迷子

「ねえねえお巡りさん」



「っ…、やあ、こんにちは」



 すべての始まりは、私が勤め先の交番で一人の女の子に話しかけられた時だったと思う。


 


 私こと輪踏英久は、都心にほど近いベッドタウンの交番に勤める巡査だ。


 比較的平和な方に分類されるこの街で様々な困りごとに応え続けて早3年。ようやく一人前程度の心持になった矢先の出来事だった。



 その日の業務も佳境に差し掛かった夕方の少し前、中天を過ぎ、傾き始めた日差しの差し込む交番に夏らしい白い薄手のワンピースを着た少女が入ってきた。



 私は処理していた書類から顔を上げ、比較的物怖じしていない様子で中まで入ってきた少女へと歩み寄った。



「どうしたのかな?」



 膝をついて目線を女の子の高さを合わせながらとりあえず用件を尋ねてみる。



「えっとね、お母さんがいないの」



 小学校低学年くらいだろうか。年相応のたどたどしい口調で話された内容を聞いて、ああ迷子か、と既に輪郭を持っていた予想が確信に変わった。



「そうか、お母さんいなくなっちゃったのか。えっと、とりあえず君の名前を教えてくれるかな?」



「わたし、マリだよ。お母さんとお買い物にいったら、いなくなっちゃったの」



「そっか。じゃあマリちゃん、お母さんの電話番号は分かる? それか、携帯電話を持っていたりしないかな?」



 この質問にマリはふるふると首を振って否定しながら口を開く。



「でもおうちのばしょは分かるの。ねえおまわりさん。わたしおうちに帰りたいからいっしょに来て!」



「あー…一緒に、かぁ」



 この年頃の子らしい予想外の言葉に戸惑いながら、私は新しく得た情報も踏まえてどうすべきかを考える。


 母親とはぐれたということは、恐らくその母親も迷子になった娘を探しているはず。署を通して周辺の交番に問い合わせれば、あるいはあっさり見つかるかもしれない。


 やはり、まずは署に連絡を取り、回答が得られるまでこの子とここで待機することが最も無難な選択肢なのだろうが…



「ねえ来て来てー。一緒に帰ろうよぉー!」



「少し、待ってくれるかな? 今お巡りさんがマリちゃんのお母さんを探してあげるからね。きっとすぐに見つかるから、それまでここでお巡りさんと待って…」



「やぁだ〜、マリ、おまわりさんと帰る〜!」



「ちょ…ほんと、すぐに見つかるから。そんな急がなくても、マリちゃんだってお母さんと一緒に帰れた方がいいでしょ…?」



 とりあえず連絡だけでも済ませてしまおうとする私の足元にしがみつき、本格的に駄々をこね始めるマリ。そんな小さな彼女を無下にあしらうわけにもいかず、私はただただなだめるしかない。


 幼い子供の無邪気なパワーに圧倒され、困り果てる私。


 そんな私の元に、救いの船が現れた。



「おーおーどうした? なんかあったのか?」



「っ…先輩」



 入ってきたのはパトロールに出ていた同じ交番に勤める先輩だった。



「すいません、この子迷子なんですけど、ちょっと気に入られちゃったみたいで離れてくれなくて…」



 それから私は、彼女がここに来た経緯とこれから取ろうと思っていた方針について先輩へかいつまんで説明した。



「あーなるほどね。マリちゃんは英久くんに家までついてきて欲しいのか。ま、いいんじゃないか? それくらい」



「ええ?」


「ほんと!?」



 驚く私と喜ぶマリ。


 そんな私たちを見ながら先輩は話を続ける。



「ああ。心配しなくても、署への連絡やその後のやり取りは俺の方でやっておくよ。それにーーー」



 そう言いながら先輩が視線を送った先では、マリがすぐにでも外へ飛び出していきたそうな様子でソワソワしている。



「こんな彼女を交番ここでずっと引き留めておくのもなかなかに難しそうだしね。幸い今日はあまり忙しくもないし、マリちゃんの家まで行って、最低限家の場所がどこなのか、それが彼女の家なのかくらいは確かめてきてもいいかもしれない」



「ああ…そう、ですね」



「というわけで、行ってらっしゃい」



 そう、笑顔で付け加えられ、私は潔く頷くほかなかった。




          ☆




 

 マリに連れられてやって来たのは、私の通う交番から見て西の方向に広がる住宅街だった。


 マリが訪問した時間から多少時間も経ってしまったこともあり、時刻は既に17時を回ってしまっていた。


 ベッドタウンの由縁たる閑静な住宅街に着いた頃には彼方に広がる西の空が赤く染まってしまっている。


 ここに着くまでに、すれ違った散歩中の犬とじゃれたり、道端にしゃがみ込んで蟻の行列に夢中になったりと年相応の奔放さにただただ振り回されたことで自分一人なら徒歩で20分もかからない道のりを1時間ほどもかかって歩いてきた。


 ちなみにその間も交番に詰めている先輩からの続報はなく、今の私にはとにかく彼女を送り届け、その身元を明らかにすることが仕事の完遂に最も近い解決手段であることに変わりはなかった。 



「マリちゃん、もうお家には近いのかな?」



 自転車を押しながら、すぐ隣を歩くマリに尋ねる。



「うん! あとちょっとだよ!」



その質問に答えるマリに疲労の色はなく、西日を受けながら元気に飛び跳ねている。とーーー



「あっ! ねえこっちだよおまわりさん!」  



「ちょっと、待ってマリちゃん! 急に走ったら危ないから!」



 いよいよ自宅に通じる道でも見つけたのか、影が立ち込めるやや暗い通りに駆け込んでいくマリ。


 慌てて追いかけたが、生憎と建物の影になっていた道は極端に暗く、その中へと飛び込んでしまったマリの姿もすぐに見えなくなる。



「マリちゃん早いよ。 ごめん、ちょっと戻って来てくれないかな!」



「おまわりさんおそいー。早くしないとおいてっちゃうよー!」



 やや焦りを感じつつ追いかける私をからかうようにマリの声はどんどんと遠ざかっていく。


 それに従って、時折家と家の間から差し込む強い日差しの中に現れては、すぐに次の暗闇に吸い込まれていく彼女の小さな背中はみるみるうちに小さくなっていき、ついに少し先に現れた曲がり角を曲がったところで見失ってしまった。


 さすがにこれ以上は不味いと思い自転車にまたがった私は、曲がり角を目指しペダルを漕ぐ足に力を入れる。


 そうして一点を目指した私の視界はーー



「うっ…!?」



 両端に並んでいたブロック塀が途切れた瞬間凄まじい日差しをまともに食らい、何も見えなくなった私は呻きながら急ブレーキを踏んだ。



「……っ」



 目を瞬しばたかせて視界を回復させた私だが、その目に映ったのは真正面に夕陽を望むごく普通の住宅街だった。



「これは…」



 事態が飲み込めず立ち尽くす私だったが、そんな私に畳み掛けるようについ先ほど出てきた曲がり角で小さな気配が動いた。



「おーまわーりさんっ」



「ーーっ」



 ブロック塀に当たった日差しが作り出す濃い影に隠れてその足元しか見えないが、見覚えのある小さく愛らしい靴はマリの物で間違いなかった。



「つぎはあったときは、ぜったいいっしょにかえろうね!」



 楽しそうにそれだけ言うと、闇に融けるように消えてしまった。



「ちょっとマリ、ちゃん…」



 その様子があまりに不自然で、慌てて自転車お降りると、ついさきほど自分が通り抜けたばかりの道に駆け戻る。


 しかし、まっすぐ見渡すことができる通りにマリはおらず、夕暮れに沈みつつある街並みが続いているだけだった。


 それから、しばらくの間その辺りを探し回ったが結局マリを見つけることはできず、首を傾げながら交番へ帰ったのだった。



 しかしこれは、私の身の回りで異変が起き始める前兆でしかなかったのだ。




          ☆




 それが起こったのは、マリを見失ってから数日経った勤務の最中だった。



「ーーおーまわーりさん」



「ーーっ!?」



 深夜、駅前で交通違反をしたドライバーの取り締まりをしていた時、不意に背後から聞き覚えのある幼い声で話しかけられたのだ。


 目の前のドライバーから視線を外して後ろを振り返ると、そこにはやはり、白いワンピース姿のマリが立っていた。


 もう会うことはないだろうと考えていた私が予想外の再会に言葉を忘れて目を白黒させているのを、マリはこみ上げる笑いを我慢するように体を揺らしていた。



「ま、マリちゃん、どうしてここに…っていうか、君みたいな子が出歩いていい時間じゃないよ」



「いいの! それより、今日はいっしょにかえってくれるよね!」



「いや、いいけど少し待ってくれないかな。今仕事中で…」



「いやっ! やくそくしたもん、今度はいっしょにかえる、って!」



「本当にごめんね、マリちゃん。でも少しだけ待っててほしいんだ」



 思いどおりにならず頬を膨らませながら駄々をこねるマリをなだめていた私だったが、肩口の無線が鳴ったことで意識をそちらへと移した。



「マリちゃんちょっとごめん。ーーーこちら、武蔵3。どうぞ」



 それは、つい先ほど車両のナンバーを照会するために連絡をいれていた署からのものだったのだが、どうも自分を差し置いて別の会話を始めたことがマリの気に触ってしまったらしい



「もうっ、おまわりさんまたマリのお話きかないんだ! マリもう帰るから!!」



 止める間もなく走り出したマリは、一目散に街灯の明かりの届かない暗闇へと消えていってしまう。



「あ、ちょっと! っとすいません、いえ、今女の子がいてーー」



 思わず声を上げてしまい、どうかしたのかと尋ねてきた無線の相手に慌てて釈明をする。


 そうこうしているうちにマリの姿を見失ってしまい、あとには彼女の楽しげな笑い声だけが響いていた。


 



          ☆




 また別の日。


 この時の私は観光に来ていて道に迷ってしまったらしい年配の女性二人に、彼女らの目的地までの行き方を教えている最中だった。



「あの交差点をまっすぐ進んでーーーっ」



 そう言いながら視線の先にある比較的交通量の多い十字路の、ちょうど横断歩道を挟んだ対岸の歩道の方を指差した私は、視界に映った白く小柄な人影に小さく息を呑んだ。


 やや遠くはあるが、あれは間違いない。愉快そうに肩を揺らし、私に向かって小さく手を振っているあの姿は、そう確信を持つのに十分だった。


 そのマリが、こちらに向かって走り出すような素振りを見せた次の瞬間、彼女の渡ろうとした横断歩道を一切減速する素振りも見せない乗用車が横切った。



「っ…!!」



 それは間違いなく乗用車によってマリがはねられるタイミングであり、目の前で起こった惨劇に目を見開きながら硬直する私だったが、



「ちょっと、どうしたの?」



「ーーっ!? 」



 突然袖を引かれ、肩を跳ねあげる私。


 そんな私を覗き込む女性らの顔には不信そうな感情を浮かんでいた。



「え…? いや、今女の子が車に…」



「ちょっと何言ってるの? 女の子なんてどこにもいないじゃない!」



「っ…いや…いや、そんなはずは…」



 女性たちの言葉に慌てて交差点へと視線を戻すが、そこにあったのは事故などとは無縁ないつも通りの車が行き交う景色だった。


 人を轢いた乗用車など無く、そもそも確かにいたように見えていたマリの姿自体が影も形もない。



「…すいません。 どうも、私の見間違いだったようで…」



「あなた大丈夫なの? 余計なことしてないでちゃんと私たちの方に集中しくれない?」



「はい…本当に、申し訳ありません…」



 自分たちのことがないがしろにされたと思ったのか、不機嫌そうにそう言い放つ女性に私はただ力なく謝罪することしかできなかった。




          ☆



 そんなことが何度も続いていくうちに、気づかないところで負荷が溜まってきていたのだろう。


 とうとう私は、警官としてあってはならないことをしてしまったのだ。



 それは先輩と私が事務仕事に追われている時だった。



「ーーーごめんください、おまわりさん」



 幼く、自分の腰くらいの位置から発せられた言葉と視界の端で揺れた白い布片に、私はほとんど条件反射的に反応してしまった。



「また君か! いい加減警官を相手にいたずらをするのはーー!!」



「ーー輪踏っ!!」



「っ…!?」



 口にすべきではなく、もっと言えば、そもそも聞かせる相手すらいない私の言葉は、先輩の怒号によって辛うじて最後まで言い終える前に止まった。


 普段、まず聞くことはない先輩の怒鳴り声に我に返った私が慌てて声のした方に目をやると、そこにはマリとは似ても似つかない白いシャツ姿の男の子が立っていた。


 男の子は、何もしていないのに突然大の大人に叱られ、その大きな目には溢れんばかりの涙が溜まっている。



「う…ぐすっ、なん、なに? ぼくなんで、なにもひてないもん…!」



「ち、ちがうちがう! ほんとに今のはそうじゃなくて…」



「わ…あーーー!!!」



「ああ、もういい! お前はちょっと裏行ってろ!」



 とにかくなだめようと私が近づいたのを契機に、燻っていた感情が爆発した男の子の泣き声が交番に響き渡る。


 結局私は、その状況を見た先輩によって、この場から出ていかざるを得なくなったのだった。




          ☆




「はぁ…」



 込み上げてきた溜め息をなす術もなく吐き出す。


 私は街が夕暮れに染まる中、重い足取りで帰路に着いていた。


 先の件を重く見た先輩の命令で、あの後すぐに退勤させられてしまったのだ(とはいえ早上がりというわけではなく、残業はを先輩に任せて定時で上がらせてらった形なのだが)。





「ーーーすいません…どうにも例のマリちゃんのことが頭から離れなくて…」



 あの後、男の子の件で謝罪した私に対し、先輩は不機嫌そうに鼻を鳴らしながらもとりあえずは受け入れてくれた。



「まあ、そうだろうとは思っていたよ。でも、あの子については帰ってすぐに署に問い合わせて、そんな名前の迷子の通報が無かったことも、お前が連れていかれた住所で小さな女の子が住んでる家庭もないってことも調べがついてたろ?」



「それは、そうなんですけど…」



「少し珍しい感じの出来事だったから気になるのは分かるけど、お前ちょっとこだわり過ぎだ。もう今日は、早く帰って頭冷やしてこい」





 思い出されるのは、勤め先を出てくる直前に先輩とした会話の内容だった。



「やっぱり…」



 気にしすぎなのだろうか、と内心独り言ちながら歩いていた私だったが、不意に差し込んだ強い日差しに顔を上げた。



「…ここはーーー」



 その街並みには見覚えがあった。


 沈む寸前の真っ赤な斜陽と、それを受けて黒々とした表をこちらに向けながらどこまでも続く家々。


 そしてーーー



「あはははは! おまわりさん、やっときたんだ!」



 少し先の闇の中にぽっかりと照らし出された夕方の強い光と、そこに浮かび上がる白いワンピース姿の少女。


 視界の効かない時間帯にも関わらず、そこに佇むマリが自分に向かって妖しく微笑んでいることが確かに見て取れた。



「おーまわーりさんっ」



「っ!?」



 マリの、心の底から楽しそうな声に呼ばれ、私は弾かれたように顔を上げた。


 視線の先の彼女が、言葉を重ねようと続けて口を開くのが見える。



「…やめてくれ」



 きっとあの言葉を言う。それが分かったから、私はいやいやと首を振りながら懇願するようにそう口にした。


 しかし、



「いっしょに、帰ろ!」



 視界から彼女の姿が消え、声だけが私の足元からした。


 ゆっくりとそちらに顔を向けると、



「ーーっ!!」



 顔いっぱいに笑顔をたたえたマリが私の眼前におり、その小さな手が私の服の裾を固く握りこんでいた。




          ☆




「っはぁーーー!!」



 そこで目が覚めた。



「はぁ…はぁ…はぁ…はぁ…夢、か?」



 カーテンを閉めずに寝ていたらしく、レースのカーテン越しに入ってくる薄明りのおかげで壁にかかった時計の針が真夜の2時を指しているのが分かった。



「確か、まっすぐ帰ってきて、夕ご飯をとってその後は…」



 汗まみれの上着に不快感を覚えながら寝ころんでいたソファーから身を起こした私は周囲を見回し、自分が自宅であるワンルームに帰ってきていることようやく認識した。


 目の前のローテーブルに置かれた総菜弁当とビール缶のゴミが出しっぱなしになっているのを見るに、どうやら食事を済ませた後にその場で寝落ちしてしまったらしい。


 相当に疲れていた上、昼間のこともあってそうなるのも無理はないと思うが、それにしても…



「は、ぁ…」



 顔に手を当てながらその場で蹲ると、自然と深い溜め息が出た。



 夕焼けに染まるどことも知れない街並み。


 いつもと変わらないことが反って気味の悪いマリの笑顔。


 そして、彼女に掴まれた裾の感触。


 あの、絶対に放さないという意思をまざまざと感じさせる小さく固い拳は、夢とは思えない実感を私の体に残していた。



「ふう…」



 とはいえ、いつまでもこうしてはいられない。


 幸い明日は非番なのでいっそこのまま寝てしまっても構わないのだが、どうにも今の心持では休める気もしなかった。


 とりあえずシャワーでも浴びて一度気持ちをリセットしよう。


 そう思い立ち上がった時だった。



 “コン、コン”と、どこかくぐもった軽い音が部屋に響いた。



「っーーー」



 喉が引きつり、声にならない動揺が鼻から抜ける。


 不思議なことに、この音を聞いただけで私にはその出所と正体が分かっていた。


 控えめなノックの音に誘われるようにゆっくりと、夜の闇をたたえる広い窓へと首を回していく。そして、



「…ああーーー」



 もう、私はダメかもしれない、と、暗い窓の外に立ち、小さく手を振る白い影を見つめながら、私は静かに絶望を噛みしめた。



ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

後書き


ぎりぎりの投稿過ぎて草も生えないですね。掲載期間およそ1.5日とは。


「帰り道」と聞いて色々考えてみたんですがいまいちしっくりせず、最終的には女の子が夕方の人気のない道に一人たたずんでる姿からこの一本を生むことができました。難産です。



こんな短い期間の投稿でも目に留まり、読んでいただくことができたなら、私としてもありがたい限りです。


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