ささくれ

須和田 志温

第1話

「意味なんて、ないと思うんだけどね」


 そんな口癖を唇に乗せて、チカは誰よりも飢えた目で光り輝く摩天楼群まてんろうぐんを見渡す。


「考えたって仕方ないのに、なんでそんなことばっかり言うんだろうね」


 吹き上げる風に目を細めながらにやついた頬に力がこもる。


「君はどう思う?知ってるなら教えてよ。自分らしく生きるってどういうこと?」


「知るかそんなん。てめぇで考えろ」


 全く、馬鹿馬鹿しい。


 笑いを噛み殺しながら吐き捨て、ビルの縁を顎で示す。


「こっから飛び降りれば分かるかもだぜ。こびりつくまでに多少時間あんだろ」


 フェンスなんて無粋ぶすいなモノはない。一歩踏み出せばそのまま真っ逆さまだ。


「押して欲しいなら背中押してやろうか。ん?」


「……別にいいけど」


 少しの沈黙の後、乾いた声でそう言って小首を傾げた。


「そうすると困るの君だよ」


「俺を言い訳にすんな。びびってるだけのくせに」


「はは、かもね。でも」


 俺の悪態に肩をすくめたチカは、摩天楼群から視線を切った。


「今私が死んじゃったら会社にも迷惑かかっちゃうから、その時はちゃんと準備しないとね」


 きびすを返したチカは、はにかむように笑った。


 □


 機械的に通い詰める会社からいつもより遅く帰宅したチカが、帰りがけに立ち寄ったコンビニの袋を手に提げて、ただいま、と小さく呟いた。


「ふぅ」


「なんだ、ずいぶん疲れてんじゃんか」


 袋から取り出したラーメンを電子レンジに突っ込んでタイマーをセットしたチカが、まぁ、と曖昧に答えながら体をソファーに投げ出す。


「今日さぁ」


 ソファーで放心していると思ったらなんの前触れもなくチカが口を開いた。


「どこかの部署でなんか問題が発生したらしくて、それでまぁ、なんだ、意味があるんだか無いんだか分からない話を全体会議で聞かされて午前中丸潰れでさ。そのしわ寄せで午後しっちゃかめっちゃかになっちゃって。まぁ、結果的に間に合ったからいいんだけど」


「おい、誰も聞くって言ってないぞ」


 お構いなしに話し始めた声に思わず口を挟むと、知ってる、としれっと返される。


「だから独り言することにしたの」


 そのでかい独り言を間近で聞かされる身にもなって欲しい。


「なんて言うのかな。部長からしたら言わずにはいられないようなことだったんだと思うんだよね、たぶん。まぁ、だから、うん。そんな感じ」


 俺は知っている。


 こいつがこういう気持ち悪い物言いをするときは大概、誰かに掘り下げて話を聞いて欲しい時だ。


「言いてぇことがあんなら同僚でも誰でもぶちまけてくりゃ良かったじゃねぇか」


「言ったってしょうがないじゃん。部長のああいうところが変わる訳じゃないし、私の愚痴聞かされたって迷惑でしょ」


「俺に愚痴るのは迷惑じゃねぇってか」


 チカが黙って視線を鋭く絞る。


「おーこわ。そうだよなぁ。お前はそうだもんなぁ」


 くつくつと喉が鳴る。


「いいぜ。気が変わったから聞いてやるよ。で?ちなみにその午前中丸々潰して話するような大事な問題ってのはなんだったんだよ」


「……知らない。別に大騒ぎするようなことじゃないんだってさ」


「はぁ?じゃあなんの為に全体会議で言ったんだよ」


「社員全員に当事者意識を持って欲しいんだってさ」


「じゃあ尚更内容分からなきゃ意味ないだろうが」


「……、るさいなぁ」


 ああ、揺れている。


「私に言わないでよ。問題の経緯も詳細も話さないで全体に言う必要がないことくらい私だって分かってるよ。分かってないのはあの人くらいなんだよ。みんな分かってる。問題起こしちゃったのは事実だし、実際そのリカバリーでいろんなところに波及したっていうのも本当。でも、あれじゃあ問題起こした部署の公開処刑だよ。『デリケートな話題なので詳しくは言いませんが、我々の期待を裏切った人がいます。皆さんはそうならないように。この件に関してはこれ以上詮索不要です』なんて逆効果でしかないでしょ。今後に活かすも何もないじゃん。それなら最初から言わない方がマシなレベルだし。だからやり方を変えたほうがいいのにって前から言ってるのに。なんで────」


 そこまでまくし立てたところで盛大に溜息をついたチカが、指先に出来たささくれを剥く。


「まぁ、部長がそういう人なのは前々からだし分かりきってることだけどさ。今更変わるわけないし、しょうがないんだけど」


 しょうがない。


 しょうがない。


 意味がないと同じくらい、こいつが口にする言葉。


「しょうがないって言うわりに、苛ついてんじゃねぇか」


「……だって」


 爪の脇をえぐりながらチカが口を尖らせる。


「わざわざ間違いを選ぶのか分からないんだもん」


 こいつにとって対人関係は模範解答を選び取って行動するだけの簡単な作業だ。


 そこに自分の感情を挟む余地は無く、その時その場所で適切な言動を選び取っていけばいい。


 そうやって今までの人生を乗り切ってきたこいつには他人の言動が理解できない。


 その度にこいつはこうやって、そういうものだ、と自分に言い訳をしている。


「そうだな。じゃあそういうもんだって思ってりゃいいじゃねぇか。それが正解なんだろ」


「そう、なんだけどさ」


 ただ、最近はその様子が少し違ってきているのも事実だ。


 そしてこいつはそれに気付いていない。


「じゃあ悩む必要はないな。そして意味もない。もう答えは分かってんだからな。ほら」


 電子レンジが軽快な音楽で温め終わったことを知らせていた。


「ラーメンは熱いうちに食べた方が美味い。それも分かってることだな」


「うん。───あ」


 ガリガリと執拗に爪の間を抉っていたチカが、ささくれをつまんで慎重に引っ張る。


 ささくれは爪に沿って深く剥けていき、丁度甘皮に差し掛かったところでぷつんと切れた。


 その指を根元からぎゅっと強く握って、傷跡から滲む血を見つめる。


「よし、ご飯にしよ。ラーメンラーメン」


 軽い調子でコンビニラーメンを電子レンジから取り上げてすすり始めたチカの指先には血の玉が浮かんだままだ。


 最近チカはよくささくれを剥くようになった。


 執拗に同じところをいじるせいで、小さなかさぶたがいくつも出来ている。


 そんなことをして何になるのか俺には理解できないが、その様を見ているのは悪い気分じゃない。


 俺はこいつが嫌いだ。


 隙あらば自死を勧めてみたりするくらいには。


 優等生ぶっているその姿も、達観したような言動も見ているだけで虫酸が走る。


 俺が嫌っていることは当然こいつも知っている。


 だから俺たちは一緒にいるのだ。


 □


 吹き上げる風に髪を煽られながら、チカが体を揺らす。


「お前、何やってんの?」


「ん?向こう側にいけるかなと思って。試してるの」


 両手を広げてバランスを取りながら慎重に足を一歩ずつ前に進めていく。


 いつの間にか摩天楼の縁に一本、太いロープが張られていた。繋がっている先は全く見えない。


「なんだか、光の中を歩いてるみたい」


 随分メルヘンなことを言い出したチカはどこか楽しげだ。


「向こうには何があるのかな」


「……さぁな。存外お前の探してるもんかもしれないぜ」


「私が探してるもの?」


 思い至らないのかチカが小首を傾げる。


 当然だ。


 こいつはそんなものとうに持ち合わせていないのだから。


「ねぇ、私の探してるものって何?」


「自分らしさ」


 □


 静かな部屋にカチカチとカッターの刃を出す音が響く。


 その刃先を爪の脇に押し当てるチカの表情は能面のように白い。


「何してんだお前」


「ん?ささくれ作ってるんだよ。もう剥けるところ無いから」


 化膿して赤く腫れた指。


 細菌感染して爪が白く変色した指。


 真新しいかさぶたがいくつもできている指。


 チカは帰宅するなり飯も食わずに一心不乱に爪をいじるようになった。


「おい、飯は」


「ない。お腹空いてないし」


「んなわけあるか。お前昼もまともに食ってなかったじゃねぇか」


「だって何食べても美味しくない。あ」


 カッターを毛抜きに持ち替え、出来たささくれの先端をつまむ。


「良いやつ出来たのかよ」


「うん」


 チカ曰く、ささくれには良いやつと駄目なやつがあるらしい。


 爪の脇に出来る太くて硬いものは良いやつ。


 指の甲に出来る薄皮が剥けただけのものは駄目なやつ。


 良いやつが出来たときに毛抜きを使うようになったのは、ボロボロになった自分の爪ではもう満足に剥けなくなったからだろう。


「なぁ」


 返事はない。


 聞こえてないわけはないから単純に無視しているのだ。


「お前のそれ、なんか意味あんの?」


 どこかぼやけていた視界のピントが合う。


「だってそうだろ。飽きもせずに何度も何度も。お前会社の連中に心配されてたじゃねぇか」


「……別に意味なんてないんじゃない?」


「ああ、そうかよ。じゃあ」


 俺は知っている。


 こいつはとうに限界だ。


 「意味もねぇことで他人様に心配かけてるお前はクズだな」


 チカは一瞬フリーズした後、唇を噛んだ。


「そんなの、分かってるよ」


「分かってて止めねぇのか。大した神経の太さだな。周りの人間に心配ばかりかけて、お前の存在自体が迷惑になってんじゃねぇのか?最近しょうもないミスばっかりするって言ってたしよ」


「そんなの分かってる!」


 体を縮こまらせたチカが耳を塞いで叫ぶ。


「分かってるよ!迷惑ばっかりかけてるって!でもだってどうしようもないんだもん!私、自分なりに努力してるつもりなのになんでか全然うまくいかないんだもん。もっと頑張らないといけないのに……っ。もう、全然頑張れないんだよっ」


 もう嫌だ、と消え入りそうな声で零すその目からは止めどなく涙が溢れている。


 ああ。


 こいつは今感情にむしばまれている。


 最適解を優先してないがしろにしてきた、自分の感情に。


「頭痛い」


「ろくに寝てねぇからだろ」


「ご飯の味がしない」


「気のせいだ」


「どうして何もうまくいかない」


「お前の努力不足だ。自分で言ってたろうが」


「明日になるのが、怖い」


「どうあがいたって時間は止まらねぇぞ。死なねぇ限りはな」


「────」


「前にも言ったろ。必要なら背中押してやろうかって。生きて延々迷惑振りまくくらいなら俺が一瞬で終わらせてやるぞ」


 あの時のように軽く受け流すこともなく、涙を流したまま自分の指先を見つめる。


「もう、疲れちゃった」


 どのくらいそうしていたのか、チカが呟いた。


「私も自分らしく生きたい。毎日楽しく生きたい。これじゃあなんのために生きてるのか分からないじゃない。生きるために仕事をしているのか、仕事をするために生きているのか。私の人生は私のもののはずなのに」


「ぷ、っく。あははははっ」


 思わず吹き出すとチカがまた耳を塞ぐ。


「おっかしいの。自分らしく生きたいだって?そんなの本当にあると思ってんのかよ。らしさ、なんてのは他人が勝手に造りあげるレッテルだよ、自作するものじゃない。なのに自分らしく生きたい、だなんてあまりにも哀れでおかしくて涙が出ちゃうね。あー、俺には分からないって?分かるわけねぇだろ。そんなの考えたことすらないからな」


 頭を潰さんばかりに力を込めた両腕が白く震える。


「逆に聞いてやるよ。お前の言う自分らしくってどういうことなんだ?どうやったら自分らしくなんだよ。お前には無縁のもののくせに」


「黙ってよ」


「ああ、そうだな。俺から見たお前のらしさってやつ教えてやろうか。お前はそうするべきことを何よりも優先して動く奴だな。上に愛想良く返事して、下に甲斐甲斐しく世話して、なんとも思ってねぇくせにウケのいい他人のリアクションをパクってヘラヘラしてんの見てると最高にお前らしいぜ。まるでつぎはぎ着てまともな人間のふりしてるだけのマネキンだ」


「もう黙ってよ、お願い……っ」


「最近のお前はそれすら出来てないけどな。マネキン以下だ。そんなお前が、らしさなんて口にすること自体が思い上がってんだよ。せめて自分の感情で動けるようになってから言え」


「っそれは全部君が奪ったんでしょ!」


 振り絞るように吠えたチカの声が部屋に響く。


「違うね。お前が捨てたんだ」


 こいつが自分をないがしろにしなければ俺は生まれなかった。


 チカはいつもオトナの顔色を窺っているような子供だった。


 大人の期待に応えるのが当然。反抗期なんてもっての他。親は従い、尽くすのが子供の義務。そうすることが正しいのだと信じて疑っていなかった思考停止型の優等生。


 最適解を選択して実行しているせいで周りの大人は誰もその欠陥に気付くことがなかった。


 オトナと呼ばれるカテゴリーにどっぷり浸かってからは尚のこと、周りの人間にとってチカは非常に都合のいい立ち回りをする人間になっていた。


 俺が生まれたのはそんな頃合いだ。


「自分で捨てたくせにさんざん利用して、今更被害者ぶってんじゃねぇぞ」


「うるさいっ。いつもいつも頭の中でぐちぐちぐちぐちうるさいんだよぉっ。捨ててない、捨ててない、捨ててないっ。そんなの、私のせいじゃない!────お願い」


 びゅう、と強い風が吹く。


 俺とチカしか知らない、脳裏に広がる秘密の屋上。


 摩天楼から伸びていた太いロープは有刺鉄線にすり替わった。


 その上を見えもしない救いってやつに向かってこいつは綱渡りしている。


 後戻りすることなど出来ようはずもない。


 なら、その背中を押してやるのは俺の役目だろう。


「もうやめて。誰か」


 助けて、と懇願するように呟く。


「誰か……お願い」


「だから言ってんだろ。学習しねぇ奴だな」


 そっと伸ばした指先で背中を小突く。


「助けてほしいなら俺が助けてやるってよ」


 チカは有刺鉄線に血まみれの足を引き裂かれながら、摩天楼の隙間に揺らめいて消えていった。


 □


 時計の音だけが響く部屋の中でささくれを剥く。


 ぷつんとちぎれた皮の奥からじわりと血が滲んだ指をそのまま口に含んで舐め上げる。


「ふぅん、痛いじゃん」


 くつくつと笑ってふと視線を投げた姿見に、指を咥える自分の姿が映っていた。


「見てんじゃねぇよ」


 手近にあったマグカップを振りかぶってぶん投げる。


 ガシャン、と音を立て鏡は大きな波紋を作って崩れ落ちた。

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ささくれ 須和田 志温 @keyconi

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