第10話 黄昏の初夢

 

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 広場の長椅子ベンチを両脇に置いただけの、開放的な列車。

 夕焼けに赤く塗りたくられた細長い回廊。

 窓より窺える景色は四角に切り貼りした影絵のようだ。それらを何枚と無造作に重ねて、大した感動もなく足早に通り過ぎていく。

 周囲には……。


 生まれて初めて、夢を見た。


「……ああ、私はまだ死んでいないらしい」

 前触れも音もなく、対面の座席にはティアレナが座っていた。

 悲しげな表情を浮かべて微笑んでいた。

「───そう。あなたは死んでない」

「そうか、死んでいないのか……。どうも、私は生き残る運ばかりが良くて、記憶を取り戻す機会に巡り合う運が絶望的なほどに欠けているような気がしてならない」

 今回の件が顕著だろう。記憶を取り戻すばかりか、更に別の存在が場外から乱入してきて、その一部を掠め取られてしまったのだから。初期の何もない状態の頃よりマシとはいえ、失ってばかりの身の上だ。

 これは悪運以外の何物でもない。


 ──私の記憶がそれほどに恨めしいか、世界。


 背をだらしなく靠れて、そう嘆かずにはいられなかった。


「─────ごめんなさい」

 俯いた影。小刻みに震える身体を押し殺し、喉に微かに残った吐息を無理矢理声に出したような謝罪。

「筋違いだ」

「…え?」

「だから筋違いだ、それ。私は私の人生に愚痴を溢しただけなんだから。仮にそうだな、文句があるんだとしたら。──なんだい、あの怪物は。こちらは手も足も出ず、文句のつけようがないほどの完敗だ。せめて弱点の一つや二つは教えてほしかった」

「──ふふ」ティアレナが小さく吹き出した。「ないよ、あの人に弱点なんて。ナナシさんだってそれはわかってたでしょう?」

「………もちろん」

 いや、せめて一つくらいは持ち合わせていてほしかったものだ。

 するとティアレナは力を抜くように両手を座席に押し付け、足をふらふらと遊ばせた。

「けど予想外。シュバトリエさんもこっちに来てるなんて思わなかったかな」

 ティアレナの記憶によると、シュバトリエは別任務により遠征のはずである。同じ権限保持者であるティアレナにさえ、その内容を知らされていない詳細不明の任務。それが終わり、帰投途中についでの様子見としてティアレナの任務にも立ち寄った──というのが考えられる可能性の一つだろうか。だとしたら相当に間が悪い。

 他に考えられる可能性は……。

「君の不甲斐ない姿を見て、君の部下の誰かが密かに応援を呼んでいたとか」

「やめて。普通にありえそうだから。───……ああぁっ」

 途端、落石するように崩れて落ちるティアレナ。

 掌で顔全体を覆い、ぶんぶんと頭を振って悶えている。

「あー……なんだ、思い当たる節でもあるのか?」

「ひ、秘密っ!」

 と言われても。ティアレナの抱く感情は逐一私にも半ば強制的に流れ込んでくる。それは記憶も例外ではない。現在の私たちは、一つの棺桶を共有しているような状態だ。そして今流れ込んできている感情は明らかな羞恥。それに関連する記憶を我が事のように振り返った。

 なんともギャップの酷い光景が網膜に投影され始める。

 帰還途中の列車内。

 勢いよく窓にぶつかる大粒の雨。

 気まずい空気に落ち着かない父親のような面持ちのシュバトリエは、座席で横になっているティアレナ──現在の私の視点──に向けて、このような事を口にした。

『年頃のお前にこういう事を言うのは気が引けるんだが、任務前には必ず厠に行っておけ。それで敵に遅れを取ったのだとお前の部下の一人がうるさくてだな……』

『ッ───出て行って…!』


「ぐぅ……」

 瞬間、首を絞められた。網膜に流れていた映像が電源を引き抜かれたかのように唐突に消灯した。

「追い撃たないで、思い返さないで! 折角思い出さないようにしてたのにっ……!」

「──────」

 ぐらぐら首を揺らされる。

 チカチカ目玉が餅をつく。

 息苦しさと気持ち悪さが悪魔合体した拷問。

 しかしここは既に夢の世界。例え今すぐ落ちたくても、意識が落ちる事はありません。

「───や、やめ……」

「あなたがすぐにやめて! いつまで思い返しているの!」

 いや、それもう君の……。

 ティアレナによる締め付けマウンティングに止む様子は微塵もない。

 ───まるで正気を失っていた。余程の羞恥と耐え難い屈辱だったようだ。

 無理もない。シュバトリエはティアレナにとって保護者ちちおやも同然であった。そして親離れもとうに済んでいるのだとという自負が出来上がっている年齢でもある。そこへ幼子のような注意。今のような退行もまた必然であろう。

「………」

 ──いや、無理だ。冷静を努めても吐き気が……。

 吐き気が込み上げてくる。その絶大な気分の悪さはようやくティアレナにも伝染し、

「………」

「………」

 両者ノックアウト。紅く染まった列車内に死屍累々の地獄が作られた。

 

「───現実の私は今、どんな事になっているんだろうか」

「吐瀉物を撒き散らしてないか、やっぱり気になる?」

「いや、それもあるにはあるが……。そうではなく」

 現実の私は、一体何処で眠り落ちているのだろう。

 やはりそこが気になる。目が覚めた瞬間、牢獄の中は勘弁願いたいところだ。

 そして何より、ティアレナの記憶において、シュバトリエが私に対して何の言及もしなかったのが不可解極まりなかった。シュバトリエはあの後、私にトドメを刺さなかった事は明白であるにも関わらず。それを口にする素振りさえ見せなかった。

 真意が全く見えてこない。率直に言うと、不気味で仕方がなかった。

「けど、シュバトリエさんは悪い人じゃない」

 ティアレナが切実な想いで私に請う。

 あまり悪く思わないで、と。

「わかっているとも、それくらい……」

「そう。ふふ、信用してくれるんだ。ある意味では私たち二人揃って、ナナシさんに手を掛けたのに」

「ティアレナ──私が君を疑う事などありえない。君がシュバトリエという男に完全な信用を置いているというのなら、同様に私も彼を信用する。今の私たちはそういう在り方だ。故にこそ」

 私が意識を落としてしまった──あの後に、一体何が行われたのか。誰と会話をしていたのか。

 無事起きられたらまず、そこから探ってみる事にしよう。

 深呼吸。風味も何もない空気を吸い込んで、気持ちを入れ替える。

 話もひと段落したところで、別の疑問に目を向けた。

「まずは確認なのだが、互いの夢に干渉するのか、私たちは」

「そう。夢も繋がってしまう。この夢の中でも現実とほとんど変わらない感覚で接触もし合える。今の夢は、ナナシさん主体みたい。全く見覚えのない風景……」

 ティアレナがゆっくりと、左右を順繰りに見遣る。

 静かな終末ゆめの世界。振動も音も途絶えた、絵画の中のような止まった時。

 列車は彼方の境界を廻る。夕暮れの頃をただただ繰り返すように、僅かな傾斜をつけながら円環を成していく。

「ちょっとだけ、歩いてみない?」

「ああ、そうしよう」

 私たちは列車の進む反対の方向へ歩き出した。

 車両を進んでいく途中、ティアレナはぽつりと零す。


「ナナシさんの世界ゆめは、なんだか寂しい」


 相変わらず音は二人分の足音と発声のみ。

 列車は次の目的地も告げずに走っていく。

「何もないわけではないけれど、どこか殺風景。ずっと同じ日々が流れるんだっていう諦めが、一色ばかりのこの夢に表れている気がする。たぶんこれは、ナナシさんが記憶を失くしてしまう前に見ていた景色の一つで、その頃のナナシさんは、きっとすごくつまらない思いをしていた」

 ティアレナのそれは代理だ。私が口に出したくない事を、彼女が代わりに声という形として自覚させてくれている。

「もしかしたら、これからはこんな夢を見続けるのかもね。ナナシさんの記憶はやっぱり失われていたのではなく、奥深い場所に眠っていただけ。夜を越すたびに記憶は蘇っていく。旅を続ける理由は薄れてしまう」

「しかしそれとは別に、私の記憶の一部は奪われたままなんだ」

 進まないといけない。

 立ち止まってなどいられない。

 記憶を取り戻すために、私はティアレナのいる国の中枢へ向かう。


 ───視界が、次第に白ずんでいく。


「……今度会ったら、全くの敵同士、かもしれないのね」

 躊躇いがちな声。それでもティアレナは微笑む。

「それでも、待ってるから」

 その愛しい姿や声も空間そのものが途切れていくように離れていき、

「──────」

 急劇に朝陽の眩しさの下に晒された。

 

       ◇

 

 目を覚ますと、柔らかなベッドの上だった。

 記憶にない白い天井。流れてくる外の陽だまりの匂いと、ほんのりと漂う柑橘類の香り。

 すうすうと、少し離れた場所からは穏やかな寝息。

 そして、とてつもなく気怠い私の身体。熱病に罹ったかのように重く沈み込み、ベッドから起き上がる事がろくにできず、状況確認もままならない。

「───ッ」

 無理を押してベッドの上を這いずる。

 苦しいばかりの呼吸がさらに荒くなる。まるで肺に穴が空いたように呼吸も満足に行えない。

 段々と内臓に熱が帯びる。塞がった気配のある胴体の切り傷が、熱した鉄の棒を力強く押し込んだかのように激痛を生じさせる。

 無様にもベッドにのたうつ私。

 もぞもぞと暴れる音に目を覚ましてしまったらしく、隣から艶かしく声を漏らす少女の面影を残す女性。

「………」

 がばりと掛け布団を自ら剥ぎ取り起き上がったセルフィは、寝惚けたままの瞳で私を見下ろす。

 そして、まるで天使のように微笑みかけた。

「何をするつもりでいらっしゃるのでしょうか、この脳なしの重傷人おろかものは」

「──────」

 今回の罵倒にはやけにキレがあり、口汚さに磨きがかかっていた。

 妙に迫力のある笑みでセルフィは続ける。

「自覚がおありでないので? 常人なら即死の傷を負いでなのですよ? まさかそこまで死を望んでいらっしゃったとは知りませんでした。どうぞお手を拝借しましょう。今すぐ窓から投げ出して差し上げます」

「い、いえ。遠慮、させていただきます事を此処にご了承願いますれば──」

「ストラは阿呆です、まったく」

 セルフィはため息を吐くと、私の身体を細心の注意を払いつつ起こしてくれた。

「頑丈な身体でよかったですね。でなければ流石の私も助けられませんでした」

「……その、聞いてもいいだろうか?」

「ダメです、もれなく乙女の秘密なので」

 にべもなく断られた。やけに秘密の多きミステリアスな女性を志しているようだった。

「だから私もストラには何も聞きません。そうですね、まだ旅を続けるのでしたら、こういう条件をお互いに課しませんか?」

「それは、なんだ……?」

「踏み込まない事です。あるがまま、聞いたままを受け入れるんです。時には耐えきれなくなって溢してしまう事もあるでしょう、そういう事もひっくるめて、お互いの事情に深く踏み込まない。どうでしょう?」

「───えらく、消極的だ。君らしくもない」

「……事情が少々、変わりましたので」

 そしてセルフィは無言で私の瞳を見据える。

 この条件を呑むのか否か問うてくる。

 私は迷った。ここで別れを告げた方が互いのためなのではないかと。私はティアレナの住む国──ポレモネート来たれ闘争に乗り込む。記憶を取り戻すためなら喜んで私はこの身を焚べる。ゆえに危険が伴うのは確実、夏の火に入る虫そのものなのだ。

「あ、ちなみにこの提案を飲もうと飲むまいとに関わらず、私はストラに着いていきますから」

「は? ……なら無意味ではないか」

「いえ無意味ではないですよ? まず道中の気まずさの度合い、敵対的な関係性、食事中などの距離感──ほら、上げればキリがないほどに変わるところが出てきます」

「面倒だ。なんなんだ、その私への執着は……」

 そう訊いた途端、セルフィの瞳が妖しく魔的なかがやきに濡れた。

「───ふふ、愚問でしょう。ストラは私が生まれて初めて、自らの意思で見繕った玩具です。あなたの色が変わり果てるその瞬間まで、私はあなたから目を離しません。片時さえも」

「………」

 蛇に睨まれた蛙ならぬ、龍に見初められた生贄の気分だ。

 私は、知らず厄介な相手に付き纏われていたらしい。セルフィの本性を測り違えてしまっていた。世間知らずのお嬢さんが自分の有り様と見つめ合うため旅に出た、などとまかり間違えてもそのような生優しくもハプニング満載な佳話はなしではなかったのだ。

 セルフィが優しく手を差し伸べる。

 この手を握れ──と。

「………」

 破滅だ。この女の求める先は気に入った玩具あいての墜落に他ならない。

「───生憎だが断る。一度でも気になった事は先延ばしにできない質なんだ」

 目を伏せるセルフィ。されど前髪に隠れた瞳は、未だ微笑んでいるように思えた。

「……ええ、そうでしょうね。そういう返事を頂くと理解していました」セルフィは緩やかに手を引っ込め、軽くお辞儀した。「なら改めましてよろしくお願いします、ストラ。お互い、内面を踏み躙り合いながら旅をしましょう?」

「……ああ、できれば穏便に行きたいが」

「そう立ち行かなくさせたのは、ストラ──あなた自身の選択ですからね?」

 後悔してももう遅いのです、とセルフィは相も変わらず微笑みを貼り付けている。

 そう、既に遅い。選択の境はもう踏み越えた後である。

 私はこの道を選び取った。

 腑の色を探り合う仲。


 旅の再開を祝するには、あまり縁起の良くない幕開けとなった。

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