システム会社のハーレム課~物語世界の住人が転生してきたら~

七森香歌

システム会社のハーレム課~物語世界の住人が転生してきたら~

 会議から戻って自席に着いた俺は溜息をついた。先程の会議中から何万通もメールが飛んできていたのには気がついていた。しかし、うちの課の連中が俺の離席中に何かしらの対応をしてくれているとは思えない。

 うちの課――第三システム課は訳あり人材の掃き溜め場だ。社員の大半が所属する第一システム課と第二システム課は客先に常駐し、大手システム会社の二次請けという立場で日々勤務しているが、俺たち第三システム課はシステムの自社内開発という体で社内へと留め置かれている。要は社外に出すには不安な連中をまとめて放り込んでおくためのカオス度社内ナンバーワンな部署である。ハーレム部署などと揶揄されることもある――男が俺しかいない上に美女揃いなのは事実だが、気苦労が多すぎて割りに合わないので、正直誰か代わって欲しい。

 うちの課の連中にはとある共通点がある。常人ならば俄には信じられないことだが、皆、童話の世界から転生してきたのだというのだ。

 しかし、彼女たちほどではないとはいえ、俺自身も特殊な事情を抱えている以上、そういった事実を信じざるを得ない。

 俺はごく普通のサラリーマン家庭で育ったが、就活に失敗し、俺の伯父が社長を務めるこの小さなIT企業にコネ入社した。この程度の事情なら、大して珍しくもないが、この会社を興した前社長にして祖父である人物は、日本人ならば必ず一回は名前を聞いたことがあるレベルの有名人だった。

「はい、ウラシマシステムズ株式会社でございます」

 誰の趣味かはわからないが、俺が小学生くらいのときの流行歌のメロディと思しき電子音が固定電話への着信を知らせた。車椅子に乗った女が受話器を取る。思わずうっとりと聞き惚れてしまうような美しい声が響く。

 ウラシマシステムズ株式会社――創業者の姓を冠するこの会社は、祖父である『浦島太郎』が立ち上げた会社だ。

 祖父は青年時代のある日、浜辺で子供にいじめられていた亀を助け、竜宮城へと連れていかれたことがあるらしい。竜宮城でしばらく過ごした後に、祖父が地上に戻ると数百年が経過してしまっていた。ここまでは、世間に出回っている『浦島太郎』の物語通りだ。

 かの有名な童話の時代から数百年が経過した日本は、昭和の高度経済成長期の真っ只中だった。知り合いも家族も長い年月の間に死に絶え、天涯孤独となってしまった祖父は、竜宮城からの帰り際に乙姫から渡された玉手箱の中身――金銀財宝を元手に会社を作った。それがこの会社だった。

「あの、湊翔みなとさん、今、お時間よろしいですか?」

 この会社はいわゆる同族経営の会社だ。社内には同じ浦島姓の人間が何人もいるため、混乱を防ぐためにこうして俺も名前で呼ばれている。初代社長である祖父が年齢を理由にリーマンショックの少し前にその座を退いた後には、俺の伯父にあたる沖嗣おきつぐが会社を継いでいるし、社内の要職についているのは俺の親戚が多い。経営会議で顔を合わせる面子は親戚の集まりで顔を合わせる面子とほぼイコールだ。今日の会議でもなぜか今度のお彼岸の集まりのときに取る弁当の相談をしていた。大丈夫かこの会社。

 六歳上の従兄で既に専務の地位にある悠海はるみの口利きで、就職先に困っていた俺がこの会社に入社して三年。去年の年末の査定で俺は半ば強引にこの第三システム課の課長へと昇進させられた。現社長の息子にして、次期社長とも目される従兄の悠海はるみという前例がいる以上、浦島一族に名を連ねる俺がこの歳で何らかの役職に就くのはさほど不自然なことではない。しかし、押し付けられるのがいくら美女ばかりでも変人揃いの部下たちだとは思ってもいなかった。とんだ貧乏くじだ。

 先程、電話応対をしていたのは人魚姫の生まれ変わりの魚住うおずみうただ。美しい声が男性の顧客に非常に評判が良いので、主に電話番をさせている。前世で魔女にもらった人間になるための薬の影響で、足が不自由であるため、普段は車椅子に乗って生活をしている。物語の世界で一緒になれなかった王子の生まれ変わりがこの現代日本にいるなどと主張しており、それが俺なのだと彼女は言っていた。長身で爽やかイケメンの悠海はるみならともかく、十人並みの容姿でいまいち冴えない俺が王子の生まれ変わりはありえない。俺の設定が飽和している。

 窓際の席でうたた寝をしているのは、眠り姫の生まれ変わりだという森城もりしろいばらだ。彼女は業務時間中、ほとんどこうして自席で居眠りをしている。しかし、どこかにイケメンレーダーが搭載されているのか、取引先のイケメン営業や専務の悠海が来たときだけは例外的に起きている。あまりにも寝すぎなので過眠を疑って医者に行くとかしろよと思う反面、何でこの勤務態度でクビにならないんだと俺は常々思っている。

 ブランド物で身を固め、何か好き放題に様々なことをキーキー声で喋り散らしている気の強そうな美女――望月もちづきかぐやはかぐや姫の生まれ変わりだ。ルナという源氏名を使って副業でキャバクラにも勤めており、男たちに日々貢がせまくっているらしい。仕事が終わる時間になると、彼女の同伴を希望する男が日替わりで迎えに来る。そもそもうちの会社って副業大丈夫だっただろうか。それもキャバクラって。

 そんな高飛車なかぐや姫の話を聞いている雪のように白い肌と林檎のように赤い唇が美しい娘――加賀美雪姫かがみゆきは白雪姫の生まれ変わりだ。曲者揃いのこの部署内では恐らく比較的まともなほうだが、とにかく人を疑うことを知らない。素直で優しいが、とにかく騙されやすい。かなり頻繁にフィッシング詐欺やら振り込め詐欺やらに引っかかっているようで、それが原因で借金を抱えているらしい。勤務中も、顧客のいうことを鵜呑みにしすぎて、度々トラブルを引き起こしている。

「ん、どうしたの灰屋さん」

 灰屋はいやエラ――俺に話しかけてきたこの女性はシンデレラの生まれ変わりだ。仕事に真面目に取り組んでくれる、この部署ではありがたい戦力だが、一分たりとも残業をしようとすることは決してなく、定時が来るとそそくさと帰っていく。プチプラからハイブランドまでいろんなコスメが溢れている現代日本に転生したことで、メイクの楽しさに目覚めてしまったらしく、毎日完全に別人レベルの違う顔で出社してくる。しかし、終業後すぐに社外で彼女らしき人物を見かけた人によると、定時直前の十七時五十九分までは完璧だったはずのメイクがどろどろに溶けて顔面のところどころで濁った色を生み出しており、普段の美しい彼女とは同一人物とは思えない状態になっていたという。一体どんな魔法を使えばそんなことになるんだ。女って怖い。

「さっきからずっとリソースの使用率が右肩上がりで。システムにも繋がりにくくなっているみたいで、お客様からも苦情の電話が来ていまして……そちらは魚住さんが対応してくれてますけど」

 魚住うた――人魚姫のほうを目線で示しながら、シンデレラはそう言った。彼女は両手で持っていたノートPCの画面を俺へと見せてくる。画面には統合システム監視ソフトのグラフが表示されていた。

「あー、これね、さっきからメール飛びまくってるやつ」

 俺は百パーセントにほど近い値を示しているグラフを見てそう言った。CPUもメモリももう限界だ。

「たぶんこれ、今朝の作業の影響で、悪さしているプロセスがいると思うんだけど、手っ取り早く再起動しちゃったほうがいいかな……」

 俺は自分のノートPCのロックをパスワードを入力して解除した。黒い画面のターミナルエミュレータを立ち上げ、問題のサーバへ自分のアカウントで接続を試みる。あっ、と俺は舌打ちした。

 サーバに繋がらない。そういえば、これは先週新設したばかりのサーバだったような気がする。俺に一極集中した業務を片付けるのに忙しくて、hostsファイルの更新を怠っていたような。

 ああもう、と俺は自分自身にいらつきを覚えながら、先程入力したサーバのホスト名を消す。脳内からそれっぽい感じのIPアドレスを引っ張り出して画面へと打ち込んでいく。

 今度はサーバに無事にログインできたので、俺はアカウントを特権アカウントへと切り替え、コマンドを叩いていく。

「あー……やっぱりか。なあ、大狼おおがみさんどこ行ったか知らない? 確か、今朝の作業したの大狼さんだったよね?」

 傍らのシンデレラへとこの第三システム課の最後の一人の行方を俺は問うた。

「ええ、そうですけど……大狼さんなら、三十分ほど前にコンビニに行くと言って出ていかれましたけど戻っていませんね……」

 はあ、と俺は溜息を吐いた。

 大狼花菜おおがみはな――赤ずきんの生まれ変わりだという彼女は、とにかく誘惑に弱く、迷子になりやすい。何故か毎日赤い服を着てくるため、遠目にも非常に目立ち、いてもいなくてもすぐにわかる。今日はワインレッドのワンピースで出社してきていたはずだが、シンデレラの言う通り、フロアにその姿はない。大方、コンビニの行きか帰りに何かに興味を引かれてふらふらとどこかへ行ってしまったに違いない。つい三日前にも、出社途中にどこかへ行ってしまったらしく、なぜかこの関東から遥か遠くの知床の山奥で発見されるという事件があった。迷子のスケールが大きすぎて最早意味がわからない。

「おーい、加賀美さん、今、手空いてる? また大狼さんがどこか行っちゃったみたいだから、探してきてほしいんだけど」

 一方的なかぐや姫の話を頷きながら聞いていた白雪姫へと俺は立ち上がって声を張って言った。はい、と彼女は返事をすると、かぐや姫へと軽く会釈し、執務室を出ていった。

 白雪姫が出ていくのを見送ると、黒い画面へと向き直り、コマンドを再び入力しながら、俺は部下二人――かぐや姫と眠り姫は戦力外だ――に指示を飛ばす。

「灰屋さんは、アラートメール飛ばないように今から十分だけ抑止かけといて。さっきみたいにまた何万通もメール飛んだら、受信ボックスがパンクするから。魚住さん、これからAPサーバ再起動するんだけど、もしお客さんから問い合わせきたら、作業影響による瞬断だって言っといて」

 はい、とシンデレラと人魚姫は頷いた。シンデレラは立ったままノートPCの画面を操作して、統合システム監視ソフトの設定を変更していく。

「湊翔さん、準備できました。いつでもどうぞ」

「ありがとう」

 俺はシンデレラへ礼を言うと、エンターキーを叩き、準備していたコマンドを実行させる。程なくして画面を覆っていた黒色がすんと消失し、アイコンが乱雑に並んだデスクトップ画面が現れた。明らかに場当たり的に作られたと思しき「一時退避」、「退避フォルダ」、「バックアップ」、「一時フォルダ」、「tmp」、「いろいろだいじなもの」、「etc」、「新しいフォルダ」……なんだっけこれ、と思いながら俺は黒画面を立ち上げ直す。画面上に白い文字が刻まれていくのを眺めながら、サーバの応答があるのを俺は待つ。画面上に映し出される文字列がタイムアウトを示す文言ではなくなったのを確認すると、俺はシンデレラへと声をかける。

「再起動終わったぽいけど、そっちどう? CPUもメモリも下がった?」

「ええ、今朝の作業前と同じくらいまで下がってます」

 了解、と応じながら俺は原因となっていたプロセスが消えていることを確認し、ぐっと伸びをした。後は、赤ずきんが戻ってきたら色々と注意だけすれば、今日はさほど残業せずに帰れそうだった。


 二時間ほどが過ぎ、白雪姫が赤ずきんを伴って執務室へと戻ってきた。白雪姫曰く赤ずきんは今日は三駅先の税務署にいたとのことだ。だからどうしてそうなるんだ、と俺は頭痛を覚えざるを得ない。赤ずきんには物理的に首輪をつけておく必要がある気がするが、傍目には彼女のよりも俺の方がやばい奴にしか見えないし、警察沙汰になりかねないので実行に移す勇気はない。

「ちょっと湊翔みなと、黒糖宇治抹茶タピオカチーズミルクティ買ってきなさいよ、三分以内」

 赤ずきんの処遇について悶々と考え込んでいると、気の強そうな黒髪の美女が居丈高に俺へと指図する声が飛んできた。とりあえず何だその舌噛みそうなタピオカとチーズがどうのこうのっていうやつは。というか、それよりも。

「……あのね、望月さん。一応俺、君の上司なんですけど……。課長と呼べとは言わないけど、せめてさん付けくらいはしようよ、人として」

「嫌よ」

 俺がかぐや姫に一応上司としての注意をすると、間髪を入れずに非常に端的な拒否の言葉が返ってきた。

「何で私が湊翔ごときの言うことを聞かなきゃいけないのよ。そもそも、私と湊翔、どっちが人間として上かなんてわざわざ言わなくなってわかっているでしょう?」

「さいですか……」

 かぐや姫の見事なまでの謎理論に俺は返す言葉を失い、撃沈した。とてもじゃないが、彼女には口で勝てる気がしない。

「あれ、望月さん、黒糖宇治抹茶タピオカチーズミルクティって、駅前のカフェで最近期間限定で出てるやつですよね? 私も興味あるので買ってきますよ!」

 ゆるふわっとした感じに巻いたマロンベージュの髪にワインレッドのワンピース姿の女が口を挟んでくる。

「いやいや待って待って、大狼さんは絶対行かないで……君また帰ってこなくなるでしょ」

 新作のタピオカへの期待で大きな目をきらきらさせながら、るんるんと執務室を出ていこうとする赤ずきんを俺が慌てて引き止めると、

「そうよ、というかごちゃごちゃ言ってないで、湊翔が黒糖宇治抹茶タピオカチーズミルクティとトリプルベリーパインアップルヨーグルトスムージー買ってきたらいいだけの話なのよ。さっさと行きなさいよ、殺すわよ」

「やめてくださいよ、望月さん。湊翔さんは私の探していた王子様なんですから殺さないでください。今生こそは私は湊翔さんと結婚するって決めてるんですから」

「……いや、あのね、魚住さん、そんな話決まってないからね……」

 とりあえず俺は、こちらの話に興味を示して車椅子で近寄ってきた人魚姫へと否を唱える。とにかくフルーツがもりもりだということだけがわかるやたらと長い名前の何とかスムージーをかぐや姫はしれっと俺が買ってくるものに追加しているし、もう収集がつかない。こいつら俺を撃沈させておいてくれすらしない。

「そんな、湊翔さん……私のことは遊びだったって言うんですか……! 昨夜だって、あんなに激しく……」

「えっ……湊翔さんと魚住さんってそんな……ふ、不埒ですっ……」

 人魚姫が瞳を潤ませて、全く俺の身に覚えがないことをさも本当のことのように宣うのを聞き、白雪姫が林檎色に赤らめた頬を手で覆ってそう声を上げた。自慢じゃないが俺はこの二十五年の人生で女性と付き合ったこともなければそういった経験も皆無だし、そもそも俺が家柄と役職をちらつかせて自分の部下とそういう関係になっていたとしたらハラスメントとかそういうのに抵触するような。心なしか、どこかから冷ややかな視線を感じるような気がする。

「加賀美さん、俺と魚住さんの間にそんな事実は微塵もないのでちょっと落ち着こうか。あと魚住さん、君の妄想上の出来事をさも本当のことのように言うのやめようね……それにほら、まだ定時前だしそういう話はよろしくないんじゃないかなあと俺は思うわけで」

「でも、湊翔さんと魚住さんって、前世で結ばれなかった恋人同士なんですよね? そう考えるとそういうのもロマンティックですし、そういうイケナイ感じも燃え上がる恋のスパイスっていうものですよね……!」

 この前読んだ雑誌に似たようなことが書いてありました、と純真な黒目を輝かせながら白雪姫は言った。最近、有名俳優の不倫が世の中を騒がせていたが、白雪姫の読んでいる雑誌というのはその手の話を面白おかしく書き立てたマダム向けのゴシップ誌ではないだろうか。その記事の抜粋がネットに出回っていたのをちらっと見かけたが、言い回しが完全にそのままだった。何でも信じ込んでしまう彼女の読書傾向がひどく不安だ。

「加賀美さん、そろそろその話は終わりにしようか。はい以上解散」

 俺は周りに集まってきていた部下たちを強引に追い払う。各々席に戻っていったが、人魚姫だけがその場に残った。

「どうしたの、魚住さん。まだ何かあるの?」

「ええと、先ほどワラシベコーポレーションの大金様からお電話があったんですが、その……湊翔さんを出せとお怒りでいらっしゃって……」

「ワラシベコーポレーション?」

 くだらない妄想話より先にそっちを言えよと思いつつ俺は眉根を寄せる。ワラシベコーポレーションは苦労して契約に漕ぎ着けた大口の顧客だが、何かにつけてねちねちとクレームを入れてくるモンスターなお客様でもある。定時直前に一体何の用だよあの成金めと俺は内心で舌打ちをしつつ、スーツのポケットから社用のスマホを取り出す。

「ところで湊翔さん……今夜こそ、私を朝まで熱く激しく愛してくださるんですよね?」

「そんな予定ないから!」

 俺はスマホの画面に映る受話器マークのアイコンを押しかけていた指を慌てて止め、人魚姫の熱っぽい視線と彼女に勝手に捏造されかけた予定を全力で打ち消した。


 電話を切ると、何の誇張もなく俺の顔面は蒼白になっていた。

 電話の相手はものすごい剣幕で何故か俺の過去の失態まで掘り起こしてねちねちと長時間に渡って色々と言い立てて来たが、とにかくまずいことになっていることだけは理解できた。

 どうにも、うちの部署が要件定義から運用保守まで手掛けているシステムが繋がらなくなっているらしい。昼間にも別件でシステムが繋がりにくいなどといった苦情が来ていたが、それとは緊急度が段違いだ。どうにも今日は厄日のようだった。そういえば今朝の情報番組の占いコーナーで俺のかに座は最下位だったような。営業部の部長である父が顧客からもらってきた卓上カレンダーにちらっと視線をやると、今日は十三日の金曜日で赤口だった。ものすごくげんなりする。

 うちの会社のロゴがでかでかと盤面にあしらわれた時計の長針と短針が一直線に繋がり、十八時のチャイムを奏で始めた。デパートとかでもないというのに何故蛍の光なんだと思わないでもないが、今はそれどころではない。

「お先に失礼します」

 そう言って誰よりも先にそそくさと顔を背けて退社していこうとするのはシンデレラだ。俺は彼女を呼び止める。

「灰屋さん、ちょっと待って。今ちょっとトラブってて人手が必要なんだ。ちょっと残ってくれない?」

「お先に失礼します」

 彼女は俺の顔を見ようともせずにそう繰り返すと、早足で執務室を出ていった。

 俺は主のいなくなったデスクを見て嘆息した。彼女の整頓されたデスクに飾られたジャック・オ・ランタンに似たカボチャの置物と目があった。彼女のデスクにはハロウィンでもないのに、なぜか通年でカボチャの置物がいろいろと飾られている。デスクの下には彼女が室内履きにしている小さなガラスの靴が何故か片方だけ転がっている。

 執務室の扉がとんとんとノックされた。決してシンデレラが戻ってきたわけではない。

「ルナちゃーん、迎えに来たよー! 今日は有名な高級フレンチ予約してあるんだけどどうかなー?」

 中年の男の少し気持ち悪い猫撫で声が扉越しに聞こえた。ルナ――かぐや姫のキャバクラの客だ。部外者が普通にこんなところまで入ってこれるなんて、うちの会社のセキュリティってザルすぎやしないか。

「えー、私今日焼き肉の気分なんだけどー」

 そう口を尖らせながら、彼女はデスクの上に放置していた一体何が入るのかわからないくらい小さいがやたらと高そうなバッグを手に取る。

「それじゃ湊翔、私帰るから」

「……」

 シンデレラと俺のやり取りが耳に入っていなかったわけじゃないだろうに、悪びれるふうもなく堂々と退社していくかぐや姫に俺は最早言葉が出なかった。こいつといい、シンデレラといい、トラブってると言っているのに平然と帰っていくやつの気が知れない。

 十八時五分現在、この第三システム課に残っているのは俺、白雪姫、人魚姫、眠り姫だ。まだ恐らく退勤していないはずの赤ずきんはまたしてもどこかに姿を消している。今日一日ずっと自席で眠り続けている眠り姫を戦力とするために、まだいるかなと思いながら俺は自分のノートPCで社内チャットのアプリを開いた。目的の人物のアイコンの横にオンラインを示す緑色が点灯していた。俺は個人チャットで「ごめん、悪いけどちょっと今すぐうちの課来て」と打ち込んだ。直後、「帰りに一杯奢ってくれるなら」とメッセージが返ってきた。仕方無しに俺は「了解」とメッセージを打ち返した。こいつの”一杯”は高く付く。経費で落ちないかな。そんな領収書出したら総務にいる妹の汐凛しおりにめっちゃ文句言われそうだけど。

 俺がとある人物に社内チャットを送った三分後、いきなりむくりと眠り姫が起き上がった。同時に執務室のドアが開き、爽やかな長身イケメンが姿を現した。従兄で専務の悠海はるみだった。

悠兄はるにい……じゃなかった、すみません専務、お呼び立てして」

「お疲れ様……ああ、そういうことね」

 にこやかに執務室内に視線を巡らせ、眠り姫が起きているのを認めると悠海は納得したように頷いた。悠海は俺へと向き直ると、

「で、この時間に彼女を起こしてまで対処しなきゃいけないって、何が起きてるの?」

「ワラシベコーポレーションのシステムが落ちちゃってて、今日の処理ができないってクレームが来てる。既にだいぶジョブが遅延しちゃってて、このまま最遅超えると工場側でのピッキングやら配送やらが間に合わなくなるって。しかも今日、金曜だからいつもより処理多いし」

「なるほどね。ワラシベか……あんまりゴネられてもなんだよなあ。まだ上に航大こうだいさんいたし、フォローしてもらうか。叔父さんは営業のプロだし、まあどうせ週末の予定なんて明日じいちゃんの船で釣り行くぐらいだろうから、ちょっとくらい残ってもらったって大丈夫でしょ」

 そう言うと、悠海は社用スマホを出すと、俺の父親へと電話を掛ける。確かに俺の父親は、会社の金で買った船で前社長である祖父と釣りに行くぐらいしか週末の予定がないのは事実だが、何だかなあと思わないでもない。とりあえず、俺は思考を切り替えて、現状を打破する方法を考え始める。

 ワラシベコーポレーションのシステムは普段はクラウドで動いているシステムだ。それが繋がらなくなっているということは、クラウド上で何かしらの問題が発生している可能性が高い。一度、状態を確認したほうが良さそうだった。自分のノートPCでコンソール画面へとアクセスし、アカウント名とパスワードを入力すると、クラウドサービスのトップメニューが表示された。画面に表示されている文言がいつもと微妙に異なっていることに気付き、俺は視線を走らせる。

(うっわ、マジか……)

 クラウド上の仮想サーバが死んでいた。そりゃ繋がるわけないよ、と思いながら俺はマウスを動かし、コンソール上からサーバを再起動させる。サーバの起動を待つ間に俺は、今残っている部下三人へと指示を出していく。

「今、ワラシベのサーバの再起動したから、森城さんは正常性確認してから、問い合わせしといて。魚住さんと加賀美さんは森城さんの正常性確認が済んだら分担してジョブの手回し実行を。最遅は二十二時、それまでに絶対間に合わせ」

「湊翔さん、正常性確認取れました。問い合わせも済みましたから、一旦やるべきこともなくなりましたし、私も手回し実行やります」

 俺が話している途中で、一体いつの間に手を動かしていたのか、眠り姫が報告を上げてきた。イケメンが目の前にいると、彼女は隠し持っていたその非常に高いスペックを遺憾なく発揮してくれる。悠海を呼んだ甲斐があった。イケメン効果恐るべし。

「わかった、じゃあ森城さんも頼む」

「湊翔もだいぶ管理職が板についてきたね。決まったときはあんなに嫌だ嫌だって子供みたいに喚いてたのに」

 俺が三人へと指示を出すのを眺めながら、悠海がしみじみと言った。嫌だとは言った覚えはあるが、喚いた覚えはない。勝手に誇張されている。

「ところで、さっき汐凛ちゃんから聞いたんだけど、湊翔、仕事中に女の子たちに囲まれて、猥談に花を咲かせてたって本当?」

「してないから!」

 俺は大慌てで否定する。望んで就いた役職ではないとはいえ、さっきの人魚姫の妄想話のせいでエロ課長のレッテルを貼られるのは御免だ。なんで、汐凛がこの話を知っているのかはわからないが、あのとき一瞬感じた視線はもしかして。今日家に帰るのが怖い。

「で、魚住さんといい仲だって本当? それとも実は本当は違う子が本命?」

 にやにやとした笑みの浮かんだ悠海の整った顔が近づいてきて、俺の耳元でそう囁いた。完全に面白がっている。

「いや、誰も本命とかそんなんじゃないから!」

 うっかり俺はそう叫んでしまい、それを聞き咎めた人魚姫が泣きそうな顔で、

「湊翔さん、ひどいです! 今生こそ絶対に一緒になるって、あんなに熱い契りを交わした仲じゃないですか! あれは嘘だったんですか!」

「ああもう、魚住さん人聞きの悪いこと言わない! そして俺はそんなこと一言も言った覚えはない! そんなこと言ってる暇があったら手を動かして、お願いだから!」

 ややこしいことを言い出した人魚姫へ向けた俺の絶叫がフロアに響き渡る。そんな俺を見ながら横で悠海が爆笑していた。

 障害対応の夜はそんなふうにして更けていった。


 終電の時間が近づいてきた。

 俺は悠海と人魚姫という微妙な面子で駅への道を急いでいた。

 ワラシベコーポレーションの障害対応が終わったのは二十一時半のことだった。その後、女性陣を先に帰したのだが、人魚姫だけは「一秒でも長く湊翔さんのお傍にいたいんです!」と言い張って帰らなかった。ちなみに赤ずきんは一体いつの間に帰ったのか、気がついたら席から荷物が消えていた。

 この件の後処理やら報告やらをしていたら、いつの間にか日付が変わりかけており、急いで会社を出たのがつい先程のことだ。

「湊翔は何だかんだで優しいよねえ」

「そうなんですよ、悠海さん! 湊翔さんはとっても優しくて素敵な私の運命の王子様なんです!」

 仕方なしに俺が人魚姫の車椅子を押してやりながら歩いていると、悠海と人魚姫のそんな会話が聞こえてきて、何だか疲労が倍増した気がした。

 駅が見えてくると、悠海は俺を振り返った。何となく嫌な予感がする。

「さーて、湊翔とちょっと飲んで帰るつもりだったけど、もうこんな時間だし僕は帰ろうかな。それにほら、僕がいたらお二人のお邪魔みたいだし? それじゃあ、お二人とも良い夜を」

 そう爽やかに言って立ち去ろうとする悠海の腕を俺は掴んで引き止める。

「いやちょっと待って、何で俺置いて帰ろうとしてんの悠兄! お邪魔も何もないから、普通にここで解散だから!」

 俺がそう言うと、悠海は人の悪い笑みを浮かべる。俺は背筋に寒気を覚えた。

「この後、湊翔の名前で駅の向こう側のホテル予約しておいたから。あんなに魚住さん積極的なのに、スマートにリードの一つもできないなんて男として恥ずかしいでしょう? 据え膳食わぬは男の恥なんて言葉もあるしね」

「ちょっ……悠兄ぃぃぃ!」

 アイドル顔負けのウィンクを決めると、週明けにいい報告待ってるからね、と言って悠海は駅へと向かって去っていった。

 人魚姫と二人きりで取り残されてしまった俺は頭を抱えた。そんな気は微塵もないというのに、余計な気を利かせやがってと俺は悠海を呪った。というかこれはセクハラなのではないだろうか。

 人魚姫は潤んだ瞳で俺を見上げている。美しい顔はこれからの時間への期待感からか、ほんのりと赤く染まっている。彼女は甘えた声で俺の名前を呼ぶと、そっと目を閉じた。

 そんな彼女を持て余していると、駅のホームに最終電車が滑り込んできた音がした。俺の長い一日は、どうやらまだまだ終わりそうになかった。

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