月夜、波間に鱗は輝く
@kurokikamome
ある夜
潮風の匂いが残る夜。僕は山から吹き降ろす風を背中に押されて坂を走って下っていた。
もう夜も遅いけれどお酒の入った両親は睡魔に囁かれて、それはもう気持ちそうに床に付いているだろう。
肩から二の腕まで降りてきたパーカーを必死に持ち上げ、女の子に間違われる綺麗な撫で肩に背負いなす。肩にさげたバックの感触が心地よかった。
僕を追い返さんとする風なんて全く怖くない。月の出た夜の道を一人で走ることに心地良い背徳感すら感じていたのだ。
足がほつれないように、前へ。
前へと走っていく。
今の僕は誰にも止められないとばかりにターンすれば、髪の毛に張り付いた汗が波間の泡のように一瞬だけ視界に映った。
どんな妖精よりも、いかような美女とのダンスでも物足りない。そのくらいに僕は素敵な人を見つけたのだ。
それは仲の良い両親にも、毎日遊ぶ友達にも、教会の牧師様にも言ってはいけない。僕だけの宝箱に仕舞い込んで、日に日に頬を緩めながら見つめるように素敵な出会いだったのだから。
「おまたせ!」
僕の声が海岸に響いた。靴と靴下を脱いだ脚には波が迫り、僕のくるぶしまでを包み込む。
すると少しずつ、彼女は姿を見せた。
「今日は早かったんだ」
「だって君に会えるんだから!そりゃあね」
海の中から姿を見せた彼女は友達たちが見たらポセイドンだって惚れるような笑みを浮かべて僕を先導していく。
片手に靴のかかとを揃えて持ち、僕は
「僕ね──」
「少しだけ待って。貴方の顔が見えないわ」
逸る僕を抑え、彼女は「素直な子」と優しく呟いた。
「そのまま座ってくれる?せっかく月が綺麗なんだから、もっと近くで見ないと」
「う、うん」
ズボンの裾をもう少し上げて腰を下ろす。家の硬い椅子とは違う感触が、また非日常を楽しいものにさせていく。これから何が起こるのか。頭の中が未知で窒息してしまいそうだ。
彼女はまず頭を水中から出し、次に肩を出して僕の隣より少し海に近く座った。
深く青い瞳は月影となって黒く映ったが、それは水気の残る白い肌と、しなやかな銀髪の中に違和感なく存在していた。
僕は矜持として彼女の鎖骨から下を見ることはしなかったけれど、腰から下には月光を受けて虹色に輝く魚の体があるのだろうことは容易に想像がついていた。
鼻先がくっついてしまうようなほんの僅かな距離。瞳の交錯は一瞬で、彼女の顔は真珠の様に優しく変わっていた。
「何度見ても可愛い顔してるね、女の子かと思っちゃう」
「あ、あの今日はこれ渡したくて!!」
心臓が早鐘を打つ。このままだと身が持たないと思ってバックの中を漁って取り出したのは、一つの林檎。なけなしのお小遣いで貯めて買った、悩んだ末のお礼の品だ。
「あの、この前は助けてくれてありがとう。こんなことでしかお礼出来ないんだけど」
「十分よ、ありがとう」
「僕は本当はもっとお礼したいんだ。だけど君のことは誰にも言いたくなくて……」
「そうだね。だって船を沈めちゃうんだから」
「そんなの!」と、僕が反論に声を荒げようとすると、彼女は両手を使って器用に体を引きづり、僕の肩に自身の頭を預けた。
膝の上に乗せた林檎が転がろうとするのを受け止め、「へへっ」と笑う声は、やはり彼女が人魚である事の証明のように思えて、美しいはずなのに心の中に響いてこない。
残るのは僅かな苛立ちと、無力感である。
「君が歌えば船が沈むなんて大嘘だ!だって溺れてた僕を助けてくれたじゃないか!!」
「大きな声は駄目。誰かに見つかったらどうするの?」
「僕が守るよ!」
「ふふ、それは頼もしい」
彼女は僕に体重を預けて手の中で林檎を触る。時折寄せてくる波に合わせて尾びれを動かしているのが、この時間を楽しんでくれているような気がして嬉しかった。
「名前は?私はコバルト」
「僕の名前はアジュトン……」
「良い名前だねー、人の名前なんて久しぶりに聞いたかも」
「そうなの?」
「たまに私を食べようと来るぐらいだもの。あっ、それからも守ってくれるの?」
僕は大きく頷いて見せるけど、彼女は笑って「冗談だよ」とだけ言った。
「後五年はかかるかなぁ」なんて言われてしまうと僕だって男だし、この日に彼女と一つの約束を交わしたのだ。
「今日から五年後の夜にまた会おうね。私、楽しみにしてるから」
そうして五年後。新月の不気味な夜に一人の男の姿が見えなくなった。
まるで誰か船頭でも乗せているかのように小さな船で迷いなくオールを漕ぐ彼は、幻のように一瞬にして姿を消したのだ。
後日見つかった船には、虹色に輝く魚の鱗があった。
月夜、波間に鱗は輝く @kurokikamome
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