第3話 灰渓花のように

 宿主に出された頼んでもない水をちびちび飲む。

「やはりこの街って観光街なのか?」

 と、私は何気なくパベルに訊ねた。

 パベルは、今日は『前世の私は愚かでした』と何やら陰鬱な文章が印刷されたTシャツを着ている。

 バミールという名の紅い酒が入ったグラスから口を離し、パベルが陽気に口を開く。


「ああ、そうさなぁ。昔はそれなりに大きな関所の一つだったらしいが、今では街の大半がそうだなぁ。ここは立地や気候の都合上人の出入りが激しい。なんで遠方からやってきた商人やら小物売りやらが商売には都合がいいと居座っちまった。後はそいつらに便乗するように他の奴らも出店やら何やらを出し始めて、関所の役員が手を出す頃にゃ規模が途端に膨れ上がっていた。するとそこに小規模な共同体が生まれ、軽く布を張った程度の宿屋なんかも増え始めて、物見遊山に栄えてこの観光市場──イニカリア人に吠えよの出来あがりよ」


 あ、と気付いた時には既に遅く、酒飲み特有の長話が始まってしまっていた。

 一息ついて、パベルはまた酒を仰いだ。


「残りはこういうスラム街だ。物目立てでなく、人やそいつらがもたらす仕事を求めて流れ着いた浮浪者の集いだ。あっちで盛えた観光街を花弁と呼ぶのなら、俺たちゃその陰下で身を寄せ合って集る小さな虫ってな」


 パベルは嫌味を込めるように歯を剥き出しに笑みを噛み殺した。それでも喉は吐き出すようにわらっていた。


「商人の顔ぶれは今更増えも消えもしないが、浮浪者は増えてはまた消えていく。俺もいずれ、そう遠くない内にこの街を離れる。あんたものうのうと居座れる内に、次の行き先を見つけておくこった。イニカリアは一時の滞在に向いちゃいるが、定住にはもはや向いてない。顔を覚えられちゃいけない・・・・・・・・・・・・からな」

「……どういう事だ?」

「いやあんたが気にしすぎる必要はない。どうせあんたには俺より先にこの街を出ていってもらうんだから。それよりだ。そんな事より、どうだ。昨日今日とイニカリアを見て回ったようだが、何か収穫は得られたのか? 失くした記憶の手掛かり」


 答える気など更々なさげに、パベルは話をはぐらかして流そうとしている。口にせずにいられなかったが、深く話すつもりはないときた。質が悪い事この上ない。

「………」

 ただどうにも、私は誰かを疑う事を嫌う傾向にあるらしい。残しておけば後々不利益を被りそうな疑問が目の前にぶら下げられているのに、どうしても、それを無理に問いただそうという気になれなかった。

 パベルは悪い人間ではない。腹に一物を抱えてはいるようだが、私に害を成そうとする意思はなさそうだ。むしろその逆で、変に献身的すぎるような気さえした。

 私は肩から力を抜いた。

「……何も。おそらくイニカリアの半分ほどは見て回ったが、何もなかった……」

「そうか」

「だが──」

「だが、なんだよ?」

「私が心のどこかで会いたいと願う人は、あまり外の世界を知らないように思えたんだ」

 多くの人々を見て回った。一様に楽しそうな表情を浮かべて彼らは街を巡り、交流し合い、それぞれが帰路に着いていった。私は道角のベンチに座り尽くし、それを羨ましいと語った感情が、誰かの声と重なったのだ。

 映像はない。曖昧な幻聴に過ぎないのだが……。

 途端、パベルが小さく吹き出した。

 私は思わず首を傾げる。

「なんだ、何がおかしかった?」

「収穫はあったんじゃねえか、微々たるものでもよ」

「んん? ああ、まあ、そうなるのか………?」

 そうなるんだよ、とパベルが笑いながら小突いてくる。

「ならやはりあんたはこの街に長くいるべきじゃない。探すべきだ、世界を回るべきだ。それほどの器があんたにはある。記憶を失くしたのは、そういう巡り合わせだったんだろうなぁ」

「………流石に買い被りすぎだろう、それ」

「そうかい? 俺ぁあんたを一目見た瞬間、何か湧き上がるモノがあったんだがなぁ。これでも目がいいんだぜ、俺」

 そうやってパベルは口を開けて豪快に笑った。

「これは、完全に出来上がっているな……」

 私は苦笑いを浮かべつつ、悪くない気分で椅子に背を凭れて、笑い続けるパベルを眺めた。


 それは、賑わう夜半の食堂における、束の間の一幕だった──。

 

        ◇

 

 列車に揺られる。

 思い返していたのはそんな一週間ほど前のパベルとの会話。

 足元の荷物ケースにこつんと靴の爪先が当たる。


 ──もう、こんなにも遠い処に来てしまった。


 元来消費される時が早いのか、あるいは列車の移動が速いのか。

 一面草原の長閑な風景が線を走らせて過ぎていく。

 所々に散見される背の低い民家。農村。小高い丘に生い茂る木々は連綿と遠目に。否応なく郷愁の念に駆られる景色が流れる。

 長く耽られるほどの記憶を持たない私でも胸が騒ついてしまう景色だというのだから、その魔力は絶大だ。

 空は文句なしの晴れ。雲は高く悠々と膨れている。

 車窓の縁に肘を預けて、頬を手の甲で支えて、それらをのんびり眺めた。

 一言に退屈だった。記憶もなく初めて目を覚ました時には思いもよらなかった平和な時間が訪れている。


「───旅の方ですか?」


 不意な声掛け。未熟さを残す女性の声質。いつの間に乗り合わせていたのか、通路側の席には白地のワンピースを着た一人の女性が淑やかに座っていた。

 この列車は個室が並ぶ型式だから、目の前の女性は──私の主観によれば──一切の音もなく乗り合わせた事になる。

 私はその女性に微笑み掛けて、問いに答えた。

「ええ、そうですね。そういうものです。自分探しの旅を始めたばかりなんです」

「まあ! 自分探しの旅。私と同じですね!」

「同じ……?」

 彼女は嬉しそうに微笑んでいる。その向かい側の座席を見遣ると、彼女の言う私と同じように、それなりの大きな荷物が置かれていた。疑問はさらに膨れ上がる。

 それはそれとして。

 女性が嬉々として訊ねてくる。

「わたしも自分探しの旅というものを始めたばかりなのです! あなたはどうして自分探しの旅に?」

「…情けない話なのですが、記憶を落とした身の上でして。ゆえにそれを取り戻すため、旅を始める事にしたんです」

「あっ……。すみません、不躾な質問でした」

 しゅんと声を落ち込ませて女性は俯き謝る。

「いえ、気に病む事はありませんよ。それを良い機会だと励ましてくれた友人がいますから」

「ふふ、素晴らしいお方に出会えたのですね。羨ましい限りです」

「ええ本当に。そして私には、例え記憶が失くとも会いたいと願う人がいるらしいんです。きっと、この世界のどこかに。その人を探す為の旅でもあります」

「それは──。とてもロマンチックです」

 いいなあ、そういうの……と女性が微熱の篭ったため息を吐く。

「はっ、すみません。はしたない口を」

 女性は恥じらうようにそっと白く細い指先で口を抑えた。

 その可愛らしい仕草につい笑ってしまう。

「大丈夫ですよ。はしたないなどととんでもない。それくらいの事なら、むしろあなたの魅力がより増すだけですから」

「───ふふ、口がお上手ですね」

 すると、改めるように女性は足を揃えて私に向き直った。

「申し遅れました。私、セルフィエッタ・エル・ヘリアンシアという者です。気軽にセルフィと呼んでくれると嬉しいです」

「セルフィ」

「はい! ……それと失礼を承知でお願いするのですが」セルフィは膝に掌を押しつけて、僅かに身を乗り出した。「その旅、私が同行しても構わないでしょうかっ?」

 想像だにしなかった申し出に、私は少々面食らう。

「それは、構いませんが……。またどうして?」

「旅は道連れ世は情けと、ある本に書かれていました。共に旅をしてくれる者がいれば互いに心強くなるものなのでしょう? それに私は女の身です。あなたのような男性が傍にいて貰えると、何かと助かるなあと──利己的にも程がありますが、つまりそういう事です」

「なるほど。けれどいいんですか? 利己的な事は結構ですが、私ではあなたの利益にはなり得ないでしょう。何しろ私は記憶を失くしている身。当然ながら名前さえも失くした素性不明の浮浪者です。そのような者の傍にいれば、むしろ不安になるばかりでしょうに」

「私はあまり屋敷から出た事はありませんが、それでも多くの方を目にしました。人を見る目には自信があるんです」

「私なら問題ないと?」

「あなたの人柄は純白です。まるで汚れを知る前の灰渓花リヴァジストのように。それが様々な物に触れて塗れて次第に染まって時に汚れていく様など、見物だと思いませんか?」

「……なかなかに愉快な性格をしている」

「とうとう地が出ちゃいましたね、ふふ」

 灰渓花リヴァジスト。渓谷の底で咲く白い花。急な川の流れに逆らうよう咲くその花は、長い月日をかけて灰色に染まり、やがて黒く染まり枯れていくという。そして枯れる過程にあまい粒状の液が分泌され、川に流されるうちに魚や虫の腹に入り、それらが新たな芽吹きの苗床となる。

 隙を見て花の事を学んでみたが、まさかこうも早く役立つとは思わなかった。

「私は黒く染まってしまうだろうか」

「黒が必ずしも悪い色とは限りません。こういうのは大抵、純度の問題なのです。何事も、中途半端な混じり気は美しく見えないものですから。物事の過程の全てを愛しきれないように」

「そうだろうか。私はまだ全ての過程を愛しきれているけれど」

「……記憶が失くなられてから、どれほど経ったんですか?」

「今日でちょうど十日だ」

「でしたらまだ経験いろが足りません。私と同じくまだまだこれからじゃないですか」

「そうか、そういうものか」

「はい、そういうものなのです」

 そうして、私たちは出会って間もないと言うのに不思議と意気投合し、次の駅に着き降りても変わらず語り合った。

 

 その会話の中で、今後の私の偽名がセルフィから与えられた。やはりいつまでも名無しでは宿屋の一室を借りる時などに困るだけでなく、呼び合う事もできないのでは不便だという話にまで至り、私の名前を決める事と相成ったのだ。

 ──リヴァジストラ。

 愛称はセルフィによりストラに決まった。

 人名にしてはどうも仰々しい響きであるが……。

 それがとりあえずの、私の名前となった。

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