第6話 意図せぬ再会/忘れた恩
◇
光弾が頬を掠めた。
痺れるような痛み。凍えた敵意は背後より。私の心臓を握り、串刺しにする。
掠めた先の壁には拳大ほどの窪みができ、パラパラと破片が落ちた。
「───なぜ、あなたがここにいるの?」
濁りのない少女の声質。
そこに感情は窺えず、氷壁を彷彿とさせる響き。
慎重に背後を振り向く。
上へと至る階段の先。
薄い緑色の照明の下に、その黒い人影はいた。
黒い髪を流し、全身を漆黒のドレスで覆った可憐な少女。唯一晒された肌は顔くらいのもので、病的なまでに白い。細められた瞼の奥に見える蒼い瞳は妖しく輝き、切れ長の瞳から放たれる冷酷な殺意を以て、少女は私を釘付けにした。
肌つきの細やかな唇が開く。
「答えて。なぜこんなところにいるの?」
黒い少女は睨む。それこそ私が知りたい事を容赦なく問うてくる。いなければよかったのに、と殺意の中に悲哀を滲ませて凶器を向けてくる。
手には薄暗闇の中でも煌々と純白の
鋒を此方に真っ直ぐ向けて、それは今にも飛び出しそうだ。
「───君は、私の知り合いなのか……?」
少女の瞳が大きく見開かれた。
呆気に取られた顔。霧散する敵意。全身から力が抜けていく。
信じられない言葉、無神経な言い草を投げかけられたと言わんばかりに、彼女は表情に影を落とす。
「そう……。つくづく運がないんだね、ナナシさんは」
絞り出されたのはそんな憐れむ声。
すると黒い少女の肩が小刻みに震え出す。
嗚咽混じりに、彼女は震えている。
「お、おい。大丈夫──」
「……じゃあ、きっと逃げてる途中なんだ。ああ本当、嫌になるなぁ。──
こんな
「なっ───!」
───間近に迫る黒い少女は、確かに
その瞬間、細く鋭い風音が耳元を過る。
硬い岩を力任せに切断するような爆音と衝撃、無様に狭苦しい踊り場を転がる私。そして、咄嗟に立ち上がった勢いそのままに階段を跳び降りた。
即座に踊り場を見上げる。振りかぶった体勢のまま固まる黒い少女の後頭部が、手摺の隙間からわずかに窺えた。その先の壁に刻まれた切断の跡は、巨大なグリズリーの爪研ぎ跡のようだ。もし当たっていたら、この身は確実に両断されていたであろう。
「………」
背中に冷や汗が流れる。間一髪、斜めに凪払われた細剣を避けられた。だが奇跡的な
すると黒い少女は踊り出すように身を整え、こちらを振り向いた。
湛えた瞳は無表情。命令を遂行しようとする機械の顔。
だが彼女は故障したように、唐突にこんな事を口走った。
「───…鬼ごっこ」
「は…?」
「施設から脱出できたらあなたの勝ち、その前にあなたを殺せたら私の勝ち」
「………穏便に話し合いにて解決──引き分けとかは、ないのか?」
「───それは、ない」
その否定を皮切りに、黒い少女が猛スピードで距離を詰めてきた。
またも爆音と衝撃が私の背中を押す。
眼前の鉄扉を開け放ち、躓きながらも廊下に飛び出た。
チカチカと明滅する荒れた通路。散らばる破片。血溜まりに臥した見知らぬ誰か。
───気にしてなどいられない。
私はひた走る。薄暗い通路を進み、明確な脅威から逃げ出す。
カツン、カツン、カツン……。
靴音が暗黒に閉じつつある通路に反響する。
「───ッ」
這い上がる悪寒。咄嗟に身を捩るように左腕を跳ね上げると、そこを一筋の線と紛う光弾が走り抜けた。
音もない狙撃。
当たればおそらく一溜まりもない。
「やっぱり、あの時は死にたかっただけなのね……」
そんな要領の得ない言葉が通路のあらゆる表面を
──あの時とは、一体いつの事だろう。
おそらくは記憶を奪われる前の出来事。その時もまた、私は命の危機に瀕していたのだろうか。
──脊髄がぶるりと震える。
本能的に身を屈めると、今度はその上を光弾が突き抜けた。
「考えてる余裕なんて…ッ、ないな!」
「───あたりまえでしょう?」
耳元に囁き掛ける声と──生温い吐息。
その刹那、脇腹に衝撃が迸り、激痛は沈澱する。
「ぐぁ、っ……!」
真っ直ぐ向かいにある階段へ行きたかったのだが、その目論見は邪魔され、右に続く通路へ弾き飛ばされた。右に傾いた状態で床に投げ出され、急速に迫り来る彼女の顔へ咄嗟に握った瓦礫の破片を投げ飛ばした。
ガキン、と甲高い音が通路の奥まで響き渡る。
それは反射的につい取ってしまった行動に見えた。
細剣で破片を弾いた事により、彼女はほんの僅かな足止めを食らう。
コンマの隙。しかし仕切り直すのには十分な時間稼ぎ。
「──────ッ!」
私は後先考えずに四肢を弾き、身体全体を跳ね飛ばすようにスタートを切った。当然その直後の体勢は不安定極まりなかったが、しかしそれが幸いして背後より飛来する光弾が衣服を少し掠めるだけにとどまった。
──この階にはないんだ。更に下へ。もっと下へ。
階段を目指さなければならない。
すると急激に、背後より迫る重圧の密度が上がった。
右太腿を狙った第一射。
───左に跳ぶ事で回避。が、勢い余り壁に肩が接触し姿勢を崩しかける。
そこへ追撃するように腰部を狙った第二射。
───掌で壁を思い切り弾き、その勢いを利用する事で回避。しかし無傷に済まなかった。壁に着弾した際の発光と衝撃が身を襲い、辛うじて頭は守れたが、飛び散った破片により腕や脚に裂傷ができた。
未だ浮いた足。
閃光に眩んだ視界。
自由の利かない胴体。
すかさず肩峰を狙った第三射が飛来する。
必中必殺と感嘆せずにはいられない、空隙の弾丸。
「──────」
だが、怯んでなどいられない。
一秒の不能はそれだけで死に直結する……!
───壁を弾いた際に予め剥ぎ取っておいた大きめの壁の瓦礫を力任せに放り投げた。やはりそれでは相殺し切れず瓦礫は粉々と砕け散ってしまうが、微かに逸れた軌道と捻出したごく僅かな遅延を縫って苦し紛れに躱す。
「……ッ」
光弾はこめかみを削っていき、左の視界が赤く染まる。
更に牽制として、余った礫を薙ぐように投擲した。
通路の奥。逆袈裟斬りの軌跡に細剣が煌めく。
思いの外離れた距離に安堵の息を吐きそうになるが、黒い少女の周囲にいくつかの光弾がぼやぼやと浮かび上がる光景を垣間見て、すぐさま認識を改めた。
手加減されている。未だ遊びの範疇を超えていないのだ、と──。
そうして、一分も脚を止める事なく、再び彼女に背を向け走り去った。
「──逃げる事も、ままならないな……!」
これでは階段を見つけるどころの話ではない。
狙いは乱雑に。しかし選択肢は的確に潰されていく。
通路を曲がろうとすれば足元を狂わされ、
一旦部屋に逃げ込もうとすればそれも阻まれ、続く二射目により離される。
そんな事を数度に渡り繰り返す内に、とうとう通路の端に突き当たってしまった。
ネズミ色の袋小路。
私は必死になり辺りを見回す。だが活路は見出せず、左右に扉が一つずつあるのみ。左は道中に何度も見かけた白いスライドドアで、右は頑丈そうな鈍色の鉄扉。逃げ道など引き返す他にない。獲物はまんまと掌を這いずって追い込まれた。
カツン、カツン、カツン…。
クスクスと笑う声。愛玩弄ぶ、高慢で余裕の表れ。
駄目で元々、鉄扉を打ち破り中に逃げ込もうとする。
「───あはは、ただの悪足掻き」
テンションのタガが外れたように彼女は笑う。もう終わりなのにまだまだ楽しませてくれるの、と燥ぎ回る子どものようにカタカタと靴を踏み鳴らす。逃げ惑う最中に黒い少女の嗜虐心を煽り過ぎてしまったのか、元来そういう性質の持ち主だったのか。
部屋に入り込む直前、遠くより少女が光弾を爪弾くと、背中のぎりぎりを横切っていった。
──全く以て末恐ろしい。弾切れはないのか、あれに……!
ツンと刺激臭を漂わす閉め切られた闇。
薄闇に慣れた目が部屋の全貌を露わにする。
しっかりとした木棚と厳重な銀色の保管庫。おそらく薬品棚だろう。細長い無雑の作業台。用途不明の仰々しい機械。身を潜められるような場所は見つからない。いや、仮に潜められたとして、結局はあの光弾に悉くを薙ぎ払われるだけだろう。
指向を変える。もう逃げるのはやめにしよう。
「埒が開かない……。私には時間がないというのに」
いつまでも構っていては、微弱な引力が彼方に遠退いてしまう。それだけは防がなくてはならない。この繋がりが、取り戻せるその瞬間まで保たれるという保証は微塵もないのだから。
薬品棚に目を向ける。瓶のラベルには、私にはよくわからない言語が綴られている。察するに薬品の名前だろう。片言で読める字もいくつか散見できるが、子どもの空見と何も変わらない。
───足音が、徐々に距離を縮めてくる。
焦らすように。舐めずるように。飴玉を転がすように。
時間がない。二つの
薬毒。現状の袋小路を引っ繰り返せるかもしれない道具が目の前にあるというのに。私には致命的に“知識”が欠けていた。
──取れる方法は一つだろう。
内から見知らぬ他人のような己の声が囁く。
原始的手段。効果を見分けるには味見が必要だ。
「馬鹿が……! そんなことをすれば──」
命を落とす。運が悪ければ即お陀仏。それでは本末転倒だ。堂に入った愚者でもそれなりの道理を弁えているように、そんな馬鹿な真似には走らないだろう。
やるとしたら、液体薬品を手当たり次第にぶち撒ける事くらいだ。
けれどそれでは駄目だ。私は彼女に傷を遺したい訳ではないのだから。
どれだけ彼女に命を奪われかけようと、どうしても排除すべき外敵とは見做せなかった。
──ならば天秤を持ち出すとしよう。二つに一つだ。このまま死を待つか、命を賭けて未来を望むか。
吊り合わない。自ら死に向かえと
破綻した
そも前提からして踏み外した覚醒。
真っ当に危機を乗り越えて見せようなどと笑わせる。
「───」
ひとつだけ粗雑に仕舞われた薬瓶を手に取る。
錠剤を一粒だけ口に含み噛み砕く。そして飲み下した。
───脳が、揺さぶられる。
意識が白濁する。糸の纏まりが粉となり解れる。
急速に筋肉が弛緩し、直接抜き取られたかのように腰から力が抜け、足元は裏返すように泥濘んでいく。
あまりの気怠さから台に手をついた。
……とても、立ってなんていられない。
効き目は期待以上。さらにもう一粒を口に含む。
靴の反響がぐわんぐわんに震えながら、頭蓋骨の内側を縦横無尽に回る回る。
扉の縁にその浮き足立った音が辿り着いた途端、一瞬ばかり世界から音が無くなったように思えた。
「───…気でも狂った?」
冷ややかな問い。侮蔑と失望の込められた視線。
部屋と廊下の境界に立ち尽くす人影。明滅する廊下の照明はその影によって遮られ、明暗はくっきりと別れた。
油断している。愚者がとうとう自らの首を掻っ切ったと勘違いしている。
息絶え絶えに私は言葉を吐く。
「───自我が…希薄な人間を、君は…正気だと……思うか?」
少女の蒼い瞳が、その鮮やかな色に倣うよう悲哀に染まる。
手に持った瓶を後方の床に投げ打って、ふらついた足取りで彼女に歩み寄る。
──善意に付け込むようで悪いとは思う。しかし引き分けの条件がないというのなら、こちらから作り出す他にあるまい。
きっと、これは彼女にとって想定外の行為だっただろう。
倒れ込もうとする私を、彼女は心優しく受け止めようとし──。
「っ───ぁ⁉︎」
その隙を突いて、私は少女の唇を塞いだ。
カラン、と軽い音を立てて細剣が滑り落ちる。
突然の事態に錯乱し、抵抗しようと胸板を烈しく叩き踠く少女。構わず口内に舌を這入り込ませ、舌同士を絡ませながら溶け出した錠剤を流し込む。
衣服を切なく掴み上げる指。
次第に熱を帯びていく接触。
苦しくなる息に喘ぎ、過剰分泌する唾液と共に喉は勝手に錠剤を嚥下してしまうだろう。
途端に彼女の身体から力が抜けていった。急激な弛緩により腰を抜かしてしまう。身体を支えることもままならなくなり、二人して床へ縺れ合うように倒れ込んだ。
膝元がしめやかに濡れる感覚。
恍惚とした精神に表情を崩し垂らす黒い少女。
私は身体の機能を取り戻しながら、床に手をつきゆっくりと立ち上がった。
服で口元を拭い、通路の奥を見据える。
微弱な引力はまだ近場に感じ取れている。
すぐさまそこへ向かいたいところなのだが……。
「………」
通路の床に弛緩し切った少女を見遣る。
気絶してしまったようで、瞼は深く閉じられている。
放置していくのは流石に気が引けた。元より得体の知れない薬物を飲ませてしまったのだ。こうして無事に復帰できたとはいえ、彼女も同じように済む保証など当然どこにもない。少なくとも私にはわからない。
抜き身の細剣を腰に下げられた鞘にしまい、彼女を両腕で抱え上げた。
「……驚くほどに軽い」
まるで重さを知らない羽根のようだ。
けれども彼女には微かであれど息があり、温もりもある。
「よかった」
とりあえず、死なせずには済んだらしい。
そうして、彼女との鬼ごっこはひとまずの引き分けに落ち着き、私は今度こそ階下を目指すため走り出した。
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