第5話 異物は取り除かれて

 裏路地のゴミ捨て場に身を潜める。

 焦げついた右肩を庇い、しばらく息を殺した。

 僅かばかり顔を出して周囲を見回す。

 追手が迫ってくる様子はない。

 そんな状況下においても、繁華街の気楽で陽気なざわめきが、すぐそばに聞こえてくる。

 ネオンらしき加減を知らない光が、裏路地の入り口辺りを漂っていた。そこを多くの人影が横切り、何度も点滅を繰り返した。

 自重に垂れてきそうな曇天の夜。

 陽はとうに傾き、いつかの途方もなさを想起させる。

 自暴自棄に薄汚れて粒々とした硬い地面に座り込む。

 破れそうもない壁に背を預けて、決して拭えそうもない棒状の空を仰ぎ、私はそう遠くない過去を口にした。

「……雨の匂いが、濃くなってきた」

 これより雨が降る。

 きっと長く続く、凍える雨が──。

 

 遠い空の下で、劈くように赫い爆発が起きた。

 

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 セルフィと旅を始めてから、四日ほどが経過した。

 

        ◇

 

 華やかな噴水広場。夕空の下に未だ飛び交う子どもの声。各々の技を競い合うパフォーマー。その一人の頭上で虹色の光弾が弾けた。太い木々に覆われたその奥には、聞き慣れない振動の響き。数多の車輪の通り過ぎる音が聴こえてくる。

 背後にはプラットホームがあり、見上げる先には凹凸の多いビルが並ぶ。

 ここは灰色の建造物にぐるりと囲まれた区画。

 イニカリアとはまた種類の違う活気が広がる。

 あまりにも栄えた“都市”、その中心に私達はいた。

「十年ほど前でしょうか。隔世層の発見による技術革新によって、この街とその周りばかりが急激に発展し、都市と呼ばれる新たな基準を生み出しました。列車の線路拡大もその影響の一つ、あれも一年前にようやく開通できた代物なのです」

 その大陸を横断する列車は、つい先程次の駅へと去っていった。次の列車がやってくるのはまた二日か三日後だろう。

 元々は山岳地帯だったようですが、もはや見る影もありませんね──と、隣を歩くセルフィが周囲を見回しながら微笑む。

「技術の交流と研究を重きに置いた都市──コズモメヌトーレ世界は深遠なり。命名は現象の名前より頂いたとお聞きしましたが、そういえばまだその資料を詳しく拝見した事はありませんでしたね。これもいい機会です。ストラも一緒に学んでいきませんか? もしかしたら、記憶喪失に関する論文も閲覧出来るかもしれませんし」

「私は……」


 ──この断続する砂嵐は、なんだろうか。


 先程から頭痛のような齟齬感が私を取り巻いている。


 一陣の風に追突されたように、眩暈がした……。


 色褪せた景色、水平線を引く荒野が置き換わり重なっては、忽然と姿を消す。暗闇だ。それは境界に思えた。時間軸と空間軸、その二つが生じさせる摩擦の間に揉まれて、薄く薄く挟み潰し通され、現在に投げ出された──。


 ………風が、吹いた。

 窮屈に阻まれ、仕方なく流れてきたような風が細々と頬を撫でる。

 ふと視線を感じて目線を僅かに下げると、セルフィが心配そうに私の顔を覗き込んでいた。

「どうかしました? もしや具合でも悪く?」

「───……いや、大丈夫だ。セルフィはこの街の地理には詳しいのか?」

「土地鑑はまったくです」すると空いている左の人差し指で自分の頭をつつく。「ですが地図くらいなら頭の中にあります」

「ならセルフィに着いていくよ」

「はい! それではまず宿の方に向かいましょうか」

 セルフィの先導の下、宿泊施設を目指した。

 

 陽はすっかり落ち、歩道路際に設置された街灯が一斉に灯り始めた。それはよく見るとガス状の発光体であり、透明なガラス箱の中に封じ込めているようである。

 夜でありながら、真昼のように通路は明るくなった。

 人通りも多い。私達とは反対方向へ向かう人々が一度たりとも途絶える事がないほどに。けれども、そこはかとない寂しさが周囲に幕を張って私の後を着いてくるのだ。


 いつの間にか、楽しげなざわめきは途切れていた──。


 ここに来てようやく、いつだかに評してくれたパベルの言葉を理解する。

 ──今日も普通に生きようという顔は、ああいう事を云うのかと。

 笑顔がない。そこには充実した退屈があるだけだ。十分に観察しようとしない限り、印象に残らない表情ばかりが横を通り過ぎていく。そこに種族としての違いなど全く関係がなく、だからこそ、その後ろ姿が印象的だった。肩を弾ませて前方を行くセルフィの姿が、私にはやけに輝いて目に焼き付いた。

 しかし、そうなると。

「パベルには、私が退屈そうに見えたのか……」

 今更ながら不本意だ。退屈に思えた事など、未だに一人風景を眺めていた列車の中だけだというのに。

「───退屈の言い換えは不鮮明だと、私は思います」

 突然、セルフィがそんな事を呟いた。

「誰しも道に迷います。霧がかって見えなくなる事も。行き先がわからなくなって、何も出来なくなってしまう時があるものです。パベルという方がどういう方か私は存じませんが、その方にはストラが“普通の”道に迷っている人に映ったのかもしれません。何をしたら良いのか、そう普通の人並みに悩んでいるように見えたのでしょう。少なくとも私はそうでした」

「道に迷う人……。確かにそうだ。今は案内されているからいいが、私は何をすべきか迷ってばかりだ」

 旅をしようと決められたのも、パベルの後押しことばがあってこそだった。

 あの街──イニカリアに辿り着けた事さえも、ティアレナに出会えて道先ことばを与えられたからだった。

 おそらくは、今後もそう在り続けるのかもしれない。

 本当の名前を──欠けた記憶を取り戻せない限りは。

「セルフィも、やはり道に迷う事があるのか?」

「ええ、ありますよ。現に今がそうです」

「──────は?」

 思わず素っ頓狂な声が漏れ出した。

「机上と実際は、どうもそりが合わないご様子で……」

 どうしましょう、とセルフィは困ったように言った。

 その後一時間弱ほど彷徨い歩き、諦めて来た道を引き返し反対の方向にも向かってみると、すぐに目的であった宿泊施設──いわゆるビジネスホテルにたどり着いた。

 その頃にはもう学ぶ調べるどうこうの話は次の日にしようという事になっていた。


 一つの事実として。

 セルフィは方向音痴だった。以前、あの医者の下に辿り着けたのは、一種の奇跡だったのではないかと思えた。

 

      ◇

 

 部屋を出て、ベージュ主体の細い廊下を進む。

 セルフィは浴場に向かい、今は私一人だけであった。

 等間隔に続く個室の扉。それらは独房の如く淡々と列を成し、角を曲がった先も変わらぬ景色が続くのだろう。ロックの方法はカードキー、恐ろしいほどの先端技術ハイテクに、私は違う世界に迷い込んだような錯覚に陥っていた。いや、それはこの都市にやってきた時からそうだった。……あるいはそれは、この世界で初めて目を覚ました時からすでに。

 扉と同じく紺色の絨毯は足音一つ響かせない。


 ──食い違っている。


 だが具体的に何処がと問われても、私には答えようがなかった。直感だ。それ以上でも以下でもなく。例えようもない異物感に脳神経が警告を訴え続けている。


 ──確かめないといけない。


 このホテルの上階には展望があるらしい。一部であれ、この都市を高い場所から眺めたかった。これが単なる私の勘違い、思い違いであるのならば、その齟齬を少しでも修正しなければならない。

 なにしろ落ち着かない。しっかり歩けてはいるものの、どうにも地に足が着いていないのだ。これでは初日のやり直しも同然だ。ぞっとしない話だった。

 ───聞いた話によると、この都市に発電施設はないらしい。いや、そもそもとして、この世界にそういう発電の概念はまだ存在しない。登場していない・・・・・・・。生み出すべきエネルギーは電気などではないのだ。それさえも生成、変換できる源が他に存在するのだから。


 ──食い違っている。私の持つ知識と。


 そこで一つのピースが、かちりと嵌まった気がした。そうだ、異物は知識だ。私の持つ知識が齟齬を引き起こし、私をこの世界から疎外させている。

 懐疑はまた違う座標に発生した。

 卵が先か、鶏が先か。

 思い出したのはそんな哲学の問題だった。

 最初に知識を持っていて、その後に記憶を失ったのか。

 最初に記憶を失くして、その後知識を植え付けられたのか。

「その疑問提起は、果たして正しいかい、私……?」

 わからない。解らない。

 目に馴染まない白光が開いた自動ドアの先より、上へ上へと私を誘いにやってきた。

 エレベーターに乗り込む。

 その際、どことなく慣れた足取りで、微かな隙間の空いた境界部を踏んだ。薄い板を何枚と貼り付けたような繋ぎ目が今にもジェンガのように抜けて落下しそうな心許なさは、今の私の心理をこれ以上ないほどに突きつけてきた。

 扉が閉まり、徐々に加速をつけて鉄の箱は上昇していく。

 七秒ほどの空白を経て、展望カフェに着いた。

 ──徐々に開く鉄のドアの隙間から、眠たげな音楽に浸かっていく。

 厳かに静かなドーム。仄暗く蒼い照明。圧倒的に解放された憩いの場。その象徴たる一面の透明は端から端まで。夜景の輝きは人工的で冷ややかに、真向かいは狭苦しく塞がれている。

 存在意義がまるでわからない段差を登り、巨大に開いた怪物の口じみた窓まで近寄る。すると私は食道を遡って舌の上までやってきたのだろう。吐き出してはダメだとそう謳う窓が無ければ、私は吐瀉物となって地面と追突していたのだろうか。そんなふざけた考えまで浮かんでしまう。


 ──魔が差すとはこういう事。死ぬつもりは毛頭なかったというのに、束の間に死を連想させて、無意識のうちにのめり込んだ。


 見下ろすばかりでなく、向かいのビルに視線を遣ると、ふとガラスの反射に映るモノがあった。私の隣には知らず間に、凛と堅固な眼差しを湛えた美しい男が立っていた。

「───君がリヴァジストラという青年か……」

「はい、そうです」私は頷いた。

「話は聞いている。記憶がない、けれど知識はあると。本当に望むのかね。私に知識の扉を覗かせる事を」

「その口振りでは、そこに何か不都合でもあるのでしょうか?」

「あるとも。君の記憶喪失は原因不明だと聞かされている。その上でエピソードだけが都合良く消されていると。もし私が君の知識の扉を開け放てば、そこに残る知識さえも幻想として泡に還ってしまうかもしれない。そういうリスクの話だ」

「………」

 私はガラスに映る己の顔を見据えた。

「諦めるつもりはないようだね。いいだろう。明日、今度はここに来たまえ」一枚のメモ用紙を手渡される。そこにはこの都市内にあると思われる住所が書かれてあった。「哀れな青年よ、心しておきたまえ。これはもはや修復に向かう治療ではなく、可能性を狭める証明への一歩だということを」

 そう言い残して、背筋を直立に伸ばした耳長の男は去っていった。

 

       ◇

 

「今日はすみませんでした」

「いや、私も悪かった。まさかあんなにも入り組んでいるとは思わなかった……」

 食事を終え、風呂も済まし終えた夜の一室。

 あまり広くはない部屋だが、特別窮屈というわけでもなかった。イニカリアで寝泊まりしていた宿よりはむしろ広いのかもしれない。設置された二つのベッドが移動の幅を狭めているに過ぎない。

 それぞれのベッドに腰を下ろし、互いに向き合いながら話す。

「ですね」とセルフィが口に手を当て笑う。「堅苦しい所ばかりだと思っていたのですが、趣向を加えたのでしょうね。あんなにも賑やかな通りがあるとは私も知りませんでした」

「……それは知識としても?」

「そう…ですね。はい、知りもしない世界でした。雰囲気が似通った街はいくつか知っているつもりでしたが、ああいう様式のものは初めて目にしました。あんなにもふんだんに光を用い通りを昼に染め上げてしまうなんて、流石は発展した都市という感想です」

 セルフィは興奮冷めやらぬといった風に、楽しくてしょがないと笑みを溢した。それもそうだろう。この都市は、この世界に本来なかったはずの物で溢れている。

「ストラはどうでしたか?」

「私は……。どうだろうか。都市そのものよりも、君とこの都市を練り歩けた事の方に意識が行きがちだったかもしれない」

「恥ずかしいような台詞を平然と口にしますね、本当に……」

 仄かながらに頬を染めてセルフィは呆れていた。

 そこからは明日の予定の話へと移り変わり、最終的にそれぞれ単独で行動する事となった。

 セルフィは図書館に、私は医師の紹介通りに。

 会話を惜しみつつも部屋を消灯し、私は気絶するように意識も闇に落とした。

 

      /

 

 気がつくと、無機質な通路を浮いていた。

 前後不覚の意識。目も眩む照明。檻の中に閉じ込められた私。それは比喩。ピクリと動きもしない身体をぼんやり眺めて、私は白衣を来た人物に手を引かれていく。

 純白の部屋に通される───。

 手術台のような、あるいは祭壇のような台の上に寝かされて、すると水の中で反響するように濁った声が聞こえた。

 ぐわんぐわんに揺れて、まるで深海に潜む怪物みたいだ。

「良─研……料、をよこ…──てくれ…」

 あまりにも嬉しそうに響くモノだから、私もつい嬉しくなって笑ってしまった。

 

 ───ぷつりと、糸が切れる。


 それは意識を繋ぐ糸。身体と心を調律する器官が遮断される感覚。電源と回路の間に絶縁体を挟まれ隔離されたようなものだ。けれど当然私はそれを自覚する事が出来ないはずなので、不安や恐れ、猜疑とかそういう心の働きも忘却して、深い水底に沈んでいった……。

 

      /

 

 ───騒ぎが聴こえる。


 慌てる声。悲鳴。噴出する怒号。方向性を見失った憤り。

 いずれにせよ、碌でもない音声が起きたばかりの鼓膜に押し寄せてくる。

 そうして、私は意識を取り戻した。

「どいつもこいつも、そんなに白が好きか……」

 白から染まっていく過程が好きだと言ってくれたのは、果たして誰だったか。

 轟く音色はどれもこれも赤だったり黒だったり灰だったりするが、私を仕舞うこのキューブは漏れなく純白で構成されていた。

「帰らなければ……」

 ──一体何処へ?

「戻らなければ……」

 ──どのような動機を以て?

「知るか、そんなもの」

 覚束ない感覚に台の上から転げ落ち、痛みに堪えながら地べたを這いずり立ち上がる。

 私は虚空うつろだった。

 亡骸同然の人間だった。

 それでも、目を覚ましてしまったからには。

「……霞の奥に、少しでも光が残っているのなら」

 手を伸ばさなければ──。

 感じている。見えている。掴んでいる。

 ──ほつれかけた、微弱な引力を。

 感覚があるのだ。“扉”を剥ぎ取られた喪失が。

「それが今、私のすぐ近くにある」

 ───取り戻さなければならない。


 視界のふとした違和感に、引き摺る足が止まる。

 出入り口側の塵箱に自然と視線が吸い寄せられた。

「これは……」

 白の中に染み出す黒。白糸を輪郭とするように、黒く綺麗な花が刺繍された小さなポーチ。花の名前は思い出せない。けれど、それにはとても大切な響きが篭っていたような……。

「………」

 それを塵箱から拾い上げる。

 決して落としてしまわないように、懐に仕舞い込んだ。

 きっと、これは私の持ち物ではない。

 それでも。放っておく事は出来なかった。


 ──返して、やらないといけない。


 そんな漠然とした目的おもいを胸に抱き、今度こそ屍の心は行動を開始する。

 キューブを抜け出して、アラートが赤く明滅する廊下を進み、私は下を目指した。

 誘蛾灯に惹き寄せられる蟲のように、ふらふらと。

 喧騒の気配を時にやり過ごし、ひたすら階段を落ちていった。

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