第66話:私が伝えたいこと

「乾杯」


 時は宵の口、場所はユリハ・キャラン。私とタルワールは二人で夕食を楽しんでいた。私の眼前に広がるのは私の故郷の味であるクテシフォン料理、そして私の心に広がるのは一つの決意。今日が正真正銘、最後の夜。


「ところで、リツ。ずっと気になっているんだが、なんでここで働いている人達だけ、リツのことをリーディットと呼んでいるんだ」


 ガーリックのたっぷり効いたラム肉のソテーを美味しそうに食べながら、タルワールは明るい口調で私に質問をぶつけてくる。私は、お互いに話すべき話題はそれじゃないでしょ、と内心思ったものの、最初はタルワールの話に合わせてあげることにした。


「前にも言ったけど、リーディットっていうのは私の本名。商人になった時、ちょっとした理由があって名前を変えたんだけど、商人になる前から付き合いのある人は、いまだに私のことをリーディットと呼ぶのよ」


 トマトの中に羊のひき肉をたっぷり詰めたドルマを食べながら、私は笑顔でそう答えた。今日は色々ありすぎてお腹が減っているし、食事中に会話をするくらいの行儀の悪さならコーネットも許してくれるよね。


「なんだ、リーディットの方がいい名前じゃないか、かわいいじゃないか。どこかの良家のお嬢さまみたいだ。俺はすごく気に入った。これから俺もここの人たちに合わせてリーディットって呼ぶことにする」


「さすがに、それは」


 私はそう苦笑いして答えたものの、急に本名を呼ばれ、大きく動揺し、顔が思わず紅潮し、胸が信じられないほど高鳴り、体中が隅々まで震えていることを認識した。そしてこれがアルコールの影響でないこともちゃんと理解していた。


 しっかりしなさい、リーディット。私はそんなにちょろくない、ちょろくない。こんなんじゃ、今日、大切なことを伝えられない。そう自分に言い聞かせ、そう自分に決意させ、私は自分の手に握られたジョッキに入ったワインを一気に飲み干した。


 しかし、タルワールはそんな私の決意なんかお構いなしで、ジョッキ片手に上機嫌だ。そりゃそうよね、このワイン、マセット・シンシリアだもの。ギスヴィッヒ、王宮での晩餐会じゃないんだから、このワインはちょっと奮発しすぎだと思うのよね。


 私は空になったジョッキの縁を人差し指でそっとなぞって、梨酒ポワレを追加で注文する。ほんと私は安酒でいいのよ、飲みやすければそれでいいの、どうせ味なんてわかんないんだし。そんなことより、今日、私にはお酒の力を借りてでも伝えなければいけないことがあるんだから。そう、必ず伝えなければいけないことがあるんだから。このことだけに集中しないと。


「ところで、ケチなリーディットが、こんな上等な料理とワインを俺にご馳走してくれるんだから、例の先物証書、さぞかし高く売れたんだろ?結局いくらで売れたんだ」


 タルワールは十分に煮込まれたジャガイモをフォークでつきさし、それを目の前でくるくると回しながら、私にそう尋ねてくる。こらこらタルワール、お行儀が悪いですよ。そんなことじゃ、私と一緒になった時、もしかしたら、た、大変な目にあっちゃうかもよ。私は心の中にもかかわらず、つっかえつっかえで思わずそうつぶやいた。


 でもね、タルワール。この料理もワインもギスヴィッヒが勝手に用意したものなの、私がこんな高い料理やお酒を注文する訳ないじゃない。私はタルワールに正直に答えようとしたもののすぐに思いとどまった。せっかくギスヴィッヒが整えてくれたこの状況、利用しないのはもったいない。せっかくだから、めいっぱい使わせてもらおう。ということで、ごめんね、ギスヴィッヒ。


「そうよ、この料理は私のタルワールへの感謝の気持ち、とっても高かったんだから。今日はちゃんと私の話を最後まで聞いてもらうから。話したいこといっぱいあるし、伝えたいこともいっぱいある。だからちゃんと私が納得するまでつきあうこと。わかった?」


 私は、思わず高かったという言葉を入れてしまう自分に自己嫌悪したものの、そんな気持ちになる前に、私は自分でも信じられないくらいの大胆な行動をしていた。すなわち、この言葉を言い終わると同時に、私は短い右手を伸ばし、その手のひらでタルワールの頬をそっと撫でたのだ。アルコールの力もあったとはいえ、私は自分自身がとっさにとった行動に大きく動揺し、そしてそれ以上に、大きな喜びで自分の心が満たされているのを感じていた。


「わかった、わかった。リーディットの気が済むまで今日はつきあってやるから安心してくれ。俺だって話したいことは山ほどある。だが、まずは先物証書の話がどうなったか教えてくれないか」


「あぁ、先物証書ね。結局、売らずに済んだみたい」


 タルワールの言質をとった私は、信じられないくらい上機嫌であった。もう、その言葉の一言一言が、いや一文字一文字で私の心は浮ついて、まるで今すぐにでも踊り出してしまいそうな浮遊感に包まれていた。そんな上機嫌な私は、ジョッキの梨酒ポワレを飲みほしてお代わりを注文する。しかし、私の答えを聞いたタルワールの反応は対照的であった。つまり、私の答えを聞いた瞬間、タルワールのフォークの動きが一瞬固まったのだ。


「まてまて、先物証書を売っていないとはどういう意味だ。まさか本気で二十万トンの木材すべてを売って回るつもりなのか」


「まさかぁ」


 私は再び苦笑いをうかべ、ヨーグルトのスープにスプーンを運んだ。


「リーディット、すまないが俺には状況が理解できない。なぜならあの状況、先物証書を渡さない限り、リーディットはあの部屋から出てこられなかったはずだ。それが証拠に、リーディットは先物証書を入れてあった、あの青い箱を部屋に置いてきたじゃないか」


「なんだ、タルワール、ちゃんと見てたんだ」


 扉から出てくる刹那、それを見逃さないとか、さすがタルワール、如才ないわね。私は妙に感心したので、この件でタルワールに絡もうと思ったものの、その瞬間、自分のジョッキの中の梨酒ポワレが空っぽであることに気がついた。はやくお代わりを注文しないとね。


「でもタルワール、あの青い箱の中に先物証書なんて入ってないわよ」


「うん?」


 タルワールがそう短く答えると、一瞬の沈黙が二人の間を流れる。


「いやいや、あの状況、先物証書を渡さない限り無事に部屋から出てこられないだろう。やつらは間違いなくリーディットを殺すつもりでいたんだぞ。それがわかっていたから、リーディットは青い箱を机の上に置いてきたんだろう。違うのか?」


 「うーん」と私は少し考えたものの、酔いが私の思考に霧をかける。考えがなかなかまとまらない。困ったなぁと、思いはしたもののこうなってしまっては仕方がない。思いついたまま話してしまえばいいか。


「えぇっとね。まず青い箱はあの部屋に置いてきたんだけど、中身は先物証書ではないの。もっと違う、私にとってだけ大切なものが入っているの。一応そう説明したんだけど、それでもいいと言うから売ってあげたの。確か金貨三百枚、大もうけよね」


 そう言って私は上機嫌に笑う。


「金貨三百枚!おいおい金貨三百枚って一生遊んで暮らせるお金だぞ、とてもあの箱一個の値段とは釣り合わない、釣り合わない」


 タルワールは思わず手にもっていたジョッキをテーブルに叩きつける。


「なにいってるの。あの青い箱、ハータム・カーリーよ。青い箱ハータム・カーリー。特別な工芸品なんだから。しかもラピスラズリを顔料にして彩色をしてるのよ、知ってる?ウルトラマリンブルー、そうウルトラマリンブルーを使っているんだから超高級品なの。ちょっとやそっとじゃ手に入らない代物なのよ。でもね、中身はね、もっともっと大切なものが入っているの。だから金貨三百枚なんて安いくらいよ」


 そう言って私は再び梨酒ポワレのお代わりを頼んで、白身魚のソテーに手を伸ばす。


「わからないなぁ」


 タルワールは右手で顎をなでながら話を続ける。


「金貨三百枚も払うということは、ドミオン商業ギルドは、箱の中身は先物証書だと思って買い取ったはずだ。リツの言う通り中身が先物証書でないとすれば、ドミオン商業ギルドはなんでそんな勘違いをしたんだ。その場で中身を見ればすぐにわかるはずなのに」


 タルワールは不思議そうにそう質問する。


「そんなの簡単よ、箱には鍵がかかっていたの。ただそれだけの話」


「リーディット、ちょっと待ってくれ。ということは、ドミオン商業ギルドは中身を確認しないまま、あの箱を買いとったということか?」


 タルワールは、呆れ顔で私の顔を見つめてくる。


「そう、そうなのよ。ドミオン商業ギルドもそうとう焦っていたんでしょうね。でも、焦っていたとはいえ、さすがに迂闊よね」


 私はそう言って楽しげに笑う。ほんと、お酒っていいものよね。


「じつは、鍵はこの宿に置いてきたのよ。私って、よくモノを無くすし、大切なものだからギスヴィッヒに預けておいたの、ただそれだけ。あと、その話をしていた時、なぜか陽が沈んでいたから、暗闇の中、中身を確認することはできないよね、って話になって、中身は明日、みんなで確認しようってことになったの」


「でもね、さすがに私、怖かったから、代理人を立てることにしちゃった。そして、明日確認して、中身が先物証書じゃなかったら、中身は返してもらうって約束したの。もちろん金貨三百枚は返さない契約でね」


「おいおい、そんなの詐欺同然じゃないか」


 上機嫌で笑い転げる私に対し、タルワールはすっかり呆れ顔だ。


「え、なんで知ってるの。そうそう詐欺よね、これ。知ってる知ってる。コーネットに昔、教えてもらったから知っている。でも仕方がないじゃない?そうしなければ、私、死んでいたと思うし」


 そう私が答えると、矢継ぎ早にタルワールが質問をぶつけてくる。


「だとすれば、あの青い箱の中には何が入っているんだ?」


「だから、あの青い箱はラピスラズリを顔料にして彩色をした高級品なの。ちょっとや、そっとじゃ手に入らない代物なのよ」


「リーディット。だいぶ酔っているな」


「酔ってなんかいないわよ」


「俺が聞いているのは、箱の中身に何が入っているかなんだが」


「あぁ、箱の中身ね。死んだお父さまとお母さまからもらった手紙と肖像画よ。あんなものもらったって、わたし以外、なんの価値もないのにね」


 そう言って私は大声で笑い始めた。


「すまん、もしかして、デリケートな部分に触れてしまったか?」


「なに、いってんの。四年前のことなんだし、気にするなって。いつものタルワールらしくないゾ。わたしは、今、こんなにおいしいお酒とおいしい料理を食べられてて幸せだというのに、これ以上何を望むというの、タルワールくん、君はちょっと贅沢ぜいたくだゾ、反省しなさい」


 私はそう言って、この旅の鬱憤うっぷんをはらすかのようにタルワールをからかった。


「そんなことより、タルワールくん。ちゃんと姿勢をただしなさい」


「どうしたんだ、リーディット。急に真剣な顔をして、さすがに酔っ払いと真面目な話はできないぞ?」


 私は、真顔でそういうタルワールの頭を二回ぽんぽんと叩く。


「いい、タルワールくん。このリーディットさんが、今から、とても大切なことを言います。本当に大切なことを言います。だから、タルワールくんは、ちゃんと心して聞くように」


 私は、そう言ってタルワールを強くたしなめた。


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第66話補足:「ハータム・カーリー」と「ウルトラマリンブルー」

https://kakuyomu.jp/works/16817139557982622008/episodes/16817330650031813864

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