地平線の先に

スモアmore

第1話

 涼しい潮風が、そっと私の鼻をくすぐる。車の音も、町の喧騒けんそうも遠くに感じるほどに、海は静かに波を揺らすだけだった。何百年という歴史を持つ鎌倉の風がそっと七里ヶ浜の海岸に吹き込む。その雄大さに目を閉じてしまう。

 目を開けると鮮やかなグラデーションが目一杯に広がる。


 地平線に浮かぶオレンジ色の夕日は「どうするんだい?」と語りかけてきた。頷く代わりに、私はそっとまぶたを閉じた。



   私は、今日。ここで、死ぬ。



 目の前には地平線まで広がる海。普通だったら綺麗な夕日に酔いしれることだって出来るんだろう。でも、今は綺麗な夕暮れも色褪せて灰色になっている。

 沈むだけの夕日は何も言い返しては来ない。浜に打ち付ける波は海の底へと私を誘ってくるばかり。その誘いに釣られ、私は一歩踏み出すと、そっと足に触れる。

 海水の冷たさは、私がまだ生きていることを感じさせてくれると同時に、夕日と一緒に海の底へと引きずり込んでいく。その波に流されるまま、もう1歩足を沈めていく。

 1歩、また1歩と沈んで行き、10歩目に達する時、後ろから声を掛けられた。


「ねえ、そこのあなた!ちょっと待って!」


 聞きなれたような声の主はショートカットの女の子だった。背格好は私と同じくらい。手入れのされていないぼさぼさのかみの私とは違い、丁寧に梳かれた綺麗な髪だった。

 息を上げながら走ってきた彼女は私の元まで来ると、穏やかな笑みを浮かべた。


「ねえ、あなたは今から自殺しようとしてたでしょ?」


 ビクッと私の肩が跳ねると、「やっぱり」と笑った。

 この人も怒るんだろうか。きっと、お父さんやお母さんのように私を𠮟りつけるんだろう。命を大切にしなさいって。それぐらいのことで何をしてるんだって。

 だが、その彼女は違った。


「別に、命を大事にしなきゃ~みたいなよくある正論なんて嫌いだから言わないよ。たださ、少しお話しない?」

「・・・なんで?」

「私、結構オカルトとか占いとか信じるタイプなの。もし死んでしまうなら、あなたが抱えるその気持ちをぐちゃぐちゃのままで死んでほしくないの」


 占いなんて信じたところで何にもなんないのに。つい最近まで信じていた私は、運命に裏切られて以来そんな不安定な迷信なんて信じなくなった。


「今のまま死んじゃっても、来世が楽しくなかったらわざわざ自殺した意味なんてないでしょう?良かったらあなたが何で死のうとしてるか、教えてくれないかな?」


 その場に腰を下ろした彼女は砂浜を叩いて、私を隣に誘った。正直、今すぐこの場を離れてさっさと死にたかった。

 もう何もかもが嫌でここまで逃げて来たんだ。来世の幸せなんて、微塵も興味なんてない。

 でも、何故か私の心は自然と彼女に惹き付けられた。

 彼女が発する雰囲気が、話し方が、誰かに似ていたから。でも、それが誰なのかはうまく思い出せない。そんなモヤモヤした気持ちが、私を海から引き揚げた。

 私が隣に座ったのを見てから、彼女はポケットから飴を取り出した。四角いキューブ状の飴が2つ並んでいるそれは、昔から好きなものお菓子のひとつだった。あのひとつの袋に違う色が混ざって入ってるお得感がたまらなく好きだった。もう長らく食べてはいなかったそれを、彼女は袋を開け、ひとつを私に差し出した。


「これ美味しいんだよね。私大好きだからさ、いつもポッケに入れてるんだよね。たまにそのまま洗濯に出しちゃったりしちゃうんだけどね」

「・・・私も、子供の頃、すごい好きだった」


 気が付けば、自然と声が出ていた。私は自分でもわからないことに慌てて顔を逸らした。けれど、彼女は気にすることもなく、ニコニコしていた。


「そうそう!この甘さホント好きなんだよね~。ねえねえ、最近ハマってることある?」

「・・・特にない。学校も、もう何ヶ月も行ってない」


 声に出した後で気が付いた。私は一体何を言ってるんだ。こんな会ったばかりの人に。私は今すぐここから逃げたくなった。面識もない人にここまで打ち明けた自分が耐えがたいほど情けない。もう、いやなことは全部投げ出したかった。だけど、出来なかった。彼女の手が私の頭に触れた。逃げようとする私を食い止めるためじゃなく、優しく、優しく髪をくように。ゆっくりと撫でた。



「何があったかは分からないけど、私に話してくれない?心のの中のわだかまりを持ったまま死んでほしくないんだ」


 その言葉に、私の何かがふたを開けた。今まで感じたことのない、よくわからない感情が生まれた。そんなよくわからない感情に突き動かされた私は、自然と話し始めた。


「クラスで、好きな子がいてさ・・・」



     □ □ □


 私には好きな人がいた。同じクラスの同じ美化委員だった彼のことは、最初はそこまでだった。だけど、同じ委員として活動する中で、彼はいつも私に優しくしてくれた。そんな彼のことを私は好きになった。その時、私は家族以外の誰かに対して初めて好意を抱いた。

 初めての恋に浮かれていた私は、彼の誕生日にはプレゼントを渡してみたり、バレンタインにはチョコレートを渡してみたりもした。何もかも始めてで、不器用な私の気持ちを、彼は嬉しそうに受け取ってくれた。

 でも2年生に進級したその日、私はやってしまった。彼に、告白してしまったのだ。

 でも、彼には好きな人がいた。クラスでも可愛いことで人気の、とある女の子に。彼は恋していた。そのことに耐えられなかった私は想いの丈をありのままにぶつけてしまった。何かに縋る様に、何かを呪うように。


「お前うざいんだよ。前々からベタベタしてきやがって、うざいんだよ」


 彼のその一言は、私の心にひびを入れるには充分過ぎた。

 それから1週間ほど不登校になった。私は、振られてしまった。失恋は辛い。ただその事実を噛み締めるだけで済めば良かった。

 彼を好きな子は私以外にもたくさんいた。その子達に、告白したことが知られてしまった。

 まともに名前も知らないクラスメイトでも1週間も不登校になれば色々な噂が立つものだ。

 久しぶりに登校したその日、私はいじめを受けた。

 陽キャであるはずの自分達を差し置いて私みたいなモブが告白したことが心底気に食わなかったんだろう。本当のところは本人に聞くしかわからないけど、そんなものは今では意味などない。

 最初はシューズを隠された。次の日には黒板に悪口を書かれた。1週間後には机の上に泥をかれた。1か月後には、もう学校に行かなくなった。

 私は、馬鹿みたいに塞ぎ込んで、きっと彼がいつもみたいに助けに来てくれるって。そんな淡い希望にすら縋っていた。現実から目を逸らし続けて夢を見て、嫌なことから目を逸らして逃げ続けた。

 お父さんとお母さんはそんな私を𠮟りつけた。何をそんなことで引きこもっている、さっさと学校に行って授業を受けてこいって。

 先生も、そんないじめなんて知らない、ただあいつが勝手に病んだんだっと見捨てた。教育委員会って人達と家に来たけど、その時も自分の体裁を保つために、私を部屋から引きずり出そうとしてきた。

 それが嫌で、部屋のドアノブをチェーンで開けられないようにした。誰も、近寄らせたくなかった。誰とも、接したくなかった。

 自分でも分かってた。このままじゃいけないって。でもどうにもならない気持ちをごちゃごちゃにしてる内に、全部どうでもよくなった。パレットに広げた絵の具を一緒くたに混ぜたら黒でもない、終わりの色になる様に。死ねばいいと思った。どうしようもない人生に、ただただ終わりを告げたかった。

 でもその前に1つだけ、見たいものがあった。

 昔彼からオススメされた本の舞台だった神奈川県鎌倉市にある七里ヶ浜。七里と名前にあるのに実際は一里にも満たないというその海岸に、憧れていた。

 何で憧れていたかなんて、理由は忘れてしまった。きっと彼と海水浴に行きたいとか、そんなバカげたことだったんだろう。

 それでも、私はその海に行きたかった。そして、夢も、憧れも、幻想も、恋心も。  

 全てを抱いて深い海の底に沈みたかった。

 そんな、ふざけたポエムみたいな思い付きに動かされて、嫌なことから逃げ出して、鎖で閉ざした部屋から飛び出した。


     □ □ □


 そこまで話し切って、私は泣いてることに気が付いた。いくら拭っても、途端に溢れてきて涙を止められなかった。

 そんな泣きじゃくる私を彼女は止めようとはしてこなかった。


「たくさん苦しい思いをしてきたんだね。もうどうしようもなくなって、気持ちが溢れちゃったんだね。私も、同じだったから」


 涙が流れ続けているせいで嗚咽おえつを止められなかったけど、それでも聞きたかった。


「ねえ、あなたは何で、そんなに明るいの・・・?」

「それはね、『恋』をしたからだよ」

「『恋』・・・?」


 私はそれを信じれなかった。だって、恋をした私は、その『恋』なんていう幻想に踊らされたのだ。そんなものを、今更もう一度信じれるなんて微塵も思っていなかった。

 ただ、彼女は私のような雰囲気は一切しなかった。絶望したというのに、彼女の心の中のパレットは綺麗な虹色に見えたのだ。それが不思議で仕方がなかった。


「『恋』するってのはね、必ずしも彼氏彼女になりたいってことだけじゃないと思うんだよね。何でそう思うか、分かる?」


 彼女の言葉に、さらに分からなくなった。しゃっくりをしながら首を横に振ると、また彼女は笑って答えてくれた。


「それはね、『憧れる』ってことなんだよ。私もあの人みたいになりたい。私もあの人のようになりたい。その想いは、紛れもない『恋』だと思うの」


 それを聞いて、何かが腑に落ちた。私は、この人の事が—————

                              

「『辛いという字は、もう少しで幸せになるということである』。私の好きな言葉なんだ。別に頑張って綺麗きれいな人間にならなくたって私は良いと思ってる。嫌われ者だって良い。自分の心の思うがままに、『憧れ』に近づくために、生きていけば良い。そういう人こそが1番の幸せ者だって、私は思うな」

                                     

 全部分かる。彼女の口から発せられる言葉の一つ一つが、私の心の中にゆっくりと溶け込んでいく。

 私もそうなりたい。私も、そうでありたい。この気持ちを言葉にするのなんて、簡単なことなんだ。

                                       

「私も、あなたみたいになりたい。あなたのように、なりたい・・・!私はあなたのことが好き。あなたのように、私はなりたいっ・・・!」


 しぼり出した告白私の夢を聞いた彼女は、今までで1番の笑顔を咲かせた。


「良かった。ちゃんと私はあの人みたいに誰かを救えたんだ」


 彼女は私の手にそっと自分の手を重ねた。少しずつ伝わる体温は、私の心に温もりを分け与えてくれた。


「あなたはちゃんと前を向けた。私に『恋』をした。だから、私のやるべきことはもう終わった。私はもう居なくても大丈夫だね」


 その途端とたん、彼女の姿がかすれ始めた。突然のことに私は驚くしかなかった。でも、このままでは彼女がどこかへ消えてしまいそうで、怖くなった。

 嫌だ、行かないで、と。涙を滲ませて震えることしか出来ない。何でと縋ることしか出来なかった。また、また消えてしまうのか。また、一人になるのか。

 肩を震わせて焦る私を彼女は優しく笑顔で抱きしめた。


「大丈夫。あなたはもう今までのただ待つだけのあなたじゃない。『憧れ』のために明日を目指す、立派な恋する乙女あなただから」

「いやぁ、いやぁ。いかないでぇ」

「あなたはもう起きなきゃ。そして、まずはぼさぼさの髪をどうにかしなきゃね」


 そう言って私の髪を撫でる彼女の足はもうほとんど消えていた。彼女は私の涙をそっと拭うと、おでこにやさしくキスをした。

 驚く私に、彼女は世界中の幸せを凝縮したような笑顔を咲かして、笑い掛ける。


「私に飴を分けてくれて、ありがとう。私に『恋』を教えてくれて、ありがとう。私の好きな人になってくれてありがとう。あなたは私みたいになれるから。絶対に、明日わたしのようになれるから。だから、今は頑張って」

「うん、もう大丈夫だよ。ありがとう、ありがとう」


 触れ合う肌がどんどん溶ける様に消えていく。けけど、恐怖なんてもうない。ただずっと彼女の存在を感じられているから。

 夕日はもうほとんど沈んで、頭上には夜空が広がっている。けれど、寒さなんて感じない。そんなのが付け入る隙がないほど温かな温もりを感じているから。


「さ、もう今日あなたは終わりだよ。早く目を覚まして、明日わたしを目指さなきゃ」

「私の名前はね、夢野ゆめのさき。ねえ、最後に、あなたの名前を教えて?」


 私の言葉に、彼女は囁くように、それでいて応援歌のように名乗った。


「私の名前はね、夢野ゆめのさき昨日あなたが『憧れ』を抱いた、明日あなただよ」



     □ □ □



 目を覚ますと、暗い自室だった。

 カーテンを閉め切られ、ドアには乱雑にチェーンが結ばれ、親が入ってこないようにバリケードが築かれている。

 床には至る所に血痕が残っていて、手首には4筋のリストカットした跡がある。

 しばらく、ここが現実だと気付くまでに時間がかかった。けど、もう今の私に暗い気持ちなんてどこにもなかった。彼女がくれた温もりが、照らし続けているから、私はしっかりと立ち上がれた。

 さあ、まずは何をしよう。

 久しぶりに学校に行こうか。いじめなんて知ったことではない。何日も休んでしまっているから、きっと宿題が山積みになっているはずだ。だけど、カレンダーが言うには今日は日曜日。学校はまた明日行こう。

 だったら彼女が言っていたように髪を切ろうか。そういえば彼女の髪はどうやって手入れをしていたのだろうか。とりあえず美容院に行ってみようかな。今度また会った時にでも聞いてみよう。

 それもいいけど、まずはお父さんとお母さんに謝ろう。二人が私に恵んでくれたものが何なのか、今なら分かる。不完全だったパレットの上に色々な色を載せようとしてくれていた。いつかちゃんと夢を描けたら、その時は一番に見せに行こう。

 ふと、未だに部屋が真っ暗だったことに気が付く。何をするにしても、この部屋は暗すぎる。波風に洗われた私のパレットは、綺麗な白で染め上げられている。何もない、だけど何色にでも出来る純白。暗闇なんて、今はいらない色だ。

 私は確かな足取りで窓際まで歩くと、勢いよくカーテンを開ける。

 久しぶりに浴びる日光の眩しさに目が痛み、体が強張る。少しすると、眩しさにもだいぶ慣れ、太陽のぬくもりで体がほぐされていくのが分かる。

 あの出来事は夢だったのかもしれない。けど、そんなことは些細なことだ。今私の心の中では『あこがれ』が熱を帯びているのだから。そして、その熱をくれたのは、確かに彼女なのだから。

 今日はどうしよう。明日はどうしよう。考えるだけで彼女が思い浮かんで、力をくれる。

 そうだ、七里ヶ浜の海に行こう。彼女が会いに来てくれたように、私も昨日の私に会いに行こう。もちろん、途中にコンビニで飴を買ってから。

 空を見上げると、あの晩沈んでいった灰色の太陽は、力強く、色鮮やかに輝いて空に昇っていた。


「おはよう」



 私は、今日。ここで、生きていく。

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