となりの女性は



 

『夜やから全然見えませんよ〜。外の夜って新しいこと始めるのに最悪のシチュエーションじゃないですか?』


『うるさいなぁ、スマホのライトで照らしたらなんとかなるやろ。明日の朝には部長の前で玄人感出しとかなあかんねん。“釣りの事よう知ってますよ”顔してもうたんやから』


 すると山代はウッディー・ウッドペッカーぐらい口を尖らせて『もう全部山代さんのせいじゃないですかぁ』とため息を漏らした。


 俺は山代に向き直り、真面目なトーンで話しかけた。


『ええか、山代。こういう時こそチャンスになったりするもんや。何があるか分からへんで。適当にあれこれやって過ごしてたらせっかくの機会を見失ってまうぞ。何事もできる限りをつくせ』


『自分で蒔いた種を、正当化しようとしすぎでしょ』ふんと鼻で笑う山代。


『蒔いてしもた種でも育てば良かったと思える時があんねん』


 残業後の慣れない海岸沿いが相まって、俺も自分で何を言ってるか分からなくなってきた。だからもう変な説教は終わりにして、せっせとスマホのハウツーサイトを読みながら釣り糸の準備を進める。


『初めての人でも、こんなん簡単にできます!初心者セットですから!これでできへんかったら、もうお手上げですわ』


 そんな商売文句で押し売りしてきた釣具屋の店員を、今すぐここに連れてきてやりたい。まったくもって上手くいかないのはどうしてか?それを今すぐ説明してみせよ!と怒鳴ってやりたい。


 それほどまでに俺は焦っていた。大事なチャンスなのだ、なんとかものにしなければ!


 山代の顔を見ると……まるで金剛峯寺の空海のような落ち着いた目で、そして延暦寺の最澄のような神聖な座り方で、釣り竿一本持ったまま折りたたみチェアにぽつんと腰掛けている。


『どんな高みの目指し方やねん!』と心の中で叫ぶつもりが、うっかり声に出してしまった。


 そしてそれが……全ての引き金だったのだ。


          ○


『さっきからちょっとうるさいですよ』


 突然、隣の女性に注意されてしまった。


『すみません』


 山代とともに頭を下げた。

 やはり周りは静寂に包まれており、俺達だけがアホみたいに騒いでいたのだ。いい大人がまったくもって恥ずかしい。


『よし、山代も準備すんで』


 ふぅと気持ちを入れ替えて悪戦苦闘の釣り竿に向かおうとしたが、横の女性が相変わらず俺の方を向き、手元をじっと見ていることに気がついた。


 “おいおい、なんやねん。うるさかったのはごめんやって。ちょっとこっち見過ぎやろ、緊張するやんけ”俺の心はもう釣り竿にはなく、隣の女性に気が散って、変なプレッシャーから臭そうな脇汗を大量にかいてしまった。脇汗パッドもお手上げの大量な脇汁だ。後ろで山代が鼻をクンクンさせて『本田さん、なんかめちゃくちゃ汗かいてます?』と聞いてきたのは驚いた。こいつ犬か?と思わせる物凄い嗅覚は、残り香事件の裏付けをなすような気がした。


『あなた達、初心者ですよね。貸してください』


『え?』


 そんな山代の事を考えている俺から釣り竿を奪い取った女性は、俺の真横に腰掛け説明しながら釣り糸や仕掛けの準備をし始めた。


 しかしその瞬間、釣りの事はどうでも良くなった。(暗くてあんまり見えなかったし)


 特筆すべきは彼女についてのこと。


 彼女との距離、なんと0cm!

 そんな人肌恋しい独身男の心を見透かしているのか、まさかの0cmなのだ!


 インドが生み出した概念『0』が各国の数学に衝撃を与えたように、彼女が生み出した空間的『0』は俺の精神にも土足で踏み込んでくる。最初は“うるさくして申し訳ない”という負の感情しか湧いてこなかったが、この0cmが生み出した心の中の華やかな情景は、まるでビッグバンのように広がり、俺の脳内キャパシティを独占し、一気に夜が朝になったかのように光が差した。


『ほら、できましたよ。分かりました?』


『わかりまへーん』


 俺は頭の回路がショートを起こして、おかしくなった。今はただ、脇汗のにおいが彼女にバレていないかを心配するばかりだ。


 よく見れば彼女はとても美しい女性だった。年齢は山代と同じくらい、三十手前だろうか?少し若さの中に妖艶さも見え隠れするような表情が特徴だった。


『分からへんじゃなくて……次は自分でできるようになってくださいよ』


『あ、ありがとう……ございます』


 俺はその後も右隣が気になり、眼球をピキピキと音が鳴るほど右へ向けて、目だけで彼女を見ていた。


 そして見るたびに彼女は何か俺達を惹きつける仕掛けをした。


 わざと目線を合わせて微笑んだり、胸の開けたシャツでかがんだり、こちらに背を向けてしゃがんだ時なんかはわざとらしくお尻を強調して下着を少し見せてきたり。いちいちこちらの視線を奪うような事をしてくるのだ。(俺達が下衆なのはいったん置いておく)


 たぶん同様に山代も釣り竿を準備してもらった時に彼女の虜になってしまったのだろう。目がめちゃくちゃ血走って鼻息が荒い。彼女の香りは甘く上品で、俺でも脳がやられてしまうほど神秘的なものであった。匂いの好きな彼にとっては、ある意味地獄だろう。


 そんな風に俺達は釣りの事そっちのけで、彼女のことばかり考えていた。


 俺は考えていただけなのだが、山代は違った。


 彼は恋の沸点が液体窒素ほど低い男で、ピークを迎えたのか、ついに女性の方へ話しかけに行った。


『あの、さっきはどうもありがとうございました……』


 なにやら連絡先を聞こうとしてるのか、細かいやり取りは聞こえなかったが、何か話し込んでいる。俺は若干山代が羨ましかったもののそこは若い二人に任せて、俺はひさしぶりに得た小さな幸運を抱きしめておくことにした。


 山代、なに喋ってんねやろ……。

 そんな事を考えながら目を瞑っていた。


          ○


 ぼこぼこぽこぽこという気泡の音を聞いた。強い衝撃の後だった。


 気がつくと俺と山代は海の中にいた。

 よく分からない一瞬の出来事だった。


『……んぅぼっ!ほ、溺れるっ!』


 意識を失い、俺の視界は消えた……。


          ○


 何が起こったというのか?

 俺は気がついたら病院のベッドにいて、隣には山代がこれまたベッドにちょこんと座っている。


『気がつきました?』


『あぁ、なんやこれ?』


『僕達、海に落ちたんすよ』


 それはなんとなく知っている。なぜそうなったのかを知りたかった。まだ鼻の中に磯臭い水が残っている感じがする。気持ち悪い。


『あの、女ですよ。覚えてませんか?』


『なんも知らんよ、目瞑ってたらいきなり海やもん』


 あの女性に、山代が話しかけていた事は覚えている。それがどうしたというのか?


『背負い投げされたんすよ、僕も本田さんも』


『へ?』


『僕がナンパしたばっかりに……』


 聞けば、しつこい質問の嵐に嫌気がさしたらしいあの女性が、まず山代を背負い投げで海に落とした後、俺を目が瞑ったままの状態で速やかに海へ落としたらしい。彼女のその護衛術、伊賀甲賀忍者も驚きの素早さは見事というほかない。


 その後他の釣り客の助けもあって俺達は救助されたが、意識はなく、病院へ送られたそうだ。


 時刻は午前11時。

 もう、スマホを見るのも怖かった。

 水没してスマホを使えなかったことにしよう。部長の連絡はもう今日は見ないでおこう。


『でも、なんでまた海なんかにおとしたんやろ?』


『助けてくれた人とさっき話したんですよ。見舞いに来てくれて』


 救助した人をわざわざ見舞いに来るなんて、そんな優しい人がこの世にいるのだと感心した。


『いや…………』


 なぜか口籠る山代。


『どうしたん?』


『いや、あの、実はその人もかつての被害者らしいんすよ』


『え?どういうこと?』


『あの女に落とされた、僕らと同じ被害者です』


          ○


 俺は何も知らなかったが、その海岸には噂があったそうだ。


 夜釣りをしている妖艶な女性が現れると。


 そしてその女性は、なぜか“ターゲット”にされた人にしか見えないらしい。


 今回のターゲットはまさに俺達だった。


 あの手この手でアホな男を誘惑するそうで、時にはもっと過激な誘いがあるらしいのだが、単純単細胞な俺達は低レベルな誘惑で見事引っかかり(俺は断じて引っかかっていないと信じる。今回は山代が誘いに負けたのだ!)、海へと投げ出された。


 なんのために、その女性が現れるかも分かっていないが、被害者はみんなで助け合おうと一致団結して見張っているらしい。(本当のところは再度の誘惑を願っているだけのアホの集まりなのかもしれないが)


 そこで俺達もとりあえず被害者の会に名を連ねることとなった……。


 夜の釣りに出かけたつもりが、俺達が簡単な餌に引っかかり、見事釣り上げられ、キャッチアンドリリースされたわけである。


 もう二度と釣りはしないと誓った。


『なぁ、山代。巻き込んで悪かったな』


『いえ…………』


 少し俯いた山代、しかしその後すぐにこちらに向き直り笑った。


『ありがとうございました』


 あ、コイツはまた行くなあ。見張りと称してまた行きそうやなあ。


 コイツがアホで、俺も何か救われた気分になった。


          ○


 会社に戻って一つ分かった事。


 例の部長は入院で今週は休みらしい。

 事情を聞くと、どうも海に転落したらしい。


『釣りに行ったら、海にドボンだって。頭のワカメがさらに無くなったらどうすんの』


 そう言って笑っている同僚になかなかテンションを合わせられない俺と山代は二人顔を見合わせた。


 この部署は色んな意味で終わっている。

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ナイトフィッシング メンタル弱男 @mizumarukun

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