エピローグ

 久しぶりに我が家の扉を叩くと、母はまるで幽霊でも目の当たりにしたかのようにあんぐりと口を開き、かと思うと目尻に皺を寄せて安堵の吐息をこぼしながらイブを出迎えてくれた。

「帰ってくるのは半年に一度じゃなかったの?」

「えーっと、ちょっと色々あってね」

「また顔に傷が増えたんじゃないの? ちゃんとご飯は食べてるんでしょうね。前に見た時よりちょっと痩せたように見えるわよ」

「大丈夫だってば」

 今は顔よりも腕に傷があるのだが、言うと余計な心配をさせてしまいそうなので内緒にしておいた。一方の母は前回より顔や腹のあたりに少し肉がついたように見える。

 あれこれ世話を焼こうとする母を制し、イブは椅子に座るよう頼んだ。

「通り道だったから寄っただけで、今日は泊まらないんだ。少し話しておかなきゃいけないことがあって」

「なに? 悪い知らせなの?」

「うーんと、まずは」ここを見て、とイブはベストの胸元を指さした。「あるはずのものがないと思わない?」

 そこには団員の証である月を模ったバッジがあるはずだった。母はしばらくぴんときていないようだったが、やや時間をかけてやっと気づき、まさか、と口元を手で覆った。

「失くしたの……?」

「違う、違う。返してきたの」

「返し……?」

「私、『アポストロ』を辞めてきた」

 聞き間違いかしらと母が首を傾げているので、イブはもう一度同じことを言った。母が信じたのは「辞めた」と五回言ったあとだった。

「どうして。お父さんと同じ幻獣ハンターになるって決めたんじゃなかったの?」

「確かに私はずっとお父さんを目標にしてきた。同じくらい幻獣ハンターになるとか、いつか上回ってみせるとか……でも、なにもお父さんと同じ団で躍起になる必要もないかなって思ってさ。言っておくけど辞めたのは団だけで、ハンターまで辞めたつもりはないからね」

 じゃあ別の団に所属するのか、と母は落ち着かなそうに手を揉んでいる。正直に話すべきか迷ったが、嘘をついて後々糾弾されるのも面倒くさく、きっと母ならおかしな偏見もないはずだと結論づけた。

「魔術師のところで護衛として雇ってもらうことにした」

「……魔術師?」

「そう。幻獣の保護を一番に考える魔術師の、ね。これからは護衛が主で、ハンターは兼業にするの。ついでみたいなものかな」

 イブは雇い主がどんな人物か、普段はどんなことをしているかをなるべく詳細に話した。ポルトレガメで敵対した魔術師のような輩も世の中にはいるのかも知れないが、イブがよく知っている魔術師は一人だけだ。

 彼のことや、彼と会ってからなにがあったのかを話し終えると、母からは――半ば予想していた通りだったが――困惑がありありと滲み出ている。

「悪い人ではないっていうけど、本当に? イブが今まで狩ってた幻獣を保護したり、管理したりしてる人なんでしょう。そんな人の護衛って、大丈夫なの?」

「なんの問題もないよ。むしろ色んなことを学ばせてもらってる。あいつと話してると、いかに自分の視野や考えが狭かったのか、不勉強だったのか分かってきて楽しいんだよ。あと、私の方からもいろいろ教えたりしてるし」

「……あなた、顔つきがだいぶ変ったわねえ」

「はい?」

 急に話が変わった。イブが首を傾げていると、母はふっと肩の力を抜いて微笑む。

「前まではすごく必死で、なにかに追いつめられてるみたいな顔してたのよ。知らなかったの?」

「全然……」

「向上心に背中を押され過ぎて、無意識に無理をしてたんでしょうね。でも今は、とっても優しくて柔らかい顔をしてるわ」

 顔つきなんて気にしたことが無かった。でも確かに、団に所属していた頃は周囲と成績を競い合ったりもしていたし、いつか父に追いつき、追い抜くことばかり考えて余裕がなかったように思う。

 今の気分はどうだろう。改めて考えると、比較対象がいないし、不思議な安心感もあってとても楽だ。なにより、彼らといると飽きなくて楽しい。

「今日はその魔術師さんは来てないの?」

「来てるけど、今は観光してるんじゃないかな。なにもないところだよって言ったんだけど、『ずっとここで暮らしてたからこそ、そんな風に思うだけだよ』とか言って、やたら楽しそうに歩いてた」

 初めは母にあいさつをしたがっていたが、一緒についてきた少女が町に興味津々だったこともあり、さっさと話をすませるから適当に時間を潰していてくれとイブが頼んだのだ。今ごろあちこち引っ張り回されているに違いない。

 また時々帰ってくる、と母に別れを告げて、イブは二人を捜しに町へ出向いた。久しぶりに顔を合わせた地元の友人や近所の婦人など、すれ違う人から次々と声をかけられ、一言二言交わして、完全に浮かれきった二人組を見なかったかと聞くと、あっという間に見つけられた。

「あ、イブ!」

「おかえりなさい、イブさん!」

 シェダルとオリフィニアは、パン屋の前に設けられた椅子に腰かけていた。きっとオリフィニアが腹を空かせたのだろう。彼女の前にはパンが積まれている。

「ちゃんと話してきた?」

「うん。最初は意味がよく分かってなかったみたいだったけど、最終的には理解してくれたと思う」

「イブさん、ここのパンすっごく美味しいわ! ほら見て、なかにたくさんブルーベリーが入ってるの! あたしにも作れるかしら?」

 もぐもぐと口いっぱいにパンを頬張り、オリフィニアは満足そうに笑っている。その髪は出会った頃に比べ、天色のわりあいが多くなっている。どうやら神力を使う影響で髪の色が変わっていくようなのだ。これも半幻獣ゆえの特性なのかもしれない。

 シェダルが予想していた通り、彼女は今後、エアスト家に引き取られるという。ティアマトは海から離れられず、ポルトレガメで暮らす提案もしたりしたのだが、ティアマトと、オリフィニア自身がエアスト家に行くことを望んだのだ。

 神力がなんなのか、どうすれば上手く使えるのか。オリフィニアはほとんどなにも知らない。魔術師であるエアスト家で暮らせば、様々なことを教えられるだろうし、ずっと父と二人きりで暮らしていたオリフィニアにとって、いい刺激になるはずだ。

「でもイブ、本当に良かったの?」

「なにが?」

「団を辞めたことだよ。すごく引き止められてたじゃないか」

 昨日は三人でアポストロに顔を出したのだ。その際、イブは団長に退団の意向を伝えてバッジを返却した。団長はあまりの驚きと衝撃に目を剥いていたし、団員たちは総出でイブの考えを改めさせようと説得してきた。

「雇う以上、もちろんお金は払うけどさ。間違いなくこれまで稼いでた額を大きく下回るよ」

「うん、正直そこだけ予想外だったけどね」

 イブはパンを一つ口に放り込みつつ苦笑した。

 幻獣の調査や管理を務めているエアスト家は、番犬代わりの幻獣を各地に派遣するなどして資金を得ているため、大富豪とまではいかないがそれなりに財産はあるという。ただ、そのほとんどは調査員の派遣や幻獣の保護に費やされ、シェダルが自由に使える金などほとんどないに等しいらしい。次期当主だというのに、だ。

 幻獣を狩るより多くの報酬金がもらえるだろうと目論んでイブはシェダルに同行していたので、最初に聞いた時は膝から崩れ落ちた。

「だけど、いいの。私が自分で決めたことだから。私がシェダルたちと、まだまだ一緒にいたいの」

「あら、あたしだってイブさんとまだまだ一緒にいたいわ! 短剣の使い方だって教わりたいもの!」

「え、なんで?」

「だって戦ってるイブさん、とってもかっこよかったんだもの!」

 混じりっ気のない純粋な憧れを向けられ、イブは無性に照れくさくなった。照れるなという方が無理である。

「シェダルさんはどうなの?」

「僕?」

「イブさんやあたしと、まだまだ一緒にいたいって思う?」

「――――そうだね」

 オリフィニアの頭をわしわしと撫で、シェダルは静かに言葉を続けた。

「これからもずっと一緒にいたいって思うよ」

 胸の奥にじんわりと沁みていくような、ぬくもりのある声だった。

 イブやオリフィニアとは少しだけ言い回しが違う。「ずっと一緒に」。ほんの少し違うだけなのに、どうしてこんなに嬉しくなるのだろう。イブは理由が分からないまま、赤くなった頬を隠すようにうつむいた。

 それに気付いているのかいないのか、シェダルは「お腹いっぱいだなあ」と満足げに椅子にもたれた。

「あら、あたしはまだ足りないわ」

「もう少し食べたかったら買ってきていいよ。ここで待ってるから」

「わあ! じゃあ行ってくるわ!」

 シェダルから金を受け取り、オリフィニアは嬉々としてパン屋に入っていった。

「やっぱり雇い主としてちゃんと挨拶しに行くべきかなあ……」

 はあ、とシェダルが机に肘をつき、手の甲に頭を乗せた。

「いいって、別に。あなたの人となりはちゃんと話してきたし。でも少し会いたそうにはしてたから、またの機会にでも」

「そうするよ」

 オリフィニアは店内で話し込んでいるようだ。パン屋の老婦人が彼女のことをいたく気に入ったらしい。まだしばらく戻ってこないだろう。

「本音を言うと、僕ね、嬉しいんだよ」

「なにが」

「君が僕の護衛になってくれたこと。ティアマトの件が終わったら、別れるものだと思ってたから」

「私だってそうだよ。今回きりの間柄だって思ってた」

 いつの間にか、お互い別れがたくなっていた。オリフィニアだってそうだろう。

 それだけ三人でいるのは楽しかった。

「あと、シェダルといるとなんだか落ち着くんだ。ここが私の居場所って感じがする」

「本当? ……恥ずかしいけど嬉しいな」

 シェダルの手がイブの頭に乗る。撫でられたりして落ち着くのは神力の影響かと聞いた時、彼は「そんなことはない」と言っていた。だとすると、単純にイブがシェダルに対して安心しきって、身を委ねているからこその悠揚ゆうよう なのだ。

「僕、イブのこと好きだよ。恋だと思う、多分」

「――――へっ」

 シェダルからの突然の告白、けれど「多分」というなんとも微妙な言葉にイブは間の抜けた声を上げた。

「な、なんで?」

「なんでって言われても……僕にはない強さを持ってるし、ティアマトのことだって守ってくれた。育ってきた環境だって違うから考え方も違うけど、だからこそ刺激もある。話してると楽しいんだ」

 ――私と同じだ。

 顔を横に向けると、シェダルと視線がぶつかった。彼は頭に乗せていた手でイブの頬を撫で、嬉しそうに微笑む。

「わ、私も……シェダルといると、楽しいし、さっきも言ったけど落ち着くし……」

 シェダルは「好きだ」と、多分という少々不安の残る一言つきではあったが、恋だとも思うと言ってくれた。では、イブの場合は。恋なんてしたことがないから、果たしてこの感情が恋しさからもたらされるものなのか、いまいち分からない。好意なのは確かなのだけれど。

 シェダルの指がぎこちなく横にずれて、イブの唇をふにふにとなぞった。初めこそ驚いて身を硬くしたが、ただ感触を確かめているだけのような動きに、だんだんくすぐったくなってくる。

「さっきからなにしてるの」

「いや、柔らかいなあと思って……もっと触れてもいい?」

「そんなに気になるならどうぞ」

 促した途端、ぐっとシェダルの顔が近づく。え、と思う間もなく、唇に柔らかくて温かいものが重なり、すぐに離れていった。なにをされたのか理解した途端、イブの頬と耳が真っ赤に染まった。

 ――ふ、触れるって、唇で? ていうか、これって、つまり。

 椅子ごと後ろに飛びのきそうなイブの反応を見て、シェダルは困ったように眉を下げている。

「ダメだった?」

「そ、そういうわけじゃなくて、ちょっと驚いただけ……」

「良かった。もう一回だけ、してもいいかな」

 イブはおずおずとうなずいた。頬にシェダルの手が添えられる。恥ずかしさのあまり目をつぶって俯くと、「少し上を向いてほしいな」とくすくす笑われた。

 言われるがまま、顔をわずかに上げる。彼の吐息が迫ってくる気配がして、

「二人とも、どうしたの?」

 オリフィニアの声に、イブとシェダルは同時に身を引いた。

 いつの間に戻ってきたのか、オリフィニアはパンを大量に詰め込んだ袋を抱えて、こちらを不思議そうに見つめていた。

「な、なにもしてないよ! イブの顔にちょっと傷が残ってた気がしたから!」

 あたふたと言い訳をするシェダルに、たいして興味も無かったのかオリフィニアは「ふうん」とだけ答え、パンの袋を掲げた。

「見てみて! おまけにどうぞってたくさん貰ったの! 二人はお腹がいっぱいなんでしょう? あとでまたみんなで食べましょうよ!」

 イブはシェダルに触れられた場所を、手で順番に辿った。最後に唇に触れ、「もう一回」が来なかったのを少しだけ残念に思った。

「さて、そろそろ行こうか」シェダルが大きく伸びをして、椅子から立ち上がる。「家に戻って、みんなに君たち二人の紹介をしないとね」

「シェダルさんのお家、とっても楽しみだわ! どんなお家なのかしら。可愛いらしい? それともかっこいい?」

「楽しみにしておいて」

「……あれ、そういえばシェダルってレンフナ出身って言ってたよね?」

 山や河を二つばかり越えた先にある隣国だ。徒歩で行けばどれだけの日数かかるか分からない。

「途中までは徒歩だけど、安心して。近々帰るって連絡は出したから、どこかしらで迎えが来ると思う。さすがにポルトレガメからここまで歩いてきて、さらに遠くまで歩くのは僕も無理だ」

「お迎えって、馬車かしら?」

「いや、幻獣だよ。多分、オリフィニアは見たことないんじゃないかな。天馬ペガサス っていう、翼が生えた馬だよ。それに乗って帰るんだ」

「わあっ、楽しみだわ!」

 さすが幻獣専門の家系である。迎えに寄こすものが一味違う。

 イブも天馬は何度か見たことはあるが、乗馬したことはない。私も楽しみだなあとオリフィニアと笑いあう。それを見たシェダルも嬉しそうに笑っていた。

 ちゃり、と首元で三日月のネックレスが揺れる。父が生きていたとしたら、イブが選んだ道についてなんと言うだろうか。きっと豪快に笑って背中を押してくれるはずだ。

「イブ」

 オリフィニアが走って行ったので追いかけようとした時、シェダルに呼びかけられた。なに、と振り返ると、唇に触れたのと同じ柔らかいものが頬に当たった。目をぱちぱちさせていると、シェダルはいたずらに成功した少年のように嬉しそうに笑っている。

「……みんなに紹介するって言ってたけど、私のことはなんて説明するつもりなの」

 動揺を押し隠そうとするあまり、ぶっきらぼうな言い方になってしまった。シェダルは笑みを浮かべたまま「どうしようかな」とイブの隣に並んだ。

「なんて紹介するのがいいと思う?」

 分かってるくせに、とイブは彼の頬をつねり、道の先でこちらに向かって手を振っているオリフィニアの元へ、二人そろって駆けていった。

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溟海の乙女―彼方に集う獣たち― 小野寺かける @kake_hika

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