第7話 死神の仮契約
◇
「さっきのあれは……
腕の中で責める、指のか弱い一掴み。
薬の作用が抜け切れていない、舌足らずの声音。
階段を駆け降りる振動に、少女は目を覚ましてしまったようだ。
静寂に沈む階段。
駆け降りる音ばかりがカラカラと響く。
「空っぽに嘘は
「ひどい人……。狂ってる。ナナシさんの最低」
少女は腕の中に沈み込むようにして、力なく糾弾した。
私はそれを避けようとも思わなかった。事実その通りだからだ。
「───責任、とって……」
ぽつりと、一雫のような呟きが小さく──されど階段の奥底まで澄み渡るように木霊した。
「あなたは、私の唇を奪い去った……んだから。それにあられもない私の姿も…見た、んでしょう? この恥、ちゃんと…引き取って」
「君の生涯をすぐ傍で見届けろ、という事か?」
一瞬で少女の顔全体が紅潮する。
「っ───大袈裟な人。そ、そこまでは…言ってない……!」
しかし煮え切らない態度で、少女は前髪で顔を覆い隠す。
しばらく無言の間が流れた後、もう一度少女がボソボソと口を開いた。
「───頸」
「くび?」
「頸を、出して。あなたの…頸を」
あまりに物騒なお願いに思わず頬が引き攣る。
「まさかとは思うが。い、命を差し出せと?」
「そうじゃ、ない。これは…契約のため。だってナナシさんと私、どうせすぐ離れ離れになると…思うし」
「……つまり、どういう事だ?」
「お互いの細かい位置がわかるようになるおまじないを、私とナナシさんの間で結ぶ。とりあえずの処置、としてね」
「………」
私は少女の言われるがままに従った。
踊り場の壁に身を預けると、少女が私の首元に針のような何か尖鋭な物で傷をつけていった。それはおそらく私の知らない言語体系。汗の滲む皮膚に突き立て、裂かれながらそれは綴られる。
拙く震えた手繰り。
反して研ぎ澄まされていく皮膚の感触。
私の首元に書き終えると、今度は彼女自身にも同じように傷を加える。あまりにも焦ったい指の運び。細かい装飾入りの針は今にも取りこぼしそうだ。私は我慢が利かなくなり、彼女の持つ針を強引に奪い取った。
「──────ッ」
そして私の首に刻まれたモノと同じ言語を、彼女のほっそりとした首にそっくりそのまま刻んでいく。耳にかかる吐息は苦しげで、肩辺りの衣服を摘む指もまた、都度駆け巡る鋭い痛みを耐えるようにピクリと跳ねている。
刻み終えると、少々荒れた呼吸ながらに彼女は潤んだ瞳で私を見上げ、
「……最後に──」
その短い呟きが最後まで音となる事なく、今度は彼女に唇を塞がれた。
柔らかで滑らかな感触。
汗ばむ匂いに、互いの体温が混じり合う。
一つの蠢く物体となり溶け合っていく。
──頸の刻印が、ドクンと脈打つ。
新たな心臓の鼓動がそこに産まれる。
ソレはまるで彼女の鼓動のようにも感じ取れた。
変化はそれだけにとどまらない。不意に脳裏を流れてきたのは彼女の記憶と感情。私の知らない──あらゆる情景、あらゆる情動、あらゆる情報の羅列が脳の隅々まで駆け巡る。その奔流はもはや純粋な暴力に近く、二つの存在が一つに共有される衝撃は核融合そのもの。
一言に言うと、一瞬にして脳が
「………」
焼き切れる寸前の頭脳。
一部感覚を明け渡した精神。
互いに四肢を絡み合せ、密接した関係を認め合う。
……そういうのも不要なほどに。
理性を素通りして、心に刻み込まれた
黒衣の少女──ティアレナもまた、過去を失くした一人だった───。
「───…君に、これを返す」
懐から黒のポーチを取り出し、ティアレナの手に握らせる。
私は肺に溜まっていた息を吐き出し、身体を解きほぐすように、凸凹とした天井を見上げた。
「まさか、ティアレナがこのポーチの持ち主だったとはな。凄まじい偶然だ」
「……そうかな」彼女が息を吐き出すように微笑む。「私には、全てが
ティアレナはポーチを受け取らなかった。首を横に振って、代わりにそれを私の胸板に押し付けた。
「それはもう、あなたの物。あなたに持っていてほしい」
「……そうか。なら、大事にさせてもらう」
黒いポーチを懐に大事にしまい込む。
すると急に身体を添わせて、ティアレナは囁いた。
「このおまじないは、あなたが二度と記憶をなくしてしまわないためのもの。私たちはお互いに補強し合う。例えあなたが記憶を失ったとしても、その失った記憶は私を通してあなたに逆流する。それでももし、その上でまたすっかり忘れてしまうようなことがあったら」
ティアレナは、それはもう清々しいまでの笑顔を貼り付けて、こう言い放った。
「───未来永劫、私はあなたを殺す死神となる」
あまりの恐怖に思わず後退りする。もう二度と忘れまいと誓いを立てた。
◇
私はティアレナをあらためて抱え直し、再び階段を駆け降りた。
蜘蛛の糸ように伸びる微かな光を頼りに、“扉”があるであろう場所に向かう。
──記憶の扉。
ティアレナの持つ知識を見返すに、私から欠けているのはどうやらそれのようだった。そして記憶の扉を取り返す事ができても、私の記憶喪失が完全に回復する訳でもないことも知ってしまった。
「───けれど、おかしな話」
「何がおかしいんだ……?」
「私の記憶を見ても、気づかなかった? 記憶の扉を抜き取られて、それをないと自覚し取り戻しに向かえた人なんて、今のところナナシさん一人だけ」
「なるほど。そうか、本来はそういうものなのか」
「不思議な人。諦めは持ち合わせてるのに、絶望をまるで知らないみたい」
「目的がはっきりしているから、かもしれない」
そうでなければ絶望していた。途方に暮れ、目を塞いでいた。
「どうも私は、崖の淵で持ち堪えられるほどには、強い運の持ち主らしい」
「……それ、普通に運が悪い人よ」
ティアレナは手厳しかった。
一向に変わり映えのない景色が続く。
「──しかしキリがないな、この階段」
「地上だけで五十階、地下は十三階もあるからね。ナナシさんを見掛けたのはたしか三十七階辺りだったから……。その白い糸ってまだ下に続いてるの?」
「続いてるとも……」
我ながら語尾のキレが悪かった。つまりこの引っ張られるような感覚に距離は関係ない。そういう可能性が唐突に浮上してきたのだ。何しろ結構移動を繰り返したというのに、手応えが変わらない。近場にあるというのは錯覚。目的地まで延々と続くそれは、単に向かえと私を急かすだけの精神作用なのかもしれない。
かれこれ少なくとも十回は鉄扉の前を通り過ぎたのだが、どうやら地上からもまだ程遠い空の上。白い糸が飛び降りろと指示しないだけ、温情はあるのかもしれない。
するとティアレナからこんな提案をされた。
「───面倒なら、吹き抜けにしてあげるけど?」
「………」
阿呆らしい事を宣う。両腕に小動物よろしく収まっている彼女が言ったところで説得力など欠片もなかった。
「地下深くに二つの死体が転がるだけだろう、それ」
「なんでそう極端に捉えるかな……。十階層ずつぶち抜いていくの」
「───はは、私に死ねと言うのか」
「ナナシさんなら問題なさそうだけど……」
人の事をなんだと思っているのだ、
……野生のケダモノだと? 失礼にも程がある。
高さ三十メートル以上の自由落下。想像するだけで肝が冷えた。
「却下だ。私は律儀に生きたい」
「……絶対落ちていったほうが早いのに」
黒衣の少女が唇を尖らして拗ね出した。
すると、ほんのりと白い光の玉が私の目前に浮かび上がった。それは段々と規模を大きくしていき──待て。
「おい君、何をするつもり──」
「だから私はあなたを信じてる、ナナシさん」
とびきりの笑顔を咲かせて、ティアレナは指を振り下ろす。
私の静止する叫び声は虚しく宙へ置き去りにして、気合の入った雪だるまの半身めいた光弾は、階段に盛大な風穴をぶち抜いていった。
◇
大幅な短縮は都合三度ほど続いた。
現在、命からがら最下層である。
白い糸はまっすぐ、地下通路の奥へ伸びている。
ティアレナが喉笛に警戒を込めて囁く。
「───誰かがいる」
拡散してそれは響いてくる。慌てるように駆けていく足音。息を乱す男の後ろ姿が闇の中に霞んでいく。腕に何かを抱え込むように、その背中に光の枝を生やして──微弱な引力を発しながら逃げていく。
前触れもなく、光弾が直線を突っ切った。
だが男を覆う不可視の障壁によって弾かれてしまう。
「追いかけるぞ。あの男が持っている」
首に掛かる重圧が応える。
───瞬間、私は駆け出した。男へ一直線に向かい、疾風を身に纏わせた。
追いつくのは造作もない。ティアレナとの鬼ごっこに比べればそれこそ児戯に等しい。
男の背中がすぐ眼と鼻の先に。微弱だった引力は万有のそれに近しく、欠けた隙間がとうとう埋まるのだと不完全な心が歓喜に打ち震えた。
「──────」
視界が明滅する。身体が機械的に稼働する。
ティアレナの腰に下げられた細剣へ、自然と手が引き寄せられた。
疑問に思わない。そうするのが最も最適解なのだから。
接合したティアレナの精神が執拗にこう訴えかける。
その男を殺せ、と──。
長年の染み付いた命令を遂行するように。
───赤黒い血飛沫にこの身を飾れ。
抹殺せよ。
───切り裂く快楽にこの身を曝せ。
抹殺せよ。
───何人も赦さぬ生きる屍となれ。
抹殺せよ。
幾度と反芻するのはそんな
私はおおきく細剣を振りかぶり、男の頸を切り落とそうと──。
「──────」
光弾によって細剣が弾かれてしまうと、不可視の障壁をも打ち破り、反射的に男を蹴り飛ばしていた。
壁に激突する男。爆発的な衝撃が通路内を満たす。男の腕は見るに堪えないほどひしゃげているが、辛うじて息はある。抱えていたケースは衝撃に耐えられず破損し、中に入っていた白い結晶体が地下通路に溢れ落ちた。
……私は、呆然とその場に立ち尽くす。
「───危なかった……」
ティアレナが安堵の息を吐く。
どれほどそうしていたのだろうか。
ようやく事態を飲み込み、意識を再開させ、無理に声を吐き出した。
「……ああ、私は人を殺そうとしたのか───」
白々しい独り言だった。
滑稽なほどに一歩遅れた認識と自覚だった。
「これが、君の抱える欠落の代償か……」
「………」
ティアレナは曖昧に微笑み、顔を少しばかり俯かせる。
望まれた殺戮が心の空隙を埋める。それだけが彼女の飢えと渇きを満たすのだ。
「その渦中にあなたと出逢った。似た境遇のあなたと」
「なるほど。私たちは似た物同士だ。色に欠いてる事が我慢ならない」
灰の通路に落ちる白い光を帯びた結晶体を見つめる。それが私の記憶。所々に混じる鮮やかな色は、まだ発展途上の滲みに過ぎない。
──ティアレナは、その
「ナナシさんは、何色になりたい?」
「そうだな、私は───」
こうして私は無事、割と呆気なく記憶を取り戻せた。
僅か二週間足らずの、とても大切なこの世界の記憶を。
しかし何事にも理由がついて回るように、呆気ない事にも当然理由はあり。
「……まだ、足りないみたいだ」
根本的な記憶の欠落もそうだが……。
微弱な引力が、また別の方角を指し示した。
取り返しにいかないといけない記憶が増えてしまったのだ。
「人の記憶を、彼らは培養できる細胞か何かと勘違いしているのか?」
足りない記憶の詳細を探ろうとし、検討もつかずにすぐ諦めた。
しかし、何も収穫がないという訳でもない。
──記憶の扉を奪われる以前の苦悩。世界に対する疎外感が、私から跡形もなく消えていたのだから。
すると腕の中では、あからさまなため息を吐く、呆れる気配。
「───いえ、見落としはあるでしょう」
「……どこに見落としがあるんだ?」
「不可解にも程がある過程が綺麗に欠け落ちてる。この都市──コズモメヌトーレに着いてから、この研究棟に囚われるまでの記憶がまるっきりない」
「………」
言われて初めて、その不自然さに気がついた──。
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