ナイトフィッシング

メンタル弱男

ナイトフィッシング




『夜の釣りなんて、やったことないっすよ。あぁ嫌だなぁ』


 部下の山代がヘラヘラと笑いながら文句を垂れた。


『仕方ないやろ、俺かって行きたないねん、釣りなんか』


『じゃあなんで行くんすかぁ?』


 うなだれたような語尾の小ちゃい『ぁ』が触媒となり、俺は見事に怒り心頭モードへと昇華した。


『そんなんも分からへんのか、あぁ?』と、唯一の長所である大きな声を使ったパワハラ気味のジャブをかましたが、山代は殴られ慣れたサンドバックのようにゆらゆらと揺れながらニタァと笑った。


 あぁ、俺は一体どこに『威厳』というステータスを落っことしてしまったのか。生涯をかけてじっくり構築していくようなステータスなのに、もう齢四十にして土台すらままならない状況だ。


 かつて『あいつは出世間違いない』と、名だたる我が社の重鎮が口を合わせていたこの俺も、三十を過ぎたあたりからあらゆる人物・派閥に内部抗争を仕掛けられ、お互い敵か味方かすらも分からない“大坂夏の陣図屏風”の左下らへんに放り出されたような心持ちで、ビクビクしながら三十代を過ごした。


 ミドルエイジの入口を目前に迎えた今、直属の元上司からは切り捨てられ、『いつも何してるか分からない』と評判の陰気な部署に追いやられ、俺はもう辛酸をなめた菅原道真のように失意の底にいた。


 それでもやはり、俺はサラリーマンだ。上司の訳の分からん要求にも、きっちり応える必要がある!


 そして、部長の無茶振りオーダー『明日(土曜日)の朝、釣りを教えてくれへんか』に応じるために、全然やったことない釣りを一日徹夜でマスターしようと立ち上がったのだ!


『そんなん適当にスマホで調べて、“僕らもほぼ素人なんですよ〜”って適当にちゃちゃっと楽しんだらいいじゃないですか』


 この山代なる男は入社六年目の不思議君だ。実にノープランで、向上心のかけらもなく、常にデスクでは鼻くそをほじり、その鼻くそをキーボードのホームポジションにセッティングしていた時は流石の俺も戦慄した。


『俺らが上司に媚び諂うことでしか生きていけへん底辺サラリーマンやから、行かなあかんねん。そういうもんやねん!』


『本田さんと一緒にせんとってください、本田さんと!』


 この失礼な言葉は無視しておいた。もうこちらがサンドバッグなのでは?というくらいに俺は打たれ慣れている。


 しかし、先程の山代の『適当に〜』という発言は……まぁ確かに言わんとすることは分からなくもない。


 彼は意外と行動面においては要領良く、『こういう要領良いやつが、実は周りからの評価も得られるんだよなぁ』と思わせるような何かを持っている。


 しかし!彼がこのお荷物部署にいるのはなぜなのか?いかでか彼はお荷物部署に追いやられん。


 と合っているかわからない古典風の反語を使ってみたが、彼が現在お荷物部署にいるのは紛れもない事実であって、その理由は“女性社員による多数の告発(セクハラの告発?)”が原因だったとされている。


 彼はいつも女性社員とすれ違うと、その後ろ姿を振り返り、深呼吸をするのだという。彼の目的は女性の甘い残り香らしい。(本人は自供していないから真相は分からないが)

 将棋で言うところの駒柱のように女性が縦一列で来た際には、彼の鼻は一回の収集可能空気量を大幅に超えた量の残り香を回数でカバーしながら回収せねばならなかった。まさに、どんな時でも吸引力の変わらない山代は、とうとう女性からの悲鳴の的となり、会社内のコンプライアンスに引っかかったそうだ。(俺は山代のそんな姿を見たことはない。だからこそ敢えて伝聞的に表記する)


 まぁ、そんなこんなで下らない俺と山代は、これまた下らん上司の要望で、夜の釣りに出かけたのだ。(山代はなんだかんだで連れて行った。今でいうところの完全なパワハラである)


 夜中の海岸。金曜日の夜ということもあってか、周りにも釣り人がそこそこいた。皆が静かなままに竿を置き、波が立てる小さな音に耳を澄ましている。


 そして俺達は、静寂に包まれたそんな海岸で、世にも奇妙な人物に出会ったのだ。

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