第9話 闇の底へ

 

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 誰もが状況の把握に遅れた。脳機能も遠くの爆発に巻き込まれてしまい、回復するのに少しばかりの時間を要したらしい。

 せせらぐ水面。それは小粒の雨。ぽつぽつと地面を叩き始めた。

 一瞬間の小雨の独り舞台。

 石にされたかのように静まり返った民衆。

 次第に波紋を広げるように、急に雨足が強くなるように、どよめきが人々の端々から洩れ始めた。

 心を一つにして、口を揃えて皆は言う。

 “今のはなんだ?”

 けれども爆発が起きた事など、皆心の奥底ではわかりきっている。だから問題はそこではない。何が起きたのかではなく、どうしてそんな事が起きたのか。現象の大枠カテゴリを知りたいのではなく、それを引き起こした原因を教えてもらいたくて『あれは何だ』と口にした。

 故にその先はバラバラだ。

 正体不明の敵を見出し逃げ出す者。

 興奮気味に勇敢を渦巻かせて原因を探りに行く者。

 その場から離れまいと意気地に足を凍らせる者。

 あるいはまだ、現実にさえ追いついていない者。

 そのおおよその四つが繁華街を綯い交ぜに掻き乱した。

 集団パニック。予想の容易い混乱でありながら、誰も避けられなかった心の決壊。

 それは爆発が起きた四秒後の、必然の遷移だった。

 

 爆発は二度起きた。砲弾を放り込まれたように、崩れゆく高層建造物ビルディングの雷鳴を聞いた。

 私は音の発生源に向けて駆け出した。

 私には何もできない。そんな事もまたわかりきっていた。流れに逆らう程度の野次馬が精々。傍目からすれば迷惑極まりない奴だろう。

 けれどその先には白い糸と、半身の繋がりがある。爆発の根元にティアレナがいる。記憶の糸はその方角を指し示している。向かわぬ理由がなかった。逃げ出すに足る理由を繕えなかった。

 なによりも。


 ──ここで立ち止まってしまえば、私は死ぬ。


 強迫観念。突き動かされる焦燥と疼く虚無。行動の指針が途切れてしまうかもしれない恐怖。身体ではなく精神の自壊。歩みを止めた瞬間、そこが私の墓場となるだろう。彷徨える亡霊が一度でも地縛されては、もう二度と外界へは抜け出せないように。

 近くの衝動いとに手を伸ばし続けなければ、私の一生は緩やかに消滅してしまう。

 だから私は走った。何度でも走り続けた。節々が断裂しかけた身体を繋ぎ止めて、鞭を打ち続けたんだ。


 “───貴方は奪われているのです。この世界への執着を───”


 唐突に白いローブの女の声が再生リフレインする。

 奪われている。この世界への執着を。

 それは同時に欠け落ちた記憶の中──白い糸の先にあるのだろうか。

 取り戻した一部の記憶を掘り返していく。手掛かりがないかと頭をかき混ぜる。そして思い出す。失ったのは何も記憶だけではない事を。樹海の中に投げ出されてから延々と抱き続けていたはずの、今では私の中から影もなく消失してしまった、世界に対する疎外感を。

 樹海より抜け出そうとしていた頃、私は記憶を取り戻す事を人生の至上命題と位置付けた。

 ふと、こんな疑問を抱く。

 なぜなのだろう──と。

 なぜそんなにも、樹海を抜け出すことよりも、飢餓や喉の渇きから脱することよりも、記憶を取り戻そうと思ったのか。

「………」

 奪われた執着というのは、きっとそれだった。

 ───ああ、どうして気が付かなかったのだろう。

 私にとって疎外ソレは、なによりも大切な枷の筈だったのに。

 今ではもう失われている。生きる執着いみを根こそぎ奪られていた。

 豪雨に掻き消される悲鳴。

 冷たい大粒に打たれ続ける身体。

「───」

 繋がった半身が訴える。

 鼓動を伴って告げてくる。

 それでも、あなたには道が見えているでしょう──と。

 だからこそ記憶しゅうちゃくを取り返せと、私は暗雲に吠え散らかした。

 

 業火に燃え盛るビル。屋上付近はまるでフォークで削り取られたケーキのような破損具合。そのビルは今もなお内部で崩壊の音色を轟かせている。

 無観客の広場ステージ

 崩壊寸前のハリボテ。

 赤と黄の蛇がのたうつような激しい熱。

 照りついたガラスの奥では囂々しく火の手が広がる。

 そうして、炎の逆光を背にし、男は堅牢な石像を思わせる不動さを以て立っていた。

 右手には見知らぬ誰かの生首を、残る左腕には肩に担ぐように煌々と白い燐光を纏った大剣を握って。

 不思議と豪雨にも掻き消されず、野太く沈着な男の声がこちらにまで届く。


「なるほど、確認した。貴様があの記憶の持ち主か」


 聞き捨てならない一言。私は動揺を押し隠す。白い糸は男の背後を越して、ビルの奥先まで貫いているのを見るに、どうやら一足遅かったようだ。

「記憶を取り戻したいのだろうが、すまぬな。そういうわけにはいかない。貴様の記憶は有用と判断された。同情はするがそれまでだ。しばらく貸してもらう」

「勝手な事を言う。あれは私の物だ。今すぐ返してもらう」

 すると、男は右手に持っていた生首を乱暴に地面へ放り、

「ならばオレは壁となろう。貴様を阻む壁として。記憶を取り戻したいというのなら、このオレを殺してみせるがいい、若き男よ。でなければ、決して先には進めない」

 空いた右手を大剣の柄に掴ませ、分厚い腰を僅かに落とし、今にも飛び出さんとする獅子のように構えた。

 ぶわっ、と全身の皮膚が逆立つ。


 ───殺される。


 津波のように迫る岩壁。そのような錯視を伴って、既に暴力じみた殺意が私を襲った。

「──────」

 ティアレナの知識として、私はあの男を知っていた。

 彼の名をシュバトリエ。岩壁を蝕み咲く紫の花──岩喰花シュバトリヤより名を頂いた者。彼の者はその名に恥じず、奈落の岩壁をも両断し、新たな奈落を切り拓いたという。

 そのような怪物と正面からり合えるのか? 否、不可能だ。

 ただでさえこちらは間合いで負けている。培った経験なぞ比べるべくもない。


 ───殺される。


「どうした、来ないのか?」

「………は」

 無遠慮な問いに細く息を吐く。

 かつてないほどに、全身を濡らす雨を感じている。

 一筋一筋の雨雫が皮膚を擽るように伝っていく。

 それは快感に抱く、腰が抜けるような寒気にも似ていて……。


 ──なるほど、これが怖気か。


 理性が解する絶対的死の恐怖。

 私ではあの男に逆立ちしても敵わない。

 けれど。

「私が馬鹿正直に戦った事など、今までにあったか……?」


 ───それもまた、否。戦いの常は逃走にある。


 私は即座に身を翻した。例に漏れず、あの怪物シュバトリエの前から逃亡する。

 戦術的撤退だ。決して記憶を諦めるわけではなく、あくまで遠回りをするだけ。怪物を避けてでも記憶の元まで辿り着く。


 ──なに、これが初でもない。


 前例はある。それはかろうじてだが成功した。

「今回もまた、そうするまで……!」

 すると後方より厭な気配。地面を踏み砕く軋みを聞いた。

 咄嗟に右方へ重心を傾け、その場を飛び退く。

 襲いかかってきた男は獰猛に口角を歪ませた。

「ふっ───」

 ほぼ紙一重の回避。

 暴風の如き勢いで振り抜かれる光線たいけん

 一瞬ばかり、雷鳴が眼前に落ちたのだと錯覚した。

「ぐぅっ………!」

 横へ跳んだ私を容赦なく衝撃波が襲った。

 巻き上がる石材プレート

 微細な弾丸となり水滴が繁吹く。

 もはやそうするのが自然だと神経に染み付いたように、視界が塞がってしまわないよう飛び散る水滴を腕で防ぐ。

 浅く水面と塗れた石畳の上を滑りながら体勢を整え、すぐさま広場からの離脱を試みた。

 だが当然、そこで攻撃の手が緩むなどありえず、

「逃すかよッ───!」

 猛々しい叫びを張り上げて、男が大剣を振りかぶった。

 神経を研ぎ澄まし、私は後退しつつ回避に専念した。

 猛攻が続く。木の枝でも振るうかのように、私の身長ほどはあるであろう大剣をシュバトリエは軽々しく振り回す。さながら際限のない蟻の大群だ。ほんの僅かでも気を抜けば、腕を捥がれ、脚を千切られ、心臓を食い破られる。

 私に取れる手段はひたすら回避のみだった。

 足蹴りなどで刀身を弾けたらどれほど楽になるのだろうかと、誘蛾灯に誘われる蛾のように、純白の光を纏う大剣を避け回る。

 しかし本能が頑なに言う。刀身に触れてはならないと。

 そして活路も見出せず、次第に私は追い詰められていく。

「ッ……─────」


 ──最初の時よりも、攻撃が避けにくい……!


 猛攻が続けば続くほど、斬撃の精度が上がっていく。

 躱せば躱すほど、私の中身を見透かされていくようだ。

 すると私のその懐疑も見透かすように、男は嗤う。

 涼しい顔をして悠長に語り始める。その間も攻撃の手は少しも緩まない。

「ああ、徐々に貴様の顔が剥がれてきた。奥の頭蓋ほねを断つのも時間の問題だろう。だが少々不可解だ。アイツの癖が混じってるようだが、さて──」

 アイツとはおそらくティアレナの事。ティアレナの戦闘経験が私に流れ込み、とうに身体に馴染んでいた。それをシュバトリエに見抜かれたのだ。この闘争とも呼べない不対等な戦いが長引けば、私とティアレナの関係さえも勘付かれてしまうかもしれない。

 それは、あまり良くない気がした。何が、とまではうまく断定できないが、私にとって都合の悪い展開に続いてしまいそうな予感があった。


 ──この男から、一刻も早く離れなければ……!

 しかし、それはどうやって?


 その余分な思考に気を割いてしまったのがいけなかった。


「あっ──────」


 あまりにも呆気ない終わりだった。

 自覚もないまま。身体が途端に、宙へ跳ね上げられる。

 左の脇腹から右の肺にかけての喪失感。

 嘘のように真っ赤な血飛沫が少し遠い炎の光を反射する。


「拍子抜けの結末だ──」


 斜め下方から、そう心底つまらなげに呟く男の声が聞こえた。

 滞空する肢体。

 遠退く意識。

 地面へ倒れ込む時には感覚も薄れ、訪れた他人事の痛みを懐かしむ。

 自分の身体が、別の誰かの物となったような疎外感。

 音のない世界で、男が私を見下ろし何かを話す。


 ──聞こえや…しない……。まったく、なにも。


 すると顔を別の方向へ向けて、また何かを口にしている。

「………………」

 しかしその時にはもう、私の視界はすっかり闇の底。

 意識も同じように招かれて、私は静かに瞼を閉じた──。

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