第2話 ボクが勇者になった日

 女神さまは遥か天上の雲の上より、聖なるかめの水鏡に映る大地をご覧になります。この頃は、地上に魔物たちが跋扈ばっこする光景に、たいそう心を痛めていました。そこで、大地の人々への慈悲深きお考えから、水晶の枝のような美しい人差し指で、水鏡に映る一人の青年をふとお示しになり、


「……ぶいぃっきしッ!!」


 この者に民へのよこしまなる支配をしりぞける力を授けます、とおっしゃったのです。

 御使みつかいのおさは、指し示した青年に勇者の力を授けるために、翼を広げます。女神さまは御使いの出発を見届けたあと、しばしの眠りにつきました。

 女神さまは花粉症を患っていましたが、後世の人々はこれを「神のいたずら」と呼んでいます。


――『女神ドジリエルに関する福音』



 勇者の力を授けて一ヶ月後、御使いの長の連絡を受けて、女神さまは地上へと向かっていた。


「まことでございますか? わたくしの示した者とは別の者に、勇者の力を授けてしまったと?」

「違います。女神さまが、お決めになった者とは別の者をお示しになったのです。私は天界を発つ前に、間違いないのか何度も確認しましたのに……。よって女神さまの過失が百パーセントです」

「そんなまさか。花粉症で早く終わらせたかったとはいえ」

「オッサンじみたでかいくしゃみをかました拍子に、ズレて隣の子になってしまったのでは」

「わたくしの数少ないコンプレックスに、踏み込まないでくださいませ」

「ほら見えてきましたよ、勇者の住む村が」


 雲を抜けると、はるか地平まで続く大陸が現れる。足元に見える小さな村はトーイトーイ村。中央からは遠い遠い辺境の田舎である。

 この村には、ロランという若い戦士が暮らしている。女神さまが勇者の力を授けようとした本来の相手だ。そのかいなは大の男を軽々持ち上げ、拳は岩をも砕く。野生動物と張り合える俊敏な脚力と、十人に押されて揺らぎもしない、強靭な足腰をしている。その噂は村の外どころか、天界の女神さまに届くほど。英雄となる将来を嘱望された青年だ。


「ラル、おーい、ラル、いないのか?」


 ロランは幼馴染のラルの家を訪ねたが、どうやら留守のようだ。

 ラルというのは、何を隠そう女神さまが誤って勇者の力を授けてしまった、村の一青年だ。そのかいなは女子供にも劣るへなちょこ、拳は猫の手のように可愛らしい。ちょっとした坂道で音を上げる脚力と、強風でもよろけてしまう、薄弱な足腰をしている。

 そんなラルのか細い声は、なぜか下から聞こえてきた。


「ロラーンっ、助けてー」


 声を辿ると、なんと落とし穴がある。その中をのぞき込むと、五メートルはある空洞の底、ラルは半べそで座り込んでいた。ロランはロープ代わりに近くの木のつるを下ろしたが、渋い顔でぷるぷると首を振るばかり。


「分かった待ってろ」


 呆れたロランは落とし穴を降り、ラルを背負って穴を登った。その間もラルはぐずっていたが、脱出して降ろされると、忘れたように笑顔になった。


「えへへ、ありがとう」

「また村の悪ガキにいじめられたのか?」

「いじめられたというか、連れてこられて落とし穴に落とされたというか」

「たまにはやり返したらどうなんだ。殴り返せとは言わない、村長にチクるとか」


 ラルの身体は土だらけに傷だらけ、腕や足も、落ちた際に打ち付けたらしかった。明らかな傷害事件なので、村長の耳に入れば何らかの罰は下るだろう。


「これくらいで済むなら、やり返さない方がましだよ。もっと痛い思いはしたくない」

「男らしくねーな」

「えへ、本当だよね。女の子だったらまた違ったのかな……ところで、何か用事があって来たんじゃないの?」

「そうだった。ラルに伝えなきゃいけないことがある」


 親しげに話していたロランは、改まった調子で姿勢を正した。

 対照的に、ラルは子供じみた愛くるしい表情で、パシと手を打った。


「じゃあ、クッキーでも食べながら話そうよ。昨日作りすぎちゃって、おすそ分けに行こうって思ってたし」

「お前、そういうところな」

「……?」


 嬉しそうに鼻唄交じりで紅茶とクッキーを用意するラル。剣よりティーカップ、鎧よりエプロン、そんな男らしさの欠片もない幼馴染を見るロランの内心は複雑だが、クッキーの甘味にほだされて、何も指摘できずにいる。


「ところで、話って?」

「ああ。王国軍に召し抱えられることになった」

「君が? すごいじゃないか! おめでとう! ロランの実力なら、当然だけどさ」

「ラルならそんな反応をするだろうなと」

「たはは、分かりやすいんだなあ、ボク」


 わざわざ家にやってきて伝える理由など考えもせず、暢気のんきなラルは自分のことのように喜んだ。


「つまり、今日でお別れだ、ラル」


 口元まで来たティーカップが一瞬――それは動揺を察するのに十分過ぎる時間ではあったが――フリーズする。そしてラルは紅茶を飲まずに、コースターに戻した。


「ああ……そっか。王都で暮らさないといけないもんね」

「つらくなんて、ないよな?」

「つらいよ」


 本当にそう思っているように見えないほど、何の気無しの微笑みで、ラルは答える。


「小さい頃から一緒に過ごしてきたんだ、君がいなくなると、ボクの心にはポッカリ穴があいてしまうよ。だからつらい。でも、君の幸福を思えばね。今までどんなに痛くても耐えてきた。我慢は得意ワザだ」

「ラル……」

「ボクの方からなら、頑張れば会いに行けるしね」


 ラルが精一杯の笑顔で送り出そうとするほど、ロランの旅立ちの足取りは重くなっていく。

 そんな甘酸っぱい成り行きを、ワクワクしながら覗いていたのが女神さまである。


「ふぅ……これはなんとも……わたくしなぜだか、おへその下の辺りが熱くなります。御使いたちの間で流行していらした、サッフォなる方の詩を拝見した時のような不思議な高揚感……」

「どうしましょう、今からでも勇者の力を授け直しますか?」

「いえ、もう少し見守ってみますっ!」


 女神さま、目がキラキラである。


「大丈夫なんですか?」

「大丈夫です! わたくしは大丈夫!」

「女神さまではなくて」


 そのとき、村中に警鐘が鳴り響いた。敵襲を告げるやぐらの合図だ。

 村一番の戦士のロランは当然、迎え撃つために飛び出していった。


「女神さま、チャンスです」

「ええ、勇者(仮)に接触しましょう」


 自分が出ていっても足を引っ張るだけなので、ラルは家の中でロランの無事を祈った。すると突然目の前に、六枚の翼と神々しい後光、輝かしい天輪をたたえた美しい女性が現れたものだから、たまげて腰を抜かした。


「あ……あなたは?」

「わたくしは女神。はじめまして、勇者ラル」

「女神さま!? それに……ボクが勇者? ロランじゃなくて?」


 痛いところを突かれて、女神さまは表情がひきつった。


「えっ、ええ。間違いなくあなたです、勇者ラル。女神が選択を間違えるなどありえません」

「ロランではなくボクを選ぶなんて……ひょっとして昔ロランが村の女神像を壊してしまったから? だとしたら許してください。アレはボクが怖いって言ったからで……」

「え、イヤ違っ……そこはそのぉ……えっと、あのホラ、アレでございます! 勇者が強すぎると世間が甘えて堕落してしまうというか、その関係であなたの方が適任だったというか、そんな感じのアレなだけでございますので」

「そうですか、ロランが嫌われてるわけじゃなくて良かった」


 苦しい釈明だったが、ラルはほっと胸を撫で下ろした。女神さまは取り返しのつかない罪悪感にさいなまれていたものの、微笑みを崩さないようにこっそりキバっていた。


「では本題でございます、勇者ラル。魔王が復活して、各地に魔物が現れたのはご存知ですね」

「はい」

「魔物を倒すには、強い光の力――勇者の力を叩き込まなければなりません。そうしないと、闇の魔力ですぐに回復してしまうからです」

「なるほど」

「つまりあなたが剣を取るのです、勇者ラル。いま、この村にも魔物が現れました。村の存続はあなたにかかっています」

「えぇ……ボクなんかが、できるのでしょうか?」

「できるできないではなく、やるのです。時間は待ってくれません。これはあなたにしかできない。間違った選択で後悔したくないでしょう?」

「は、はいっ!」


 尻込みするラルを自己啓発みたいな文句の連発で何とか追い立てて、女神さまは冷や汗を拭った。


「これで、なんとかなりそうです」

「でも、いよいよ『間違えた』とは言えない状況になりましたね」


 御使いの長に指摘されると、女神さまは崩れ落ちそうになった。しかし何とかこらえて、体勢を立て直した。


「とりあえず、もう少し見守ってみましょう」

「ところであの子、剣を忘れていきましたが」

「え」


 御使いの長が示す先には、刃こぼれ一つない、手垢もない剣が飾られている。ロランと違って、ラルには武器を携帯する習慣がない。


「いえ、だ、大丈夫です。いざとなればグーや張り手でも効力を発揮しますので」


 混沌とした神託の裏で、ロランは村に現れた魔物たちとの激闘を繰り広げていた。


「クソッ、魔物ってのは、想像の百倍はタフだな……!」


 既に二百や三百は斬り伏せているのだが、魔物たちは何度も蘇ってくるため、次第にロランにも疲れが見え始めていた。


「ロラン!」


 走ってやってきたラルは、もう体力を使い果たして倒れそうである。


「ラル、何しに来た!? 隠れてろ!」

「さっき女神さまが現れて、魔物を復活させないためには、勇者の力を得たボクがトドメをささなきゃいけなくて……」

「何ィ!?」


 普段ならそんなおとぎ話があるかと疑ってかかるところだが、ロランは魔物の異常な再生力を目の当たりにしていて、何より、ラルはこんなときに嘘をつかないと信じている。迫る魔物を斬り倒して、ラルの肩を抱く。


「やってくれ」


 ラルはロランに短刀を借り、顔を背けながら、倒れた魔物に突き立てた。

 ところが、刺さらない。

 そして、何も起こらない。


「アレ……?」

「話が違うぞ!?」

「ボクにも分かんないよー!」


 とにかく、ロランはラルを担いで、迫る魔物たちから距離を取った。

 様子を空から窺っていた女神さまも、想定外の展開に首を傾げていた。


「女神さま、天界より今の戦闘の出力ログが届きました。原因が分かるかもしれません」

「拝見しましょう。えーと、『ラルはゴブリンに短刀を突き立てた』……ここですね。……あっ」

「『しかしダメージを与えられない!』と続いてますね。ダメージが入っていないから、勇者の力が発動しない、と」

「見かけ以上に慎ましやかな攻撃力でいらっしゃいましたか……そうだ、ロランの剣があるでしょう。短刀よりは攻撃力が高いはずです」

「重すぎて装備できないようです。……どころか、ゴブリンにダメージを与えうる攻撃力の武器は、軒並み勇者ラルの装備条件を満たしていないようです」

「何と! とんでもねぇポンコツってコトでございますか!?」

「残念ながら。どうしましょうか、間違いを認めて勇者の力をロランに授け直せばあるいは」

「いけませんそれだけは! 今は見守りましょう、彼らの奇跡を信じるのです」


 ラルを肩に担ぎ、もう片手で剣を振るっていたロランも、ついに息が切れてきた。魔物は倒しても倒してもすぐに復活するので、らちが明かない。その上、ダメージと疲労を蓄積していたのは、ロランだけではなかった。

 甲高い音が響いて、ロランの剣は根元から折れてしまった。


「ちっ!」


 折れた剣を魔物に叩きつけて手放し、ロランは再び距離を取ろうとした。


「ふぁ、……っばぁっくしょぉいッ!!」

「何ですか女神さま、急に」

「花粉症が……多分この村の木で」


 そのとき、奇跡が起こった。

 ダウンしている魔物につまずいて、ロランは転倒した。しかも不意のことだったのでうまく受け身が取れず、担いでいたラルの尻を叩きつけてしまった。

 つまずいた魔物の頭に。

 すると魔物は光に包まれ、消えてしまった。


「……これは……?」

「女神さまが言っていたのは本当だったんだ! ……そうか、ボクがダメなら、ロランがボクを使えば・・・良いんだよ!」

「良いのか?」

「怖いけど、ボクはロランを信じる。ロラン、ボクで魔物を殴るんだ!」

「……おう!」


 ロランとラルの快進撃が始まった。ロランがラルを剣のように振り回して魔物に叩きつけると、魔物たちは次々に消えていく。

 数十いた魔物は瞬く間に全滅し、村は平和に戻った。


「……ふう」

「大丈夫、ロラン?」

「疲れただけさ。お前こそ大丈夫かよ、ラル」

「へーき」


 これには成り行きを天に任せた女神さまもご満悦で、とにかく目下の危機は去ったと一安心である。


「一時はどうなることかと思いましたが、見守っていて正解でした」

「女神さま、大丈夫なんですか?」

「ご覧なさい、彼らならきっとうまくやってくれますでしょう」

「いえ彼らではなくて。女神さま、鼻血が」

「うぇ!? こ、こここれは、かっ、花粉症かと!」


 奇妙な戦い方で、魔物を撃破した村の二人の若者。彼らの噂はすぐに大陸各地に広まり、間もなく、王国公認の勇者として、魔王討伐の旅に出ることとなった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る