第2話 棘の形をした疑念

 小鳥の鳴き声に意識を叩かれる。その鈴の音のような鳴き声を三度ほど繰り返し、小鳥は元気に飛び去っていった。

 薄ぼんやりと瞼を開ける。

 白く滲む寝惚けた視界。見慣れない部屋。私は誰だろうという錯誤感も同時に目を覚ます。昨夜の出来事を思い返そうとして、どうにも上手くいかなかった。思い出す事に慣れていないのかもしれない。それとも。余程疲れているのだろうか。此処に至るまでの記憶が朧げに思い出せなかった。

 木材の硬さを覆い隠し切れていないボロいベッドから、私は起き上がる。

 そこはカビ臭い部屋で、おそらくは質の悪い宿屋に思えた。

 無理もない。明かせる素性さえない私が借りられる宿屋などたかが知れており、泊まれる場所が唯一ここだけだったのだろう。どういう道中により辿り着いたのか、そこの記憶は未だ朧げなままだが。

 ふと、あるものが目に付いた。そして、今の私において、もっとも大切な思い出が想起された。

「私に名前はない。過去の記憶がない。けれど──」

 ベッドの傍らに置かれている小物入れ用の小棚、その上には黒いポーチが置いてあった。そしてその黒いポーチに刺繍されている黒い花の名前は“ティアレイ”という。

 ティアレナという少女に命を助けてもらった事。果ては宵越しの金銭まで恵んでもらった事。いつか必ず、ティアレナに恩返しをすると決めた事。それが今の私を構成する確かな要素たち。

「──覚えている。思い返せる事、思い出せる事が今の私には確とある」

 それだけで、少しは満ち足りた気分になれる。

 ゆっくりと立ち上がり、溢れんばかりの陽の光を浸透させた窓へと歩み寄り、その両開きの窓を開けた。

 ───風が吹き込む。澱んだ空気は排され、澄んだそれへと循環する。涼やかで緩やかな心地よい風が私を包む。

 一夜に雨はすっかり止んだようで、通りは雨水を滲ませて陽に照り付いている。

 活気が聞こえてくる。

 街は人の気配に溢れている。

 新たな一日が、これから始まろうとしていた──。

 

 部屋を出ると、ちょうど宿屋の主とかち合った。

 髪は手入れのされていない生垣の如く刺々しく、鼻の下に豊かな髭を生やした、私より頭一つぶん背の低い男。茶色がかった四角い模様入りのワイシャツを着ており、腰には紺色の前掛けを垂らしている。

 そう、宿屋の主だ。その人だとすぐに思い出せはしたが、どういう初対面だったかイマイチ思い出せない。昨夜は一体が何があったのか。記憶を落としやすい身の上で今更ながら少々参ってくる。

「………」

 宿主は、まるで種類の知らない虫を見るような目付きで私を眇める。

 私は不審に思われないよう、まずは明るく丁重に挨拶をする事にした。

「どうも。本日はお日柄がよろしく──」

「記憶がないと言う割にはどうも口回りがいいな、君は。昨日もそうだった。君は酒を飲まない方がいい。例え強要されたとしても必ず断る事だ。……そんな様子じゃあ、な」

 宿主はそう一方的に捲し立てて、ゆったりとした足取りで廊下の奥に消えていった。

 露骨に首を傾げた。酒について言及してきた以上、私は昨夜何かをやらかしてしまったようだ。しかも飲酒を誰かに強要された可能性がある。

「………」

 だとすると、さっそくティアレナに申し訳が立たない事になってしまう。金銭を恵んでもらっておいて、酒に浸かってしまうのは色々と──まず人として──不味いだろう。

「………………」

 しかし真相が既に記憶の闇に溶け込んでしまっている以上、この場で考え込んでも栓無き事のようにも思えた。

 だから部屋を出た元々の用事──顔を洗う為、とりあえずは共用の洗面所へ向かった。

 そして直後に顔を覆いたくなるような現実を知る羽目になる。

 一つの事実として。

 宿主の忠言は正しい。鏡に映る私の顔は、目元は酷く弛み全体的に赤く腫れていたのだから。

 

 宿屋の一階は狭い食堂であった。脇道の居酒屋に雰囲気は似ている。あまり高さを感じられない天井と、横並びに調理場と向き合うカウンター席。残るスペースには精々大人三人が限度のテーブル席がいくつか窓際や壁際に設置されていた。

「おーい」と朗らかで張りのある男の声がした。

 声の聞こえた方向へつい顔を向けると、どうもそれは私に対する呼び掛けのようだった。爽やかな笑顔の男が私に向かって手を振っている。

 その男の元に向かう。

 男の服装は質素だ。黄ばみ草臥れた半袖シャツと野暮ったい作業用ズボン。シャツの真ん中にはヒューマナ語で『応募中』と書かれてあった。いかにも浮浪者らしい人物だった。

「ひどい顔だなぁ」かははと男は笑う。「昨日のあんたは酒癖もひどかったもんなぁ。そりゃそうもなるかぁ」

「あー、一人得心してるとこ悪いが、あなたは誰だ? どうにも昨夜の記憶が曖昧で……」

 すると男はさらに大きく笑い上げた。

「ははっ、こりゃ傑作だぁ。記憶喪失のやつがさらに記憶を無くしてくるときたか」

 歯を剥き出しに含み笑いを続けた後、男が私を見上げて言った。

「まあ座れよ。共に飲み明かした仲ではあるんだから」

 犯人は容易く見つかった。というより悪気なく自白してくれた。だがどうにも私も共犯のように思えたので、飲酒の件に関して突っ込むのはやめておく事にする。

「ああ」素直に頷き、椅子に腰を下ろしつつ訊いた。「何か変な事を言ってなかったか、昨夜の私は」

「いや特に何にもだな。その話ん中で驚いたのは、まあ、あの朦朧の樹海を五体満足で抜けたってことくらいか。軍国直属の遊撃騎士の一人──ティアレナに助けられたってんだから、話が真実ならあんたは相当運がいい」

「そんな凄い人だったのか、ティアレナって」

「全体で見れば所詮時代遅れの人体兵器さな。が、個人に限りゃあ話は別で、未だ怪物の中の怪物だ。銃器を持った兵士十人くらいなら無傷で殲滅できる。それがあの国にゃあ五人はいる。どうだ、驚いただろう?」

「……よくわからないな」

「は、やっぱり昨日と同じ反応だ。こりゃつまらない」

 大袈裟な身振りで男は参ったと手を挙げる。

「それで、あなたの名前はなんと?」

「あ? ここまで会話したってのにまだ思い出せねえのかよ。まったく、見目若い癖して脳味噌の質は爺さんか。パベルだ。パベル・カイナー。今度はよぉく覚えといてくれよ」

「今は飲酒してないんだ。問題なく覚えられる」

 だといいがなぁ、とパベルはニカリと笑い、厨房を向いて大声で料理を注文した。

 

「一夜寝て覚めたんだ。夢は見たかい?」

 朝食の途中、唐突にパベルがそう訊いてきた。

 口に咀嚼していたパスタを飲み込み、私は応える。

「……何も」

「そうか。そりゃあ、残念だな……。ほんの微かも思い出せなかったわけなんだから」

「そうでもない。目覚めは昨日よりよかったんだ」

 硬く冷たい岩の上で目覚めるよりは遥かに良い起床具合だったのは間違いない。そして昨日の出来事──不慮の事故により一部欠けてしまっているが──も大したことなく思い出せたのだから、これ以上を望むのは高望みというやつだろう。

「図太い奴だなぁ。普通は不安で不確かで息をするのも辛そうな顔をするもんだろうに」

「……なら逆に、今の私はどんな表情かおをしているんだ?」

「んー………、街の通行人の顔を見た事はあるか?」

「なんだ急に……」

「いいから」

「知らないよ。私にはまだ街を出歩いた記憶がない」

「ならこれから街を出歩く事になるんだろうから、そいつらをちゃんと見ておけ。一人だけじゃないぜ、通り過ぎていく全員だ。例えるなら今のあんたの顔はそれなんだなぁ。普通に今日も生きようって顔をしてる」

「つまりその、どういうことだ……?」

「──溶け込んでんだよ。悪く言えば気味悪りぃぐらいにな」

 

        ◇

 

 細い裏路地を抜けて、大通りに出た。

 様々な服装の入り乱れた雑踏に紛れていく。すると僅かな距離のざわめきだけで耳内が染まった。

 記憶を取り戻す手掛かりを見つける為、私は街を出歩いていた。つまるところ観光、簡単な一人旅だ。

 煉瓦造りの街並み。淡いベージュ色の舗装路。建物の高低差はバラバラに、それらは直線を乱さず並び立つ。

 此処はまさに観光街のようだ。周囲を取り巻く空気感さえもどこか華やいでいる。

 パベルの言葉を思い出しながら、街の景色ばかりではなく、通り過ぎていく人々の姿も目で追った。

 空を見上げなければ人々の姿だけで視界が埋まる。中には数こそ少ないが、見慣れない存在もいた。いや、正確には知識としてしか知らないのだが、どうも現実の存在として受け止められないのだ。それらは毛むくじゃらだったり耳が長かったり鱗で覆われていたり。私たち人間とは別の特徴を兼ね備えていた。けれど総じて、浮かべる表情にそこまでの変わりはなかった。

 明るい顔ばかりだった。活気に満ちた通りであった。パベルに言わせてみればきっと、普通に今日も生きようではなく、明日もこのような風に生きたいというような表情だろうか。少しばかり道を間違えたらしい。

 ここは平穏な日常の風景ではない。なにか特別な、祭りごとの気配があった。

 それでも、私の目的からは逸れない。記憶を取り戻すための手掛かりがこの人波のどこかに落ちている可能性に賭けて、私はひたすら前へ進む。

 人の波を縫っていく。

 雑踏に己の意識さえも溶かしていく。

 そうして、雑踏の中に私という“穴”ができた気がした。

 そこを数多の人々が避けて通り過ぎていく。


 ──私は飢えている。おそらく、今も渇きっぱなしだ。


 目に映る世界の全てが新鮮な刺激となり得ても、それは紙の透明な跡を再度なぞっているに過ぎず。

 人々の中に埋もれていけば埋もれていくほど、私の心に焦燥が生じる。記憶を取り戻さなければ。私という培ったはずの“個”を取り戻さなければ、と。

 なぜすぐ気づかなかったのだろう。

 此処は私にとって毒だ。手の届かない場所に吊り下げられた麻薬だ。


 ──もっと遠くへ。


 此処では取り戻せない。

 此処に記憶の手掛かりは存在しない。

 そんな時──。

 ふと、声を掛けられた。

「もし」という甘い誘惑の声。

 声のした方向を振り向くと、薄暗い人工のきょうがそこにある。人二人分の横幅。その少し奥では、白いローブを目深に羽織った女が向かいの煉瓦の壁を見つめて、占い師のような格好で座っていた。

「そうです。そこで立ち止まった貴方を呼んだのです」

 ローブの女が壁から視線を逸らさずに話し掛けている。

 周囲へ視線を泳がせると、私の周りに立ち止まった人は見事にいない。

 そして白いローブの女が私を向いて、緩慢に手招いた。

「“道”にお迷いなのでしょう。ほんの手助け、ささやかな助言を授けましょう」

「……生憎、そういうのは間に合っている。蜘蛛の糸を垂らすなら他をあたってくれ」

「そうですか、とても残念です」

 踵を返すと、白いローブの女は去ろうとする私に構わずこう続けた。

「これは単なる独り言で、戯言に過ぎないのですが。前提からして、貴方は行き先をたがえたんです。それも致命的に」ソイツは愉快げに笑う。「──満たされないでしょうね、きっと」

 私は足を速めた。大した言葉を投げかけられた訳でもないというのに、ひどく不愉快な気分になった。

 

 夜が深くなるまで街を散策し続け、結局何の手掛かりも得られず宿屋に戻った。

 胸の奥に、微細な棘を残して──。

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