第17話
あたたかい。日差しを浴びる温もりとはまた違う、全身がゆったり波間でたゆたっているかのような奇妙なあたたかさに、イブはうっすらと目を開けた。夜明けはとうに過ぎ、空は青く澄み渡っている。適当にちぎったような雲がちらほら浮かび、海鳥たちが仲良く会話しながらどこかへ飛び去って行った。
「ああ、起きられましたか。気分はいかがでしょう」
「まだちょっと体がだるいけど、ほとんど大丈……」
普通に返事をしかけて、イブはがばっと体を起こした。
そうだ。ティアマトが目覚めたのだ。反対にイブは気を失って倒れた。隣を見るとシェダルがいる。彼はまだ眠っているようだ。次に海を見て、ティアマトがいなくなっているとようやく気づいた。
「オリフィニア、イブさんが起きましたよ」
「本当?」
喜びと驚きが入り混じった声に振り返ると、町の方からオリフィニアが駆けてくるところだった。両手いっぱいに様々な袋を抱え、前がちゃんと見えているか怪しい足取りだ。
「……誰?」
イブは自分の後ろに怪訝な眼差しを向けた。見覚えのない女性がそこに座っているのだ。彼女は微笑みをこぼし、「腕の調子はいかがですか?」と問いかけてくる。
「腕? あ、そういえば――いててててて」
自覚した途端に痛みがよみがえってきた。右の二の腕に目を落とすと、包丁は抜き取られているが、真っ白だったシャツはぐっしょり血に濡れて完全に変色している。
「申し訳ありません。己の体であれば海水で回復できるのですが、普通の人間にはそうもいかず。魔術師のように他人の体まで癒す力は、私には備わっていないのです。ああ、ですがご安心を。止血なら我が娘がしてくれました」
確かに傷口には白い布が巻きつけられている。「あたしが巻いたのよ!」と嬉しそうに教えてくれたのはオリフィニアだ。抱えていた荷物を砂浜に下ろし、いそいそと女性に寄り添うように座り込む。
「海水……娘……」
女性とオリフィニアを交互に見て、イブはもしかしてと首を傾げた。
「……ティアマト?」
「はい。このたびはご迷惑をおかけしました」
女性――ティアマトはすまなさそうに頭を下げた。一見するとごく普通の成人女性に見えるのだが、髪と瞳の色はもとのままだ。肌の色はイブよりじゃっかん青白い程度で、角も生えていないし下半身もちゃんとある。どこから調達したのか、オリフィニアのワンピースによく似た白いドレスを身にまとい、儚げな印象も相まって、どこぞの貴族令嬢と言われても疑われないだろう。
けれどなぜ人と同じ大きさに。イブがますます首を傾げていると、ティアマトは己の膝をぽんぽんと叩いた。
「まだ体調がすぐれないのでしょう? 横におなりなさい」
「え、でも」
「なりなさい」
有無を言わさぬ口調には幻獣、というか女神らしい威圧感があるのは、多分気のせいではない。イブはおとなしくティアマトの膝に頭を預けて、先ほどまで感じていたあたたかさはこれかと納得した。
「〈核〉は大丈夫なの?」
「ええ。なにも問題ありません。オリフィニアと、そこで眠っている魔術師のおかげです」
「イブさんは大丈夫? 何回も呼びかけたのだけど、全然起きなくて心配したのよ」
「無理に起こしてはいけないからと、オリフィニアには食事を買いに行かせました。お二人が目を覚ました時、きっとお腹を空かしていると思いましたから」
山のような荷物はすべて飲食物か。そういえば砂浜に集まっていた人々がどこにもいない。町からは賑やかな声や物音が絶え間なく聞こえ、どうやら店を開けたり、家の修復を始めたらしいと分かった。
「イブさん、と仰いましたね。一つ頼みごとがあるのですか、聞いていただけませんか」
「内容によるけど……っていうか、私も聞きたいことがある」
「なんでしょう?」
ティアマトがイブの頭を撫でてくる。手つきは優しく、これで歌でも歌われたら確実に眠ってしまいそうだ。
「人の姿になれるの?」
「一年に一度だけですが、こうしてあなた方と同じくらいの大きさに縮めます」
「なんで『一年に一度だけ』って決めてるの。人と同じ大きさになれるんなら、オリフィニアと一緒に暮らせると思うのに」
「それは……」
「神力が暴発しかねないんじゃないかな」
弱々しい声が横から聞こえ、イブははっと目を見開いた。
「シェダル!」
「シェダルさん! ああっ、良かった! 今度こそ起きないんじゃないかって怖かったのよ!」
まるで主人に飛びつく愛くるしい犬のように、オリフィニアはシェダルに抱きついた。彼は体を横たえたまま、時々ぐえっと苦しげな声を上げつつオリフィニアを撫でる。
「体調は?」
「うーん。確実に限界を超えてたからね。正直、今は口と手くらいしか動かない。足なんかいまだに感覚ないよ。そこにいるのはティアマト?」
「あなたのおかげで助かりました。感謝し尽くしても足りません」
ティアマトの礼に、シェダルは照れくさそうに頬を赤らめている。
「それが僕の役目だから、気にしないでほしいな」
「ねえ、神力が暴発しかねないってどういう意味?」
「元々の体ってすごく大きかっただろ? それだけ体に流れてる神力の量が多いってことなんだよ。あれだけの量を、今は人間と同じ大きさの体に流してることになる。要するに容量を超過した状態なんだよ、人の体のティアマトは。合ってる?」
「さすが魔術師ですね」その通りです、とティアマトは静かにうなずいた。「この体も、海水と神力で作り上げた紛い物のようなものです。あまり長時間この体でいると、膨大な神力が行き場をなくすためか自我を失いそうになります」
だから年に一度なのだとティアマトは語る。何度も人の体になればなるほど耐性が出来るというわけではないようで、むしろ逆に体を保てる時間が短くなるのだと。
「だから今のうちに、どうしてもしなければならないことがあるのです」
「それが『頼みごと』?」
「ええ」
詳しく聞かせてもらって、イブは悩んだ。聞いてやりたいのはやまやまだが、どんな結果が待ち受けているのか想像がつかない。最悪の展開だって十分に考えうる。
それでも行くのかと訊ねると、ティアマトは意を決したように「はい」とうなずいた。
「申し訳ありませんでした」
ティアマトがしずしずと頭を下げる。イブは隣に付き添いながら、正面で渋い表情を浮かべる人々をひっそりと見回した。
ポルトレガメの集会所である。一般的な民家ほどの広さしかないそこに、大勢の人々が集まっていた。先頭には依頼人代表の壮年の漁師が立ち、老若男女、数えきれないほどの人数が、いっせいにティアマトに目を向けている。
――私の個人的感情で、この港町に住む人々を苦しめてしまった。彼らは望んでいないかも知れませんが、どうしても私の口から直接謝罪を述べたいのです。
彼女の頼みを聞き、イブは町中を駆け回った。反応は人それぞれで、あからさまに拒否感を示す者の方が圧倒的に多く、好意的な意見は片手の指で数えるに足るほどだ。集まった人々の大半は壮年の漁師の「行くだけ行ってみよう」という呼びかけに応えた者たちだ。イブがいなければ、彼らはいっせいにティアマトに怒りをぶつけるに違いない。
「〈核〉を破壊せよという命令以外なら、どのような報いでも受けましょう」
「悪行の自覚があるってのか」
「今は。当時の記憶は、正直に言いますと怒りと悲しみでうろ覚えなのですが。己の感情に海の状況が左右されると知りながら……私は、あなたがたの日々を苦しめた。どれだけ償おうと、あなたがたの心が晴れることはきっとないほどに」
とても『破壊』の魔術師に作られ、その性質を得ているであろう幻獣とは思えない。人間よりも人間くさい。イブは余計な口を挟むことなく、黙って成り行きを見守った。
「俺たちの仲間には船を壊された奴もいる。それと同じことをされる覚悟はあるのか」
「あなたがたが望むのであれば、いくら傷つけられても構いません」
「けど、幻獣ってのは傷が勝手に治るものなんだろ」
「どれだけ船と同じくらいぶっ壊そうが治られちゃなあ……」
「でしたら私は陸に上がって制裁を受けましょう。陸には私の力は及ばず、傷が修復されることもない。一切抵抗しません」
――なるほど。ティアマトは海に触れている状態じゃないと神力がちゃんと機能しないのか。だから余計に人の体で海から離れると神力が暴発しやすくなる、と。
一人で納得しつつ、でも、とイブは腕を組む。
いくら幻獣とはいえ傷つけられれば痛みがあるはずだ。住人たちの怒りや苦しみを全て受け止め、傷が治ることもないとなると、想像を絶する痛みがあると思うのだが。
ティアマトはそれすら覚悟の上なのだろう。彼らが受けた苦しみは、自分が受けるはずのそれを遥かに凌駕すると分かっているのだ。集会所に集まった面々を映す瞳には、固すぎるほどの決意が浮かんでいる。
「……一応、聞いてもいいか。お前はなんで暴れたんだ? 俺たちの海から魚を追いやり、暮らしを苦しめた」
「愛しい人が死んだと知って、受け入れたくなかった。それだけでなく娘まで連れ去られたと分かり、けれど私にはどうしようもなくて、ただ怒り、悲しみ、嘆くしかなかった。あなた方を苦しめるつもりなど毛頭なかったのですが、きっと言い訳にしかなりません」
「この海にはずっと昔から住んでたのか」
「ええ。三百年ほど前から」
「そんなに昔から?」と驚いたのはイブだ。魔術師たちが滅ぶより百年も前からだ。思っていたよりも長い間、ポルトレガメの海で暮らしていたらしい。なぜこの地だったのかと問われると、ティアマトを作り出した魔術師の家から一番近かったのがここだったから、という単純な理由だと彼女は言う。
「別の海へ移れと言うのなら、遠く離れた場所へ移ります。二度とここへ戻るなと言われれば従いましょう」
「竜巻を起こして、家や店をぶっ壊したのもそいつなのか?」
家が全壊したという老人に訊ねられ、イブはぐっと言葉に詰まった。突風や竜巻は、主にオリフィニアが無意識に神力を使ってしまったがゆえに引き起こされたのだ。正直に言えば彼らはどんな反応を示すだろう。子どもだろうが関係ない、連れてこいと命じられるだろうか。ティアマトはなんと答えるのかと彼女を見やると、「はい」と一つうなずいた。
「この地には私以外の幻獣はいませんから」
「……それはお前がいるから、他の幻獣は寄ってこないって意味か?」
ええ、とティアマトがうなずくと、漁師たちは「少し考える時間をくれ」と揃って集会所から出ていった。すぐに戻るというので、イブはティアマトとともに集会所の椅子に座り込んだ。
「本当になにを言われても受け入れるの?」
「私に出来る償いであれば、なんでも。オリフィニアを差し出せと言われれば、お断りしなければなりませんが」
「竜巻云々の時にオリフィニアだって言ってれば、そう言われたかも知れないけどさ。あなたはかばってたし、娘がどうこうとは言われないんじゃないかな」
「……あの子は、イブさんを姉のようだと言っていました。オリフィニアはあなたを慕っているようです」
「慕われてる、のかな。自分では分からないけど。でも私も、妹がいたらあんな感じなのかなあとは何度か思ったよ。一人っ子だから兄弟姉妹がいないし、ちょっと楽しかった」
無邪気でよく笑って、たまにどこへ行ってしまうか分からない危なっかしさはあるが、一緒にいるとこちらも自然と笑顔になれる。手のかかる妹というのはこういう存在なのかなと考えたものだ。
「もし私になにかあれば、あの子を頼んでもいいでしょうか」
「……うん。でも私じゃなくて、シェダルの方が確実なんじゃないかと思うよ。オリフィニア、まだ神力がどういうものなのか分かってないみたいだし、それを教えるにはあいつが適任だと思うんだ」
「あの魔術師ですか。彼にも改めて礼を言わなければなりませんね。オリフィニアを私の元まで連れてきてくれた」
話がまとまった、と戻ってきたのは壮年の漁師、一人だけだった。他の人々は外で待機しているという。
「三百年もここにいたって言うんだ。その間、海がここまで荒れたのは今回だけだし、魚もよく獲れてた。時たま遠方の港に行くと、幻獣のせいで漁が全くできないとかって話も聞くが、ここでそんな話は聞かない。お前っていう幻獣がいるから、他の小物が寄ってこないんだろう。
がしがしと髪の薄い頭をかきつつ、漁師は言葉を続けていく。
「砂浜に例の魔術師がいたから、ティアマトってのはなんなのか聞きに行った奴がいた。そうしたら魔術師が『彼女は幻獣であると同時に、海の女神だ』って答えたと。……神ってのは俺たち人間にはどうこう出来ない理不尽さがあるもんだろ」
つまりだ、と漁師はティアマトに歩み寄り、厳めしい眼差しで見下ろした。
「俺たちはお前を傷つけたり、追い出したりしない。仮に追い出して、他の幻獣とか、害獣が寄ってきちゃ困るからな」
「…………私にはなんの償いも出来ないのですか?」
「最後まで聞けよ。なんのお咎めもなしってのは、さすがに誰も納得しない。だから手伝ってもらうことにした。家と店、あと船だな。壊れたものがたくさんある。それを直すのを手伝ってくれ」
「……それだけで、いいのですか?」
どんな報いでも受けると言っただけに、ティアマトは彼らの願いに拍子抜けしたようだった。実際イブも目を丸くした。
「幸い、町の連中は死んじゃいないしな。けど骨折とか打撲とか、怪我をした奴はたくさんいる。そいつらが動けないぶん、代わりに働いてくれよ」
「……ええ、ええ。もちろん」
ほっと安心したのか、ティアマトが苦しげに咳きこんだ。人の体でいるのに限界が近づいてきたのだ。イブは壮年の漁師や、外で待機していた人々に礼を言って集会所を辞し、ティアマトを引きずりながら急いでシェダルとオリフィニアの待つ砂浜に戻った。
海に足を浸けると、瞬きの合間にティアマトは元の大きさに戻った。何度見ても慣れない大きさと美しさに、イブはしばし言葉を失った。
シェダルの体調はまだ万全ではないようで、だいぶ動けるようになったものの足に痺れが残っていると苦笑していた。泊まっていた宿に戻ろうかとも思ったが、イブたちは結局、砂浜で語らい、笑いあいながら夜まで過ごし、ティアマトに見守られながら眠った。
暮れていく夕陽と、星々がきらめく壮大な夜空、そしてそれらを映してさざ波をたてる海の美しさを、イブは忘れないでいようとひそかに誓った。
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