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 日当たりが悪いが、一人で暮らすには何の問題もないアパート。

 今日の戦利品は、明日の糧にならない不採用と、嘲笑う天使を追い払ってくれた缶コーヒー。

 

 今日使える資金は尽きた。いつかのレシートしか入っていない財布をひっくり返し、財布ごと床に投げる。庄吉が大人しくテレビを付けると、アナウンサーの声がどん詰まりの今日を掻き消した。


「次世代を走る、新たな名君の誕生です。現在はフェニックス企業で活躍中の――」

 

 嫌な顔を見た、と思った。名君と呼ばれた男に見覚えがある。庄吉の記憶によく刷り込まれた男。あの、コウモリであった。

 人の良さそうな笑みを振りまき、カリスマと崇められていた男。正確な名前は思い出せなかったが、テレビに釘付けになって見ていると彼の名前を思い出してしまった。思い出したくなかった記憶が、小森の笑みでばら撒かれていく。


「やめてくれ。もう、なんなんだよ……」


 坂崎庄吉。ショウキチさん。庄吉君。庄吉。人の声が重なって、音の渦に巻き込まれて溺死する。もう缶コーヒーの中身は空っぽだ。染みついた嘲笑が、庄吉の背中を引き裂く。物言う目が、首を絞める。忘れたはずの失態が、許してくれと喉を引き裂く。肋骨が液体となって溶けだして体の形を保つことができない。

 いつか燃やした天使の翼が、俺を恨み、俺を呪っている。俺は、当然の清算を受けているのだ。


 ねえ、ショウキチさん。何を待っているの。

 天使は微笑み、こちらを見下ろしていた。


 *


 ――おはようございます。今日も一日、よろしくお願いします。


 ――よろしくお願いします。


 元気な子供の声が聞こえる。

 白くぼやけてよく見えないが、ここは学校の教室だろうか。

 奇妙なことにこの儀式には覚えがあって、咄嗟に「よろしくお願いします」と叫んだ。


「大したことないね」

 

 見下した声色に射られ、背後で笑みを浮かべる小森に目を向けた。

 取り巻きに囲まれて笑っている小森は、庄吉を値踏みして意地の悪い言葉をかけた。小森は天使であった。誰にも負けない、力強い翼は彼の自尊心の現れのように見える。


 ああ、そうだそうだ。大したことない。庄吉は大した奴ではないから、見下しても問題ない。

 取り巻きは小森の翼に惹かれ、自分も天使であるかのように錯覚した。どうして庄吉が大したことがないのか、自分たちには分からない。しかし、あの小森が言っているのだから、庄吉は大したことがないに違いない。自分より劣っていて、かわいそうな存在なのだ。


 翼を持たない子供たちが執拗に庄吉を詰っても、庄吉には何も聞こえていなかった。「大したことないね」というただ一言が耳を塞ぎ、永遠にその言葉が消化されない。


 手先が色を失い、呼吸は浅く、脳や手足が小刻みに震える。このまま小さく押しつぶされてしまえば楽なのに、体はいつになっても終わりを招き入れない。教室の時計が不規則に進む。

 いくら年月が経とうともその言葉が消化されることはなく、怒りでも悲しみでもない感情が怒りという単純な言葉に塗り替えられていく。俺は怒っているのだ。怒りは単純で、心地が良かった。


 怒りは庄吉を突き動かしたが、庄吉の意識はあの日あの時のあの場所から動けなくなっていた。いつの間にか、彼の背中には小さな翼が生えていた。


 怒りでも悲しみでもない胸に刺さったその痛み。小さく、汚れた自分をぼんやりと見つめながら、庄吉は空気でも人でもなく、または個体でも液体でも気体でもなく、やわらかくもかたくもない様相で立ち尽くしていた。


 俺はあのとき、どんな顔をしていただろうか。社会的な笑みを知らなかった、あの俺という人間は。

 どうして、ああまで醜く足掻いたのか。



「そんなの、気にしなくていい」


 呪いの言葉だった。母親と、父親。担任。保健室の先生。口をそろえてそう言っていた。

 そんなことを気にしていたらあなたが歪んでしまうと彼らの一人が口を開く。全く的外れだった。もう歪んでいるのだがら、そんな言葉に意味はない。

 直視したくないのは俺も彼らも一緒だった。彼らの顔を思い出すことができない。

 今となっては瞳に染みついたベージュ色の床だけが思い出せるくらいまでになってしまった。


 お前のような人間が生きていていいはずがない。出て行ってほしい。厚顔無恥とはこのこと、お前に一体いくら捧げたと思っているんだ。これだから、噓つきは信用できない。全てお前の醜い自己顕示欲のせいだ。


 ごめんなさい。上手くできなくて、失敗してごめんなさい。ごめんなさい。天使になれなくて、全てを諦めてごめんなさい。許されたい。誰でもいい。誰でもいいから、俺を許してほしい。太陽に逆らった傲慢な男だと罵って構わない。出来損ないだと疎んでほしい。


 誰でもいいから、そう言ってほしかった。


 身に余るほどの寵愛。パトロンが、何も言わず、俺を受け止めた。誰も俺を責めなかった。だから俺が俺を責めるしかなかった。愛しい人の声を再利用して、頭の中でその人が俺を罵倒するよう仕向けた。

 つり合わない成果を持ち帰ることに心が何度も荒んだ。

 

 ねえ、ショウキチさん。ねえ、ショウキチさん? ねえ、ショウキチさん。何を、ずっと待っているの? どうして、そこで待っているの? 立ち止まっているの? 一人前に悲しんだフリなんかしちゃってるの? 何かが起きるのを待っているの?


 何も起きないよ。

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