第2話
父親と喧嘩した。進路のことだった。自分の夢を叶えるために大学に行きたいって行ったら、あの野郎、本気で怒ってきた。それにムカついて、1時間ぐらい喧嘩したあと、制服のまま家を飛び出してきてやった。さて、これからどうしよう。
しとしとと優しい雨が降る中、美波は今の状況をツイートした。黒い傘にぽてぽてと当たり弾ける雨は、やたら不愉快でしょうがない。美波の頭の中には怒る父親の声と顔が吐き気がするほど焼き付いている。思い出すたび逃げる足は速くなった。しかし行くあてなんてない。持ち金もあまりないのが現実だ。とりあえず雨宿りできる所を探そうと、適当に夜の街を歩くことにした。
適当に歩いていると、古びたビルが見えた。ロビーには明かりがついており、上の階にはなにか店がやっているようだ。雨足も強くなってきたので、ここで少し雨宿りすることにした。いくら4月でも、雨が降っているからか風は冷たい。赤くなる手を擦り、溜まった不満をため息に混ぜて吐き出す。しかし、腹の底に溜まった怒りは溜まったままだった。
「おや、こんな時間に女子高生とは、なかなか珍しいですね。」
急な声かけに、美波はビクッとして振り返った。そこにはバーテンダー姿の若い男が立っていた。
「すいません、勝手に入ってしまって。少し諸事情で家に帰れなくて、ここで雨宿りさせて貰えませんか?」
美波がそう言うと、男はにっこりと笑った。
「それなら、私の店で休むといい。私はこのビルでバーを営んでいるんですよ。濡れているようですし、タオルぐらいなら貸せますよ。」
少し怪しい気がしたが、服が濡れていて寒かったため、お言葉に甘えることにした。
エレベーターに乗り、最上階で降りる。そこには木製の古びたドアがあった。ドアを開けると、カランコロンと甲高い音ともに、夜が似合う、大人びたバーが姿を現した。
「少しお待ちを。」
そう言ってマスターは店の奥に入ると、真っ白なタオルを持ってきた。それを受け取り、湿った髪を拭いた。ほのかにアルコールの匂いが鼻を通り抜け、まるで自分を大人の世界へ呼び込むようだった。
「あなたは高校生ですよね?」
美波は少し動揺した。しかし制服のまま来てしまったため今更言い訳をすることが出来なかった。
「…はい……。」
静かにそう答える。短いの沈黙がやたらも長く感じた。心臓の音がうるさい。警察にでも言われたらどうしよう。そんな心配が頭を埋めつくした。しかし返ってきた返答は意外なものであった。
「そうですか。」
男はそう言い、無心にグラスを拭き始めた。あまりにも意外な返答に美波は驚きが隠せなかった。おどおどとする彼女を見て、マスターはシェイカーを手に取った。そして、大人びた雰囲気には似つかない、見覚えのあるボトルを取り出し、慣れた手つきでシェイカーに計り入れる。そしてどこからか聞こえる雨音に合わせて、シェイカーを振り始めた。美波は改めて、ここが普段では入れない大人の空間であることを実感した。緊張で凍りつく彼女を横目にマスターはカクテルグラスに濃い黄色のカクテルを流し入れた。
「どうぞ、お代はいりません。」
「ごめんなさい、未成年なのでお酒はちょっと…。」
そう言うと、マスターはにこりと笑い、
「あぁ、ご心配なく。このカクテルはジュースしか入っていないから、どんな方でも飲めますよ。」
そう言って、またグラスを拭き始めた。美波はカクテルを受け取ると、そっと縁に唇を当てた。緊張で固まる体に、甘酸っぱい風味が優しく広がる。そしてどこからか、いろいろな感情の入り交じったため息が込み上げてきた。
「なにかお疲れのようですね。」
マスターは消えてしまいそうな優しい口調で語りかけた。
「そうですね。近々色々あって、疲れてるかもしれませんね。」
場の雰囲気に流されてか、美波の口調も自然と大人びた形になっていた。
「ここに来るのは変わり者な人ばかりなんですよ。人生に行き詰まった人、理由もなく疲れてしまった人。そんな人たちが夕立のように急にやって来て、雨宿りがてら酒を飲みに来るんですよ。」
そう言ってマスターはふふっと笑い、話を続けた。
「この間も、土砂降りの日にある男性が一人でやってきて、ずっと娘の将来について話してくるんですよ。その人も困ったもので、自分が考えていることと、発言がバラバラになってしまうそうなんです。娘の将来は自分で決めさせてやりたいと思ってるのに、いざ話すと不安で怒った口調になってしまうそうなんです。それで娘と喧嘩するのが日課になってしまったらしく、それをどうにかしようと、うちに来たらしいんですね。そんなこと聞かれても、私にはどうすることもできないのにね。」
マスターはまた、ふふっと笑った。この間の土砂降り、美波にはこの日が少し記憶に残っていた。この日は父親との喧嘩が長引き、挙句の果てに父が土砂降りの中、外に飛び出したのだ。その後は不貞腐れて寝てしまったが、朝には無言で朝食を食べる父の姿があった。
(まさか…。)
そんなことないとわかっている。あの親父に将来を決めさせようなんて考えがあるはずない。美波はそう思い、カクテルを一気に飲み干した。
「…その男の人には、なんて答えたんですか?」
この問いかけは、自然と美波の口から出たものだった。空のグラスを見つめる彼女を前に、マスターは拭いていたグラスに、1杯のカクテルを作り始めた。強いアルコールの匂いとさっぱりとしたライムの香りが鼻を刺した。そしてでき上がったカクテルにライムの欠片をひとつ浮かべ、美波に差し出した。
「これが私から彼へのアドバイスです。このカクテルはモスコミュールと言って、ウォッカをベースに作られるものです。カクテルの界隈ではかなりの代表格なんですよ。」
「そうなんですか。で、なぜこのカクテルがアドバイスなんですか?」
マスターはグラスを拭く手を止めた。
「カクテルにはそれぞれ、カクテル言葉というものがあるんです。花に花言葉が着いているようにね。このカクテルの言葉は、喧嘩したらその日のうちに仲直り、なんですよ。彼にピッタリですよね。」
そう言ってマスターは、グラスに入ったモスコミュールを一気に飲み干し、幸せそうに息を吐いた。
「これが私にできる最大のサポートでしょう。家族の悩みに深入りするほどめんどくさいことはありませんから。まぁ、彼には酒代として、娘さんの覚悟と努力を認め、それを支えてやれるよう努力をしろと釘を指しておきました。その後は知りませんが、あなたを見ていると、あの人も苦労しているようですね。」
そう言ってケタケタと笑った。
「やっぱり私の父だったんですね。」
そう問いかけると、マスターは少しの間黙りみ、そのうち小さく頷いた。
「あの人は、あなたのことが本当に大切なんですよ。だからあなたに夢を追わせたいと思う一方、苦労をさせたくないという気持ちが葛藤し、口調が強くなるんでしょうね。こんな人ほど、口で素直になることは難しいものです。だからなにか行動を起こすのではないですかね。例えば、あなたが昔よく読んでいた絵本とかになにかあるかもしれませんよ?」
「昔、よく読んでいた絵本?」
美波は腕を組んだ。昔、寝る前によく親父に本を読んでもらっていた。しかしもう覚えていない。美波は首をかしげた。
「先程、あなたが飲んだカクテルの名前はシンデレラです。ちなみにカクテル言葉は夢見る少女、だそうですよ。」
美波はハッとして立ち上がり、バックをしょうと、丁寧にお辞儀した。
「またのおこしを。」
その言葉を後ろ目に美波は雨の中を走った。雨に濡れた街頭が視界を横切っていく。
一心不乱に走り、息を切らして自宅へと入っていった。そしてそのまま階段を駆け上がり、自室に置いてある古い絵本を取り出す。表紙をめくると2枚の紙がひらりと舞い落ちた。1枚は達筆な字で書かれたごめんの文字、そしてもう1枚は志望校の最寄り駅までの切符だった。紙切れに雫がこぼれ落ちる。美波は顔を上げ、リビングへと向かった。
雨の夜には私と1杯どうですか? 黒潮旗魚 @kurosiokajiki
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