第4話 含まれた示唆

 

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 駅へ降り立つまでの間に、このような会話があった。

「私は世界を知りません。正確に言うなら、世界の隅々をきちんと自分の目で捉えた事がないのです。ずっと屋敷の狭い内側に、淡々と知識だけを蓄え続けてきましたので。──するとある時、急に渇きを覚えたのです。この空洞にいるだけでは、ただただ私は萎びていくだけだと。だから私は、家を飛び出しました」

「渇き……」

「はい。他の人にはきっと贅沢な悩みとしか捉えてもらえないでしょうが、私にはうやむやに抱えようもない衝動でした」

「それが、君の旅の理由か」

「笑いますか? 我が儘な子どもの反抗期と」

「笑わないとも。笑えないさ。知らず内に記憶を失くしている私の方こそ、間抜けなヤツだと指をさされて然るべきなのだから。なにしろセルフィのそれは、どうにかしたいと思って当然の苦しみだ。私の方は……ほら、余程のバカをやらかさない限りこうはならない」

「ふふ、自虐的なんですね」

「そういう訳ではない。おそらくそうなのだろうという、漠然とした罪の意識があるんだ」

 するとセルフィが小首を傾げて反芻した。

「漠然とした、罪の意識…ですか?」

「そうだとも。その罪を被った理由が、きっと“誰か”に会いたいと願った私の衝動だ。記憶を失くしたのがその罰だと云うのなら、私は真っ向からそれに歯向かう」

 私はセルフィの綺麗な翠の瞳を見つめる。

「私にも渇きが──飢えがあるんだ。それに黙っていられなくて旅に出た。つまるところ、私もセルフィと同じなのだと思う」

 呆然としばらくの間を空けてから、

「ふふ、なんだか少しだけ、報われたような気がします。私よりも愚かな方がこの世にはいたみたいですので」

「結構酷い言い草だな、それ……」

「でも事実でしょう? 記憶喪失はお医者様に診てもらい、誰かに会いたいという願いは治った後に叶えればいい事です。治らなかったら治らなかったらで諦める物でしょう。しかし貴方はそんな根拠もない意識──曖昧な執念だけで、明確な障害を克服しようと宣うのですから、愚か以外の何物でもないじゃないですか」

 何も言い返せなかった。セルフィの言う通りだったからだ。

「そういえば記憶喪失の事、お医者様には診て貰ったんですか?」

「生憎まだだ。私がいた街には、そういう事に詳しい医者がいなかったんだ」

「ならまずはお医者様の所に向かいましょう。……私てっきりお医者様に診てもらってダメだったから旅をする事にと思っていたのですけど。まさかそんな前提すらクリアしていなかったなんて──」

 セルフィの私を見る目が怪人を眺めるそれに変わった。


 斯様なわけで、最初の目的地はなし崩し的に記憶喪失という事例に詳しい医者の下に決まったのだった。

 

       ◇


 太陽と思しき恒星が真上にある。

 私はその輝きようを、カフェテラスの強風が吹けば飛ばされてしまいそうな屋根の下からぼんやりと眺めていた。

 小規模な町の一角。

 中心部の近くにありながら、町全体が一斉に昼寝をしているかのように静まり返っている。軒を連ねる店舗や家々が見るからに人の手が入っていないように朽ちていれば、ゴーストタウンとでも勘違いしていただろう。実際、老爺の店員に快く迎えられた今でも、私は少し疑い掛かっている。

 イニカリアとはまるで正反対だ。

 あそこが非日常犇めき合う不夜城とすれば、ここは平穏な日常がひっそりと身を寄せ合う村社会。開放的でありながら、どこか閉鎖的な雰囲気が漂っていた。

「医者の目処はついているのか? 何度も言うように、私には記憶がないから、現状頼れる相手は君だけだ」

 そこまで考えなしではありません、とセルフィが不服げに口を尖らせた。

「もちろん目処は立ってます。いくら私でも、闇雲に列車を降りたりはしませんよ。少なくとも二日は待たないといけなくなるんですから」


       ◇

 

「すまなかったね。僕では君たちの力になれなかった」

 丸渕眼鏡を掛けた白髪の御老人がかちゃりとテーブルに二人分の茶を置く。そして手に自分用のカップを持ち、対面の一人用のソファに腰を下ろした。

 老人は湯気が立つそれを穏やかな瞳で揺らす。

「ストラ君。君のそれは単なる外的要因による記憶の損失ではないと思う。まず第一に君の頭部に外傷痕はほぼほぼ見られなかった。第二に質疑応答にも問題はなかった。第三に君の“記憶の扉”に干渉された形跡がなかった。つまり君の記憶体は健康そのものなんだ。この第三の理由が不可解そのものでね、君にはこの十日間以前の記憶がさっぱりないんだよ・・・・・・・・・。真っ暗だ」

 御老人は結局カップに口をつける事なくテーブルに置き、遣る瀬無く無気力に首を横に振った。

「お手上げだね。僕では本当にどうしようもない」

「そう、ですか……」

 なんとなく予想していたとはいえ、そこまで言われると流石に気が滅入った。

「ただ、思い当たる節が全くない訳ではない」

「……それは、どういう──?」

「───君は隔世層を知ってるかい?」

 するとすかさず、私の代わりにセルフィが答えた。

「世界と世界を隔てる透明な膜、ですよね」

「そうだ。よくご存じだ。それを通過したあらゆる物体は、どういう原理による物かは今現在解明されてないが、性質の変化を余儀なくされるらしいんだ。中には例外もある。水なんかは特に変化はなかったようだ。そこに人を通過させた場合、果たしてどうなるのだろうね。きちんと記憶を保持した状態で世界を渡れるのだろうか」

「すると先生はこう仰りたいんですか。ストラは此処とは異なる世界から渡ってきた存在です、と……」

「完全に決まった訳ではないよ。あくまで可能性の一つとして捉えてもらいたい」


 異なる世界から渡ってきた──。


 有り得る話だろうか。有り得ない、とはやはり断言できない。それは悪魔の証明だ。ないモノをないと証明したいのなら、世界中──宇宙中を隈なく探し回る必要がある。今回なら私の記憶全てが必要だ。

「君は知識に関する記憶は問題ないと言ったね。僕が閲覧できる記憶の扉はエピソードだけで、知識の扉の方は覗けない。僕の友人に知識の扉を覗ける者がいるから、君たちが望むなら取り次いであげるけど、どうする?」

「ストラ、どうしますか?」

 二人は示し合わせたように揃って私に訊いてくる。

 意思を問うてくる。

 君は本当にこの先を進みたいのかい、知りたいのかい、望むのかい──と。

「………」

 私がもし世界を超えて渡るなら、どんな理由だろうかと推し量ってみた。

 答えは考えるまでもない。悲劇を憂うまでもなかった。

 結論はとうの昔に出ている。

「───お願いします」

 白髪の御老人が破顔して頷いた。

「よろしい。なら少しばかりここで待っていなさい」

 御老人は腰を痛めないようゆっくりと立ち上がり、居間の扉を開けてその奥に隠れていった。


 曇り空の仄かな明かりが入り込んだ居間に、私とセルフィだけが残される。

 隣に座るセルフィが力を抜くように息を吐いた。

「ストラが異なる世界から渡ってきた存在、ですかぁ……。そこはちょっと想像もつきませんでした」

「それは私の台詞だ……」

 セルフィが微かに肩を鳴らして笑った。

「やはり実感はありませんか?」

「むしろある方がどうかしてる。こっちは記憶がないのだから」

 それに先の御老人が言ったように、まだ完全に決まった訳ではない。結論を出すには早急が過ぎるというものだろう。

「そうでしょうね。……隔世層を通ると物体の性質が変化する。それが実際その通りだと云うのなら、ストラは記憶以外に一体何処が変わったのでしょう?」

「───さあ、私自身まったく見当もつかない」

 思い当たる節はなくもなかったが、おそらく関係はないだろう。

 それは今も時間を掛けて薄れつつある感覚。


 皮膚と肉の間に、一枚の壁を隔てている──。


 自分の身体が未だに自分の物とは思えない。常日頃から感覚が遅れてばかりだ。けれどこれは単に記憶喪失による自我の薄弱が原因かもしれない。

 ようするに精神面の問題だ。仮に世界を超えたが故の変化だとしても、それは付属の副作用に過ぎない。

 そうこう考えているうちに、御老人が戻ってきた。

「待たせてすまなかった。約束は無事取り付けられたよ。いつでも構わないそうだ。僕の友人は今コズモメヌトーレにいるみたいでね、新しくできた列車を使えば直接向かえる。焦る必要はない、出発は明日にして、今日はここに泊まっていくといい」

 私はソファから腰を上げ、御老人に頭を下げた。

「何から何まで……。ありがとうございます」

「構わないさ。君は一応僕の患者でもあるんだからね」

 そうして、私たちは厚意により、御老人の家に一晩泊まらせてもらうこととなった。

 

 その晩。

 私は二階のテラスに出て、森の景色を眺めた。

 少し離れた所には湖が窺えて、ちょうど輪郭をぼやかしながら青白い月を写し取っている。

 ぎしぎしと足音を立てて、背後から誰かがやってきた。

 腰の重そうな音から察するに御老人だろう。

「十日間ほどの、君の記憶を見させてもらったがね」

 欄干に手を乗せて、御老人は空高い月を見上げる。

「ある時の君の身体能力は、人の枠を容易に超えていた。一時間以上にも及ぶ獣じみた全力疾走、規格外の探知能力と反射神経。最初は驚きの連続だったが、特に驚いたのは君が街に着いた頃。──君は適応に長けた生き物だ。イニカリアにいた頃の君は他の者たちと溶け込んでいた。驚異的な身体能力は完全になりを潜めてね……」

 御老人が私の顔を切実に見つめた。

「所感で構わない。記憶を失う以前の君と今そこにいる君とで、そこに明確なズレがあるように思えるかい?」

 私は曖昧な問いかけに戸惑いながら、力なく微笑む。

「私はあなたが何を望んでいるのか知りもしないが、きっとがっかりさせる事でしょう」

「……そうかい。ああ、そうだったね」

 最後にすまないと告げて、御老人は中に戻っていった。

 

      ◇

 

 無事一晩が過ぎ、私は今日も今日とて列車に揺られる。

「昨夜、考えた事なのだが……」

「はい?」

 私の何気ない唐突な呟きに、対面に座るセルフィが首を傾げた。

「……もし私が此処とはまた異なる世界から渡ってきたのなら、私はきっと世界に疎外されているのだと思う」

 未だ馴染み切れない身体の感覚がそうであるように。

 ───オマエは、この世界の異物だ───

 この意識だけは、一向に薄れる気配がなかった。

「……どこまでも自己矛盾じみている」

 許せないのだ。この世界でのうのう生きている己が。そしてその度に失った記憶の代わりとして、ティアレナやパベルの事を思い返し続けるのだ。この世界には、自分という存在を繋いでくれた者がいるのだと。

「──それはおそらく、ストラ自身の意思でもあるでしょう」セルフィが慈愛を込めるように、私の視界を塞いだ。「認めたくないのだと思います。恐れているのだと思います。今ある自分が、過去の自分を塗り潰してしまわないか。本当に過去の物となってしまうことが。記憶を取り戻せず、今ある僅かな繋がりに満足してしまうことを……」

「────」

 それこそが、日々積み重なる飢えと渇き──恐怖の本質だった。

 過去が全くの筒抜けである私では、現在を享受する事は出来ないと。だからかこを埋めようと必死になって、今ある自分に牙を立てた。礎となれ。記憶を取り戻すための礎に……。今の私は、本来産まれるはずもなかった異物なのだから──。

「ストラは、ひどく臆病な人なんですね」

「……ああ、知っている。よく知っている」

 情報量に乏しい自分の事だ。どうしても自覚せずにいられないのだ。悪い部分など特にそうだろう。目について仕方がない。

「自己の否定。存在の否定。ストラの純白性は、その上に成り立っています。記憶への執着と渇望はひとえに、今ある自分が不鮮明に思えるからでしょう。純白である事を不鮮明とするその感性は、少し興味深いところでもありますが」

「……それが、私の抱える精神面の問題かい。あの先生の入れ知恵だろう、それ」

「───バレてしまいましたか……」

 セルフィが私の頭を離し、ふにゃりとよくわからない笑みを浮かべた。

「ストラが弱音を吐くような事をしたらそうしなさいと助言されまして、逆効果でした?」

「──むず痒い。少なくとも私のような者にする事ではないだろう。泣きじゃくる子どもじゃないんだから」

「生きた日数は子どもより少ないというのにですか?」

「ぐ……痛いところを突いてくる。しかしこういうのは年月の積み重ねではなく、知性で判断してもらいたい。私の知性は子供のそれよりは発達しているはずだ」

「果たして本当にそうでしょうか?」

「おいおい……」

 揶揄うように肩を弾ませて微笑むセルフィ。

 私はきっと、何とも言い難い表情を浮かべていただろう。

 快晴の空。浮かぶ白い雲に森の影。

 そうやって、列車は私達を乗せて線路を直走る。

 次の目的地を目指して──。

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