恋のピンチヒッター

伊藤充季

恋のピンチヒッター

「任せたよ、ピンチヒッター……!」

 わたしは、「たしかに」と言いながら静かにうなずき、目の前の女の子から手紙を受け取った。すると、女の子は跳ねるような足取りで、早足で廊下を歩いて行って、すぐに人混みに紛れ込んで見えなくなってしまった。

 これからわたしは、この手紙を人に渡さなければならない。

 跳ねるような足取りで廊下を歩いて行った女の子は、隣のクラスの佐藤さん。そして、この手紙の宛先は、さらに隣のクラスの男の子、三浦くん。そしてそして、佐藤さんが言った〈ピンチヒッター〉なる人物は――もちろんわたしのことだ。


 * * *


〈ピンチヒッター〉というのは略称である。はじめは、〈恋のピンチヒッター〉と呼ばれていた。でも、みんなそう呼ぶのを恥ずかしがったのか、「恋の」を省いた〈ピンチヒッター〉という呼び名がいつの間にか定着した。

 それはさておき、なぜわたしが〈恋のピンチヒッター〉となるにいたったのか? それには、たいして込みあってもいない、ある事件が関係しているのだった。

 わたしは、昔から女の子とよりも、男の子と遊ぶことのほうが多かった。

 同級生の女の子は、教室でおしゃべりしたり、本を読んだりしていたけど、わたしにはそれよりも、校庭に出てサッカーや鬼ごっこをして体を動かすことのほうが性に合っていた。そうすると、男の子と遊ぶ機会が多くなるのは、当然のことだった。

 幼かったころは、それでもよかった。いつも男の子と遊んでいるわたしに、面と向かって悪口を投げかけてくる子もいなかったし、他にも一人か二人くらい、わたしと同じような女の子もいたからだ。だけど、その子たちも五、六年生くらいになると、みんな教室で遊ぶようになった。そして、小学六年生の冬のある日、わたしは同級生の女の子から、とうとうこう言われたのだった。

「白木さんってさあ、ヘンだよね……」

 わたしが、「どうして?」と問い返すと、女の子はさらに、こう言った。

「だってさ、いつも男の子と遊んでるじゃん。ヘンだよ」

 そのときわたしが受けた衝撃は、はかり知れないものがあった。

 「男の子と遊ぶのがヘン」なんて、まったく考えたことのなかったわたしは、(そうか、わたしってヘンなんだ!)と思い、それから、自分の生活を見直しはじめた。

 まず、外遊びをやめた。ぼろぼろになった運動靴を捨てて、かわいいピンク色の靴を買い、それを汚さないように、日々気をつけて歩いた。それから、読書の習慣をつけた。同級生の女の子から、児童文庫を貸してもらって、それを毎日読んだ。そして、昼休みは教室で女の子と遊ぶようにした。

 いつもサッカーをしていた男の子が「あそぼうぜ!」と言ってきても、「ごめんねー」と言い、鬼ごっこをしていた男の子が、「外行こう!」と言ってきても、「ごめんねー」と言った。

 そうしてわたしは、「ヘン」ではなくなったのだった。すくなくとも、外見は。

 だが、そうした借り物の「わたし」がいつまでも長続きするわけもなかった。

 中学校にあがって最初の一年は気を遣っていたものの、二年目になるとすっかり元通りになって、男の子ともよくしゃべったり、遊んだりするようになっていた。

 小学生のころとは違い、その行動は、同級生の女の子から「問題」とみなされた。中学二年のある日、わたしはやはり、田崎さんという同級生の女の子から空き教室に呼び出され、こう言われた。

「あんたさ、心当たりある?」

 何のことかわからなかったわたしは、かなりうろたえたが、目の前の田崎さんからは、ただならぬ気配を感じたので、きっぱり否定しなければと思い、「まったく!」と言った。

「そう?」

「うん。まったく!」

「じゃあ、いいんだけどさ」

「うん」

 田崎さんは、落ち着きがなさそうに、辺りをうろうろと歩き回っていた。そして、またわたしの目の前に戻って来ると、こう言った。

「――あー、もう! あんたがそんな態度じゃ、なんて言えばいいのか、わからないじゃない!」

「えっ?」

 ほんとうに何のことかわからなかった。

「いい? あんたね、女子の間で、『ビッチ』とか呼ばれてるわよ」

「えっ?」

 泣きたいような気分になった。「ビッチ」という言葉は知っていたし、あまり良い意味でないことも知っていた。

「それでさ、なんていうか、い、言いづらいんだけどさ」

「えっ?」

 田崎さんの顔は紅潮していた。わたしは、今にも泣きだしそうに混乱していた。

「西川君っているじゃない? 二組の」

「あ、西川くん」

「そう、西川くん。あんたがよく話してる」

 西川君とは、昼休みによく校庭で遊ぶ仲だった。

「うん、よく遊ぶよ」

「わ、私ね、西川君のことが――」

「えっ? えっ?」

 田崎さんが何を言いたいのか、まったくわからなかった。

 西川くんの名前が出たことで、少しは混乱が解けていたものの、それでも泣き出しそうだった。わたしは、目の前で起こっていることをただ眺めることしかできなかった。

 空き教室の窓から、オレンジ色の夕日が差し込んできていて、紅潮している田崎さんの頬の色とまじりあって、なんだかよくわからない色になっていたのを、よく覚えている。

「――好きなの」

 田崎さんは小さい声でそう言った。

「えっ?」

 田崎さんが急に厳しい顔つきになって、わたしのほうに詰め寄ってきた。さっきまでの顔が、嘘みたいだった。

「だ、か、ら! 私、西川くんのこと好きなの! わかる?」

 田崎さんの剣幕に圧されて、泣き出しそうな気持はすっかりどこかへ行ってしまった。

「あっ、わかった! わかったよ、田崎さん。わかったから――」

「わかったから?」

「あんまり、大声で話すのはよくないんじゃないかな……?」

「あ、ごめん……」

 田崎さんは、しゅんとして、声の音量を落とした。

 それから、空き教室のなかで、日が暮れるまで二人で話した。

「じゃあ、あんたは別に西川くんのこと好きじゃないわけ?」

「ぜんぜん」

「べつの男子のことも?」

「ぜんぜん! ただ、一緒に遊んでるだけだよ」

「ほんと?」

「ほんと!」

「――私も誤解していたみたいでごめん。あんたのこと『ビッチ』って呼んでるやつには、話つけとくから」

「べ、べつにいいよ……あはは」

「よくないわよ」

 田崎さんは、終始飾らない態度をとっていた。

「でも、田崎さんが嫌われるかもしれないし、やっぱりわるいよ」

「あんたが誤解されっぱなしのほうがわるいわ」

「でも……」

「うーん……あ、そうだ! こんなのはどう?」

「こんなのって?」

「あんたのことを妬んでる女子って、あんたが仲良くしている男子のなかに、好きな人がいることが多いの。それはわかる?」

「……まあ、わかる」

「つまり、あんたが、男子に対する恋心がないってことを証明できればいいのよ」

「どうやって?」

「女子のラブレターを、男子に渡す仲介役をやるの」

「えっ?」

「だから、あなたが女子と男子の架け橋になれば、もうあんたを誤解する女子はいなくなるわ――多分だけど」

「な、なるほど……」

「なかなか良い案だと思うけど、どうする……? やりたくないなら、やっぱり私が――」

「せっかく、田崎さんが考えてくれたんだもん! やるよ!」

 田崎さんがにやりと笑って、「決まりね」と言った。

「これからあんたは、〈恋のピンチヒッター〉よ」

 冗談めかした口調でそう言った田崎さんに、わたしが大きい声で「なにそれ!」と返すと、田崎さんは長い間笑い続けていた。

 あとから田崎さんに聞いてみたら、〈恋のピンチヒッター〉というのは、古い曲のタイトル……らしい。いまだに詳しいことは知らないけど。

 帰り際、「じゃあ、まず田崎さんのお手紙、西川くんに渡そうか?」と言うと、田崎さんは笑ってこう言った。

「いいよ。私は、自分でやるから」

「自分で?」

「自分で言うの、好きって」

 そう言った田崎さんは、ものすごく格好よく見えた。


 * * *


 とにかく、その次の日から、わたしは〈恋のピンチヒッター〉になった。

 女の子のラブレターを、男の子に渡すということを続けていたら、誤解もうまいぐあいに無くなったし、わたし自身がこの仕事を気に入ったこともあって、中学卒業までずっと続けていた。

 田崎さんと西川くんはというと、あのあとめでたく付き合い始めたようだった。わたしはいつも、仲睦まじそうに会話する二人を見つけると、なぜだか後ろめたいような気もちになってその場から逃げていた。

 「恋」って、何なんだろう? 二人を見ていると、いつでもそんな考えが頭に浮かぶのだった。

 その後、わたしは中学を卒業し、高校に進学した。田崎さんとも西川くんとも別の学校で、これでもう〈恋のピンチヒッター〉もお役御免かな、とぼんやりと考えていたら、高校生になって少し経ったある日、知らない女の子から突然声をかけられて驚いた。

「〈ピンチヒッター〉ってあなた?」

「えっ?」

 その子に話を聴いてみると、わたしと同じ中学だった子から、うわさを聞きつけてやってきたのだと言った。

 どうやら、〈恋のピンチヒッター〉にはまだまだお役が残っているらしい。そう知ったわたしは、俄然やる気になり、一年間で何組かのカップルを成立させた。

 そして、二年目になっても〈ピンチヒッター〉の仕事は続いたのだった。


 * * *


 ここでお話は冒頭に戻る。

 わたしは、佐藤さんから受け取った手紙を三浦くんに渡して、下校しようとしていた。

 これで今日の〈ピンチヒッター〉の仕事も終わりである。二人がめでたく付き合えるかどうかはわからないけれど、わたしはやれるだけのことをやった。あとは天にまかせるほかない。

「よし……と」

 荷物を鞄に詰め終えたことを確認して、一人で教室を出ていく。

 教室を出て、廊下を抜けて、学校を出ていくまでに、数人の生徒に声をかけられた。

「白木、帰るの?」とか、「ばいばーい」とか、他愛もない帰りのあいさつ。〈ピンチヒッター〉をやっていることもあって、学内でもよく知られてはいるのだろうけど、わたしには一緒に二人で下校するほどの仲の人はいない。

 夕陽が舐めるように照らしている下校路を歩いて、バス停にたどりつくころには、もう陽はほとんど沈んでいた。

 桜もほとんど散ってしまって、悲しげで涼しい風が何度も通り過ぎていく。その風に乗って、春の草花の香りがする。

 そのにおいをかぎ、バスを待ちながら、わたしは近頃生じつつある、ある悩みについて考えていた。

 それは、わたしには「恋愛感情」がないのだろうか? そして、「恋愛感情」がないわたしは、「ヘン」なのだろうか? という悩みだった。

 冷静に考えると、〈ピンチヒッター〉をやっていた四年間、このことについてまったく悩みを持たなかったのが、不思議だとさえ思った。

 小学生のころから、男の子とばかり話してきた。だけど、一度も「好き」と思ったり、ドキドキしたりしたことはなかった。いわば、ただ一人の気が合う人間として、目の前の男の子を見ていたのだろう。

 だけど、周りの女の子はそうではないらしかった。みんな、男の子を好きになったり、好きな男の子といるとドキドキしたりするらしかった。それが証拠に、中学二年生の時、わたしは同級生の女の子に「ビッチ」というあだ名すらつけられたのだ。

 その状況は、田崎さんの提案で〈恋のピンチヒッター〉となってから、ずいぶん良くなった。それ以来、相変わらず気兼ねなく男の子と話しているけど、女の子にいじめられたりすることもなくなった。だけど――

 男の子を好きになったり、ドキドキしたりしないわたしは、「ヘン」なのだろうか?

 頭のなかで、小学生のころ「白木さんって、ヘンだよね」と言われたときのことが、何度も繰り返し思い出される。

 わたしは、やっぱり、「ヘン」なのだろうか?

 ブーン、というバスの音に思考を遮られる。行先の表示を見ると、自宅まで帰ることのできるバスだった。バス待ちをしていた同じ学校の生徒が、何人かバスに乗っていくのが見えた。

 わたしも定期を取り出し、バスに乗車する。

「発車しまぁす」

 運転士のアナウンスで、バスは動き出す。

 夕方のバスは、いつも混んでいる。運が良ければ、座席に座ることもできるが、ほとんどの場合立ったまま帰ることになる。そして、今日はというと――わたしより先に乗っていった生徒がみんな座ってしまっていて、座席はちょうどいっぱいになっていた。

(そんなぁ……)

 ちょっとした理不尽を感じながらも、立ったままでいることがものすごく嫌いだというわけでもないので、二人掛けの椅子の横にあるポールにつかまって、じっとしていた。

 でも、みんな座っているなかで、わたしだけ立っているというのは、ちょっとだけ恥ずかしいなと思った。


 * * *


 バスに乗って、自宅の最寄に着くまでは、だいたい三十分くらいかかる。そして、このバスの利用者は、だいたいわたしと同じバス停で降りるので、座席はなかなか空かない。

 しかし、わるいことに、バスが出てから十分を過ぎたあたりで、突然ものすごく気分が悪くなってきた。

(あ、倒れるかも……)

 とにかく気分が悪く、何が原因かはわからないものの、立っていることができない。でも、座る座席がないので、立っているしかない。ポールにしがみついて、やっと立っているといった感じである。恥も外聞も、あったものではない。

(はやく、はやく着いて……)

 心のなかで何度もそう祈るが、頭では到着まであと二十分ほどかかることを、しっかりとわかっていた。

 ポールをつかんでいる手のひらから、脂汗がにじんで、つるつるとすべる。足ががくがくと震えている気がする。ぼんやりとしている眼で、窓の外を見てみると、もう陽はすっかり沈んでしまっていて、車のヘッドライトだけがビュンビュンと通り過ぎていく。

(あ……)

 額から垂れてきた汗が頬をつたったとき、足からくずれおちそうになった。

(もう限界かも……)

 視界がぼんやりとにじんで、今自分が泣いていることに気づいた。その時だった。

 スカートのすそを、ぐいぐいと引っ張られる感触がした。必死にそちらのほうに目を向けると、女の子がわたしの眼をじっとのぞき込んでいた。

 二人掛けの席の片方に腰を下ろしているその女の子は、わたしの眼をじっと見ながら、「具合、わるい?」と言った。

 わたしが無言で何度かうなずくと、女の子は「大丈夫」と言って、軽く立ち上がってわたしのほうに手を延ばし、腰のあたりを優しくつかんで、自分の隣に座らせた。

(ありがとう……)

 口に出すことはできなかったが、心のなかでそうつぶやくと、何度か深呼吸をした。

「――どう、落ち着いた? 白木さん」

「うん。ありがとう」

 ふと感じた違和感。

(あれ、どうしてわたしの名前を?)

 そもそも――今まで必死すぎて気にかける余裕がなかったけど、わたしを助けてくれた子って、誰なんだろう?

 わたしは、そこでようやく隣に座っている女の子の顔を見た。

「あ……」

「どうしたの、白木さん?」

 名前は知らない。話したこともない。だけど、知っている子だった。毎日、行きのバスも帰りのバスも一緒で、学校でも何度か見たことがあった。

 髪型はわたしと同じショートカットで、でも癖っ毛のわたしとは違って、まっすぐできれいな髪の毛で、肌もきれいで、眼がまっすぐしていて……って、名前も知らない子なのに、何をじろじろ観察してるんだろう。

「あの、白木さん?」

「わっ」

「もしかして、まだ、具合悪い?」

「いや、もう、大丈夫。なん、だけど」

「けど?」

 けど、のあとわたしは何を言おうとしたのだろう。うまく言葉が出てこない。

 女の子が、まっすぐした眼でわたしのことを見つめてくる。あんまりきれいなので、瞳に映りこんでいるわたしの顔が、見えるような気がしたくらいだった。

「い、いや! ほんと、大丈夫」

「それならいいけど」

「あは、あははは……」

 わたしが渇いた笑いを浮かべていると、「きゅるるる」というか細い音が鳴った。しかも、わたしのお腹から。

「な、なんだろうね。あはは……」

「白木さん、もしかして、ごはん食べてない?」

「……朝から何も」

「しっかり食べなきゃだめだよ! それじゃ、貧血かもしれないね」

「貧血?」

「そうだよ。危ないんだから――」

 女の子はそう言いながら、自分の鞄のなかをごそごそとやって、菓子パンの袋を取り出した。

「はい、あげる。いつもお昼に二つ持っていくんだけど、一個余っちゃうんだ」

「いや、いいよ。そんな……そもそも、こうなったのだって自分のせいで――」

「だめ!」

「ふぐっ」

 目にもとまらぬ早業で、菓子パン――スティックチョコパン――が、わたしの口に突っ込まれていた。

 戸惑ったのもつかの間、早くパンを咀嚼しなければ、命の危険につながると判断したわたしは、精一杯口を動かして、パンを食べることに専念した。

「――ごくん。あ、ありがとう」

「どういたしまして」

 演技がかった口調でそう言いながら、女の子の手には、すでに次なるパンが待ち構えていた。おそらく、今からわたしの口に突っ込もうとしているのだろう――

「ご、ごめん。ありがたいけど、自分で食べるよ」

「そう? ほんとにちゃんと食べる?」

「食べる。食べます。自分で」

「そっか――わかった。はい!」

 女の子が袋ごとパンをわたしの手に握らせた。――これで命の危険は脱した。危なかった。

 パンをゆっくりとちぎって食べながら、女の子にさっきから気になっていた疑問を、ぶつけることにした。

「どうしてわたしにここまでやさしくしてくれるの? お互い、しゃべったのって初めてだよね?」

「え……」

 驚いた。驚いてパンを落としそうになった。

「え」と言った女の子は、今にも泣きそうな顔をしていたからだ。

「あ、ごめん! ほんとうに。前にもどこかでしゃべったことがあったかな? なんていうか、わたし記憶力の悪さに定評があって……あはは……」

 笑ってごまかすことしかできないのがなんとも情けなかったが、今はひたすら謝ることしかできそうもなかった。

「いや、ちがうの。白木さんとしゃべったのは、今がはじめて」

 またしても驚いた。

 やはり、わたしとこの子はしゃべったこともないのだ。だとすれば、さっきの反応は何だったのだろう――

「だって、わたし白木さんが――」

「えっ?」

「白木さんが倒れたりしたら、かなしいよ」

 その瞬間、バスが停車して、アナウンスが流れた。そのアナウンスは、このバスが自宅の最寄バス停に到着したということを報せていた。

「あ、着いた。今日はほんとうにありがとう……えーと」

「心野――心野菜緒ここのなおだよ」

「ありがとう、心野さん。わたしは白木閏葉しらきうるはっていうんだ」

 短い沈黙のあと、心野さんは笑いながら、「知ってる」と言った。

 わたしは、急いでバスから飛び降りて、まだ心野さんが乗っているバスが発車するのを見送った。


 * * *


「はー」

 ベッドにもぐりこんだあとも、目が冴えてなかなか眠りにつくことができなかった。

 帰りのバスで知り合った、とてもやさしい女の子。

 心野菜緒さん。

「心野さん……」

 小さい声で名前を読んでみた。その一瞬あとで、どうして自分がそんなことをしているのかわからず、思わず苦笑してしまう。

(かわいい人だったな)

 それにしても、別れ際に心野さんが言ったこと、どういう意味だったんだろう。

(「白木さんが倒れたりしたら、かなしい」か)

 知り合って間もないのに、どうしてそこまで言ってくれたのだろう。

 それに、あのときの心野さんの表情や雰囲気はまるで――

 いやいや、そんなはずはない。思い上がるのもこれくらいにしておこう。

 わたしは、あくまで〈ピンチヒッター〉なんだ。これを続けている限り、女の子たちもわたしを特別嫌ったりはしない。わたしは「ヘン」なのかもしれないけど、「ヘン」じゃないんだ。

(でも、やっぱり)

 目を閉じても、布団のなかで体を丸めても、何よりも先に心野さんのことを考えてしまう。

 それからも思考の堂々巡りは何回も続いて、気づけば朝になっていた。

 寝たのか、まったく寝てないのかも判然としない、どんよりとした気分のままで学校に行かなくてはならないのはもちろん苦痛だったが、窓から差し込む朝日を見たとたん、わたしは急激に目が冴えるのを感じた。

(そうだ。よし)

 今日も学校に行けば、心野さんはきっといるはず。会いに行こう。心野さんに。

 そうだ、昨日のお礼とかなんとか言って、チョコレートでも買っていこう。

 わたしはものすごい速さで制服に着替えると、いつもより早い時間に家を出て、コンビニでチョコレートを買った。

 なぜか、心が弾むのを感じた。いつもの通学路、バス、高校への路。すべてが輝いていて、散ってしまった桜がまた満開になったかのように、景色が色づいていた。

 家を早めに出たのが災いしたのか、バスのなかでは心野さんを見なかったけれど、学校に向かう足取りは軽かった。スキップしているといってもいいくらいだった。

(なんだろう、この気持ち)

 はじめてだった。何もかもが、わたしには見たことのないもので、感じたことのないものだった。

 学校の門をくぐって、教室にたどりつくまで、何度か声をかけられる。

「よお、白木」、「おはよう!」

 そんな、いつものあいさつすらも心地いい。

 一人で家を出て、教室までやってきたのに、まるでずっと誰かと二人で歩いてきたような気分だった。

 そして、教室のドアを開けて、自分の席へと急ぐとき、その周りをうろうろと歩いている心野さんの姿を見つけて、息が止まりそうになった。

 わたしが声をかけあぐねていると、心野さんが顔をあげて、わたしを見つけた。

 立ったときに見てみると、心野さんはわたしよりも身長が十センチほど小さかった。大きくない歩幅で、わたしのほうにゆっくりと近づいてくる。

「あ、あの、白木さん」

「――おはよう、心野さん」

 わたしは、つとめて落ち着いた声を出そうとした。鞄のなかにひそんでいる、プレゼントのチョコレートが、今にも暴れ出しそうな気がした。

「あの、白木さんってさ」

「あ、うん」

「白木さんって、〈ピンチヒッター〉なんだよね?」

 目の前の風景が、がらがらと音をたてて崩れていくようだった。

 〈ピンチヒッター〉? どうしてここでその名前が?

「え、まあ、そうだけど」

「じゃあ、お願いがあるんだ」

 そう言うと、心野さんは、一通の封筒をわたしに差し出した。

 わたしは無言でそれを受け取ると、「たしかに」と言った。

 いつもなら、依頼者の女の子が「たしかに? なにそれ!」とか言って笑いだし、わたしもつられて笑ってしまう、という展開になる。

 でも、今回は違った。

 二人とも無言だった。

「……じゃ」

 わたしはそれだけ言うと、踵を返し、自分の席に座った。そのままじっと前を見続けて、心野さんが教室から出て行ったかどうかさえ、確認しなかった。


 * * *


 昼休み。

 誰も来ない校舎裏のベンチに座り、わたしは無心で、チョコレートをむさぼっていた。

(なんてことだろう)

 心野さんは、わたしに仕事を依頼したのだ。そしてわたしは、白木閏葉としてではなく、〈ピンチヒッター〉としてそれを受領した。これですべてに説明がいく。

 心野さんがわたしの名前を知っていたのも、わたしが〈ピンチヒッター〉だから。心野さんが倒れそうになったわたしを助けてくれたのも、わたしが〈ピンチヒッター〉だから。心野さんが「白木さんが倒れたらかなしい」と言ったのも――わたしが〈ピンチヒッター〉だから。

 心野さんは、以前からわたしに仕事を依頼する機会をうかがっていたのだろう。それで、偶然バスのなかで倒れそうになるわたしを発見した。そして、〈ピンチヒッター〉に倒れられたら困るので、わたしを助けた。

(なんてことだろう)

 心野さんには、手紙を渡したい相手がいる。

(――なんてことだろう)

 そして、それはわたしではない。

 涙こそ出なかったが、体が震えるのを感じた。チョコレートの味もしなかった。

 チョコレートの空き箱を乱暴に鞄に押し込むと、心野さんから受け取った封筒を取り出して、じっと見た。

 真っ白い封筒。汚れひとつなかった。

 とても天気が良く、白い封筒は陽の色によく映えた。

 春のさわやかな風が、頬を撫でていく。

 散った花びらが、くるくると回転しながら、空へと巻き上げられていくのが見えた。

 この封筒、破っちゃおうかな。

 わたしの頭のなかに、そんな考えが浮かんだ。

 この封筒、破っちゃおう。それで全部、終わりにしよう。

 そんなばかなことを考えている自分に気づいて、さらに惨めな気持ちになった。

 ……そんなことをしても何も変わらない。だいたい、わたしは〈ピンチヒッター〉で、わたしにはこの仕事くらいしかできないのに、それすらできないとなってしまえば、もうわたしには何も残らない。

 ――そもそも、わたしはどうしてこんなにも心野さんにこだわっているのだろう? べつに、何でもないじゃないか。心野さんは、わたしを助けてくれた。たったそれだけのことだろう。なのに、どうしてこんなにも悩んでしまうのだろう。

 ……とりあえず、わたしはこの仕事をやり遂げなくちゃならない。

 あとでチョコレートを買いなおして、改めてお礼を言いに行こう。それで終わりにしよう。

 そう考えながら、宛先を確かめるために、封筒をくるくるとまわしてみた。しかし、どこにも記名がない。仕方がないので、封筒を開けて、中に入っている便箋を取り出そうとした。しかし、便箋を取り出す、その手が震えている。いまさら、何ということもないはずなのに、わたしはどうしてこんなに情けないのだろう。

 惨めな気持ちを感じながら、勢いよく便箋を引き抜き、手紙を開いた。

 ……あれ?

 便箋には、どこを探しても、宛名が書かれていなかった。

 宛名がないだなんて。なら、誰に渡せばいいのだろうか?

 見落としがあったのかもしれない、と思って、もう一度便箋と封筒をしっかりと見てみた。それでも、やっぱり宛名は見つからない。

 今回のように、宛名を確かめるために、やむなく手紙を開くような場合でも、わたしは決して本文には目を通さないことにしている。なぜかと問われると説明はできないが、それが一種の「流儀」だと考えているからかもしれない。

 だが、この場合は話が別だ。

 思い切って、便箋に書かれている文章に、目を通した。

 するとそこには、すこし角ばった文字でこう書かれていた。

『ピンチヒッターさんへ


 あなたがやっていることはとてもすごいことです。普通はできることではありません。あなたに感謝している子は男子にも女子にもたくさんいるし、私もあなたのうわさを聞くたびに、うれしくなってしまいます。でも、うれしい反面こうも思うのです。白木閏葉さん、あなたの恋はどうなるのでしょうか?

 余計なお世話だったら、この手紙をすぐにでも破り捨ててください


 心野菜緒より』


 ぽかん、としてしまった。

 まさか、宛名が「ピンチヒッターさん」なんて書いてあるとは想像もしていなかった。宛名を見つけられなかったわけである。

 これは、わたし宛の手紙――間違いなく、わたし宛の手紙だ。

 心野さんは、〈ピンチヒッター〉を通して「白木閏葉」に手紙を出したのだ。

 もう一度、もう一度、繰り返し何度でも手紙を読んだ。心野さんの文字はやけに角ばっていたし、わたしの手も震えていた。

 心臓がドクンドクンと鳴っているのを感じる。

 そのとき、胸に手を当ててみて、心臓の鼓動を震える手のひらで感じた。そして、わたしは自分が「ドキドキ」しているのに気がついた。

 わたし、ドキドキしてる? これが、ドキドキするということ?

 ――いや、まだわからない。ただ、この状況に対して緊張を覚えているだけかもしれない。

 そうは思っても、今自分が感じているドキドキは、緊張しているときのそれとはまったく別種のものだというのは、直感的にわかっていた。

 じゃあ、いったい何なのだろう?

 手紙を握って呆然としていると、昼休みの終わりを報せるチャイムが鳴った。

 急いで手紙を制服のポケットにしまうと、立ち上がって教室へと走りだした。教室へ向かう途中、何度も足がもつれそうになる。

(放課後になったら、心野さんに会いに行こう)

 走りながら、息を切らしながら、強くそう思った。


 * * *


 終業のチャイムが鳴ると、わたしはすぐに教室を飛び出した。しかし、考えてみると、心野さんの学年やクラスすら知らない。つまり、どこに行けば会えるのかもわからない。

 しばらく校舎のなかをうろうろしながら心野さんのことを捜していたが、すぐに、バス停で待っていればそのうち会えるのではないかということに気がついた。

 ――でも、それではだめだ。それでは遅すぎる、と思った。

 いつもバスのなかで会う時間から考えて、心野さんは何かしらの部活動に参加しているのではないだろうか、と推測したわたしは、片っ端から部活動を巡っていった。だが、心野さんは見つからなかった。次に、学校の敷地内で休憩できるポイント――そういった場所に、わたしは精通していた――を巡った。それでも、心野さんは見つからなかった。

(だめだ。はじめに戻ってもう一度捜そう)

 そう考えて、教室まで戻っている途中、昨日〈ピンチヒッター〉の仕事を依頼してきた佐藤さんと偶然すれ違い、声をかけられた。

「あれ、白木さん? どうしたの、顔真っ赤だよ」

「――いや、ちょっと人捜しをしてて、走ってたから」

「なにも、そんなに急がなくてもいいのに」

「ははは……まあ、そうだよね」

「あ、もしかして、手紙を渡す相手が見つからないとか? そういうことなら、力になるよ! 毎日忙しいねー」

「いや、そうじゃなくて……手紙とかじゃなくて」

「えっ? そうなの。珍しいね。まあ、言ってみなよ。知ってるかもしれないしさ」

「ありがとう――心野さんっていう子を探してるんだけど」

「えっ、心野さんって、心野菜緒さんのこと?」

「そう! そうだよ、どこにいるのか知ってる?」

「知ってるも何も、同じクラスの子だし」

 佐藤さんが、心野さんと同じクラス?

 つまり、心野さんは隣のクラスの子?

 ……迂闊だった。

 ともかく、佐藤さんは心野さんのことを知っていそうなので、もう少し話を聴いてみることにした。

「白木さんって心野さんと仲良かったんだ?」

「うん、まあ、そんなとこ。で、どこにいるのか知ってるの?」

「いや、今日もすぐに教室を出て行っちゃったし。いっつも無口で、誰ともしゃべらないから、何考えてるかわからないんだよね」

 無口で、誰ともしゃべらない?

 わたしを助けて、パンを無理やり口に押し込んできたあの子が?

「確認なんだけど……心野さんって、二人いたりしないよね?」

「そんなわけないじゃん。どうしてそんなこと訊くの?」

「いや、なんでもない……」

「まあ、だから、心野さんがどこにいるのかは知らないんだ。ごめんね!」

「うん、ありがとう」

 そうだ、今重要なのは、「心野さんはすぐに教室を出て行ってしまった」という情報だった。つまり、もう学校にはいない可能性が高い。だとすれば、恐らくバス停にいる。

 佐藤さんに軽く手を振りながら、またしても走ってその場をあとにした。

 バス停への路。昨日と同じように、夕陽がまっすぐに線を描いている。今日の夕陽は、血の色に見えた。周りなど気にせずに、ひたすら走る。心野さんのところへ。きっと、バス停にいる。

「はあ、はあ……」

 バス停にたどりついたわたしは、息を切らしながら辺りを見回した。

 心野さんは、すぐに見つかった。一人で、通学鞄の紐をぎゅっと握って、突っ立っている。

「心野さん!」

 わたしが大きい声で呼びかけると、心野さんは一瞬びくっと震えて、こちらを振り向いた。

「あ、白木、さん……」

「心野さん、お手紙のことだけど――」

 そう言いながら心野さんのほうへと近づいていくと、心野さんはちょっと後ずさりながら、言った。

「へ、ヘンなこと書いてごめんなさい。もう、いいよ。白木さん。付き合わせてほんとにごめんね」

 ぴたりと立ち止まって、心野さんの顔を見る。

 もう陽が暮れかかっているので、はっきりとは見えないが、その顔にはとても寂しげな表情が浮かんでいた。

「いや……ありがとう」

 わたしはそう言って、また心野さんの方へ歩み寄った。

 心野さんも、今度は後ずさりをしなかった。

「あ……」

 心野さんの手を、軽く握った。とてもやわらかくて、冷たかった。

「手紙、読んだよ。わたし、手紙なんてもらったことなくてさ……いや、こんなことを言いたいんじゃなくって、ええと、その」

 やっぱりうまく言葉が出てこない。わたしは、なにを言いたいんだろう。わたしは、何を言えばいいんだろう。

 そのとき、あの手紙に書いてあった一文を思い出した。

〈白木閏葉さん、あなたの恋はどうなるのでしょう?〉

 心臓がドクン、と鳴った。

 恋? これが?

 そんな、まさか。

 でも、もし本当にそうだとしたら――これが、恋なのだとしたら――

「心野さん!」

「はいっ!」

 二人とも、素っ頓狂な声を出してしまう。

「いまからわたし、よくわかんないこと言うと思う。なんでこんなことになったのか、わからないし、いま自分が何を考えてるのかもよくわかんない。だって、まだ知り合って一日しか経ってない。でも、こんなことってありえるんだって――つまりさ」

「……うん」

 行き交う車のヘッドライトに浮かぶ心野さんの顔は真っ赤だったし、たぶんわたしの顔も真っ赤なのだろう。こんな顔は以前にも見たことがある、と思った。あの時の、田崎さんの顔と同じだ。

「これが――わたしの恋、なのかも」

 自分でも驚くほど小さい声だった。

「し、しりゃきさん! わたし、わたし」

 涙声で、何かを言いながら、心野さんがわたしに抱きついてきた。

 幸いにも、バス停にはわたしたち二人以外誰もいなかった。

「ちょ、ちょっと落ち着いて。心野さん」

「だって、だってぇ……」

 心野さんの涙は止まりそうもなかった。

「……心野さん――帰ろうか?」

「うん、うん」

 それからわたしは、泣き止むまで心野さんを抱きしめていた。制服の上着はびしょびしょになって、それに気づいた心野さんはひどく慌てふためいたが、わたしはそれほど気にしていなかった。

 そんなことよりもすごいことが、今目の前で起こったからだ。


 * * *


 バスに乗ってからもわたしたちは、小さい声で話をした。

「心野さん、いつからわたしのこと知ってたの?」

「もう、だいぶ前だよ。一年生の時からだもん。〈ピンチヒッター〉の噂を聴いて、それで気になってたんだけど、白木さんをたまたま見かけて、かっこいい人だなー、と思ってたらいつの間にか……」

「そう、だったんだ」

「うん、でも、こんなことになるなんてちっとも思ってなかった……ほんとに、迷惑じゃない?」

「そんなわけないよ!」

「でも、女同士なんて、ヘンじゃない……?」

 ヘン、か。女同士はヘン。確かにそうかもしれない。ヘン、ヘン、ヘン。わたしは昔から、そればかりだった。それを恐れて、周りに合わせて、「ヘンじゃない自分」を作り上げていた。でも、そんなことはもうどうでもいいと思った。だいたい、考えてみれば、〈ピンチヒッター〉の活動をやっている女の子、という時点でだいぶヘンじゃないだろうか? そう思うと、自然に笑いが込み上げてきた。田崎さんは、ここまで織り込み済みで、わたしを〈恋のピンチヒッター〉に仕立て上げたのかも、なんて思ったりした。

「でも、わたし、心野さんのこと好きだよ。それじゃ、だめかな……」

「……! ありがとう、白木さん……」

 それからも、わたしたちの話は続いた。時に泣きそうになったり、笑ったりしながら、小さい声で話し続けた。

 でも、わたしの降りるバス停までは三十分。三十分なんて、すぐに終わってしまう。

 バスが停車し、自宅の最寄に着いたということを報せるアナウンスが流れた。

 二人とも、黙っていた。

 そして、うつむき加減で心野さんが、こう言った。

「もうちょっとだけ」

 わたしは、立ち上がろうとしていた足から力を抜いて、座席に座りなおした。そして、こう言った。

「いつまでも」

 発車しまぁす、という気の抜けた運転手の声で、バスは動き出す。これからどうなるなんてわからない。今日は、無事に家へ帰れるのだろうか? ――というか、学生鞄も、学校に忘れてきてしまった。

 でも、そんなことはどうでもよかった。

 しばらくすると、わたしのほうに寄りかかって、心野さんが静かに寝息を立て始めた。

 心野さんの家がどこなのかなんて、まだ知らない。もしかすると、降車しなければいけないバス停はとっくに過ぎているのかもしれない。

 それでも。まあ、いいやと思った。

 終点まであとどれくらいあるのだろうか。外を走る車の数も減ってきて、街灯も少しずつ少なくなってきた。窓から夜空を見上げると、明るい星がいくつか、きらきら光っているのが見える。

 相変わらず、心野さんは気持ちよさそうな寝息をたてている。わたしはそれを見ながら、なんとなくからかってやりたいような気分になったが、どうせなら起きているときのほうがいいだろうし、眠っているのを邪魔するのはよくないし、それに、こんな機会は今からいくらでもあるだろう、と考えてやめにした。

「ふう」

 息をついて、昨日から今日の二日間で起こったいろいろな出来事を、思い返してみる。

(こんなことになるなんてなあ……)

 もう夜なのに、行先のわからないバスに乗っていて、隣では昨日仲良くなったばかりの女の子が寝息をたてている。しかもその子は、わたしの恋人だ。

 いつの間にか、乗客はわたしたち二人だけになっていた。

 このバスがあとどれくらい走るのかはわからなかったが、こんな時間も悪くはなかった。

 バスの走る音と、心野さんの寝息だけが聴こえてくる。

 わたしは、心野さんの顔を覗き込みながら、言った。

「おやすみ、菜緒」


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恋のピンチヒッター 伊藤充季 @itoh_mitsuki

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