天使が連れ去る前に【完結済】

山吹

1

 貧しい天使がいた。貧しい天使は曖昧に笑っていた。

 この世で起こるすべての報いが、全て必然だと受け入れるように。


 *


 坂崎庄吉(サカザキ ショウキチ)と呼ばれた男が、恭しく立ち上がった。役所は嫌いだ。堅っ苦しくて遠慮がない。心の内ではそんなことを考えているが、くたびれた服の襟を正し、ぴんと背筋を立てて愛想よく役所の人間と話す。


「えーっと、坂崎庄吉さん、三十六歳。以前までずっと同じ会社の社員さんとして勤務していた? 本日は、これからの給付金の申請、と」


  この会話もこれで八回目だ。前回は三十五歳と言われたが、いつの間にか年を取っていたらしい。黒い眼鏡をかけた、いかにも真面目そうな公務員の男が庄吉のエントリーシートとパソコンを見比べて仏教面で業務にあたっている。ああ、この人は駄目だ。アクリル板越しの薄い横顔にそう言われた気がして、庄吉の演技に拍車がかかる。


「ええ、そうです。不景気で解雇されてしまって。両親の方も医療費で手一杯で、頼れる人がいなくて……」


 「ああ、そうですか。以前提出していただいた資料を見ましても……うーん、厳しいですね。まずお父様の方でかなりの土地を所有しているみたいで……」


  厳しいですね。難しいですね。他をあたってください。そんな言葉をかけられて、以前は悲しくなったものだが、今では不思議と何も思わなくなった。確かに今の生活は苦しい。庄吉が演劇やドキュメンタリーのような貧困層の住人であれば、それを武器に一発屋みたいな勝負ができただろう。印税暮らしを夢見たのは今日が初めてではない。

 一日の食事くらいはなんとかなる。この程度では誰も助けてはくれない。あの真面目な男だって、内心中途半端な俺を馬鹿にしていたに違いないのだ。


 女のように同情を買うように振舞ってみても、結局は数値やら統計やらに首輪を繋がれてしまう。遠く離れた地元で悠々自適に暮らし、死を緩やかに待っている両親を思い浮かべると、なんだか腹が立ってくる。どうして、どうして俺はこんな底辺で腐っているんだ。


 *


 役所の帰り道、気晴らしにコンビニで缶コーヒーを買った。どうにかして自分を保っていたい。ぬるい気温に任せて今の自分を認めてしまえば、なんだかもっと駄目になってしまうような気がする。

 銀色の蓋を外して一口すすると、錆で汚れた電光掲示板が目に留まった。この地域を牛耳っている新聞社が夏祭りを開催するらしく、ポスターには子供の描いた絵が印刷されている。子供の眩しさにさっと視線を逸らすと、そこには天使がいた。


 また目を背けるんですか。ショウキチさん。

 路地裏に立つ天使は微笑んで、俺に話しかける。庄吉にとってこの感覚は初めてではない。厳しい冬の夜と大人の圧力から逃げ出したい時。手に入れた栄光が腐って見えた時。月さえ見放す孤独が騒ぎ出した時。

 天使はその時を待っていたかのように現れる。およそ人間とは言い難い人型のそれが鏡の奥に、川底に、テレビの中に、記憶の中に入り込んで俺に話しかけてくる。


 何を待っているんですか。ショウキチさん。

 天使はただ微笑んで、くたくたのネオンばかりの路地裏からこちらを見ていた。微笑むだけでそこから一歩も動かない。平生の怒りを飲み込むように、缶コーヒーをもう一口すする。

 天使は、そこには居なかった。

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