「はは、猫にそういうのを期待してはいけないさ。こいつらは勝手に懐いて、勝手に離れていく生き物なんだから。もちろん人の顔を覚える事はあるんだろうけど、大半はこいつらが抱く第一印象で決まるもんさ」
「そういうものか」
「そうそう。ところでさ──」
そこからは気の向くままに会話に花を咲かせていった。
それはまるで十年来の友人と久しぶりに語らうように。
私たちは結局、最後まで名乗り合う事はなかった。別に興味がなかったとかそういう冷たい話ではなく、偶然その場に居合わせた赤の他人と楽しく会話を広げるように、まさしくそのような状況を楽しんだのだ。
男は語った。
例えばそれは留守であった神父の話。
例えばそれは私を導いた黒猫の話。
例えばそれはこの街周辺の歴史の話。
例えばそれは、語らう男の半生の話であったり。
とても得難い経験だった。彼は一度として、私への疑問を挟み込まなかった。ただ私が現状さらりと話せる事ばかりを引き出して、会話を円滑に楽しませてくれた。おそらくはそういう話術だったのだろう。
そうして話し込んでいる内に一日を終えていた。
帰り際もまた出会いと同様に、あっさりとしたものであった。
“じゃあ、私はこれで”
“そうかい。ならまたいつか”
夕焼けに朱く染まる教会を後にする。
坂道を下っていき、崖に切り立ったそれをもう一度見上げた。
朱色に馴染む空模様。
悠然と聳える教会支部。
黒猫がなぜ私をあの教会に導いたのか、そこは終始わからずじまい。だがそれとは別に確かな満足感を胸に抱きながら、私は止めた歩みを再開させた。
──私はきっと、この日を忘れない。
これは完全な余談なのだが、部屋に帰った途端セルフィに怒鳴られた。重症人がどこをほっつき歩いていたんですか、と龍が翼を広げるようにして。そしてぐちぐちと文句を投げ続けられた、朝日が昇るまで。
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