みぞれ降る神社の片隅で

バルバルさん

みぞれはまだ……

 みぞれが降っている。

 雪にもなりきれず、かといって雨にもなりきれなかった水滴たちが、空から降っている。

 それを私は、神社に隣接する内苑にある寂れた建物、その縁から眺めていた。

 この神社の近くに建っている世苦亡の宿で働いている私は、休憩の時間はこうして一人でいることが多い。

 世苦亡の宿。この世に住まう亜人や妖が働き、現の人々を癒す代わりに彼らの「闇」を頂く宿。泊まるためには行き方を知らなければ決して泊まれない宿。

 この宿に泊まる人も、住まう妖も皆いい者たちなのだが……些か、私にとっては騒がしすぎる。

 私は、一人でぼんやりとしている方が性に合うのだ。

 はふぅ、と息を吐くと、白色のそれが大気に消えていく。

 私もいつか、この白い息のように消えるのだろうか。なんて考えてしまうのは、先日、父と母が終わりの時を迎えたからか。

 父は人、母は雪女。その昔、二人は宿で出会い、深く愛し合ったのだとか。そして、外の世界で言うドラマのような数年を過ごした後、私が産まれた。

 そして、二人は私に、みぞれという名をくれて、溶けてしまいそうなほどに愛を注いでくれた。

 だが、父は人だった。それはどうしようもなかった。

 80年の時を生きた父は、先日亡くなった。あれほどに感情を表に出して泣いたのは、あの時が初めてだったと思う。

 それとほとんど時を同じくして母は自然に還っていった。そして私が残った。

 宿の妖たちは、私に仕事をしばらく休めと言ってきたが、働いていた方が気分が紛れる気もしたので、こうして休まず働いている。

 とはいえ、やはり心のどこかに穴が開いたような、そんな気分は消せなくて。そして、自分の終わりに意識を向けてしまう。

 人ではなく、かといって妖でもない。中途半端な存在が私。

 さらに言えば……私は女ではない。かといって、男でもない。

 どちらかといえば女性よりだが、完全な女ではなく、男の特徴も持っている。

 どちらでもない、どちらにも転べない、そんな中途半端が私。

 白く濁った空を仰ぐ。

 まだ、みぞれはやむ気配はない。



 俺は大企業と言って差し支えない規模の会社を受け継いだ。それが一年前の事。

 一年の間、俺は成功した。失敗はしなかった。会社は日々成長を続け、そのための会社最大の歯車、あるいは養分としての役割は果たしている、

 そう、俺には能力がある。失敗と言える失敗はしなかった。

 金はある。豪華な食事もできるし、広い屋敷も、別荘も持っている。

 だが、なんだろうか。この胸の中の空虚は。

 持っているからこそ、さらに別の何かを求めてしまうのが人の性かもしれないが、俺は最近、ずっと理由なき胸の空虚感に苛まれていた。

 そして、他人に言わせれば、俺には人の心がないらしい。まるで機械の様だという。

 ただ、会社を運営するだけの最適化された機械。それが俺なのだと。

 何もできない雑魚の戯言。そう切り捨てるのは簡単だが、その言葉は、ずっと俺の心に突き刺さっていた

 そんなある日の事。俺の数少ない友人と言える男が、とある宿を紹介してくれた。

 それが、世苦亡の宿。不思議な名前の宿だが、その男があまりに勧めるものだから、一度泊まろうと時間をやり繰りして空けた。

 友人に連れられて宿を訪れれば。これが中々にいい宿で、美しい仲居や従業員。舌がとろけるほどにうまい料理に最高の温泉。

 だが、胸の空虚感は収まらない。やはり、もっと別の何かを、俺の無意識の心は求めているようだ。

 そんな俺に、受付の女従業員が一言、もう一泊してみてくださいと言ってきた。

 俺が首をかしげると、この宿の近くには神社があって、そこに行ってみてはどうかという。

 何故かその従業員と仲のいい友人も激しく同意し、俺にもう一泊の休暇を勧めてきた。

 まあ、休暇は余裕をもって取っておいた。もう一泊くらいなら。そう思って宿にもう一泊。

 そしてその延長された時間で、俺は神社に赴くことにした。

 外はみぞれが降っているようだ。仕方がない、傘をさして行こう。宿で和傘を借りて、神社へ。

 神社は小ぢんまりとした規模で、傘などを叩くみぞれの音しか聞こえない、静かな場所だった。

 一応、お賽銭と礼をしておき、周囲を見渡す。神社の横には内苑があるようで、そこに小さな休憩用の建物が。

興味本位でそちらへ向かえば、その縁には一人の蒼い和装の女性が、ぼんやりとみぞれの降り注ぐ空を眺めていた。


「こんにちは」


 俺はそう声をかけた。多分、服装的に宿の人だろう。そう思っての事。

 俺の声を聴き、相手はぴくりと反応した。



 空をぼんやりと眺めていた。休憩時間が始まってから、どれくらい経っただろうか。

 この建物には時計が無いからわからないけど、あまり遅くなってはいけない。

 そろそろ宿に戻ろうかな。と考えた時に自分に向かった低い声が聞こえた。

 すっと視線をそちらに移せば、高身長の男性。和傘の柄を見るに、宿のお客様の様だ。


「こんにちはお客様。世苦亡の宿をご利用いただきありがとうございます」


 当たり障りのない返答をしつつ、立ち上がって笑顔を作り、すっと礼をする。

 そして、隣を示し。


「そのままだとみぞれに濡れます。よろしければ、隣に座りませんか?」


 お客様との会話も大切な仕事だ。それに、みぞれの降る中、お客様を立ちっぱなしにさせているのも悪い。

 彼はゆっくりと歩いてきて、隣に腰掛けた。

 それを確認して、私も隣に失礼する。

 しばらく、みぞれの音のみが響く時間ができた後、お客様が口を開く。


「あの、貴女はなぜここに?」


 何故、か。私は一拍置いてそれに返す。


「深い理由などございませんが、ここはこの一帯で一番静かで、みぞれの音が良く聞こえるから……でしょうか」


 柔らかく笑みを作り、相手を見る。

 茶髪がかかった黒髪、真っ黒な瞳、精悍な顔立ち。

 力強そうな人だな。そう思った。



 不思議な女性だ。そう思った。

 短く、さらりと美しい髪をゆるりと動かしながら俺の方を向き、鼓膜を心地よくくすぐる声色で彼女は俺の質問に答えた。


「みぞれの音、ですか」

「ええ。好き……とはまた違いますが、みぞれには深い親近感を持っているので」

「親近感ですか」

「ええ。私、名をみぞれというのです」


 なるほど、降るみぞれと同じ名前だから、みぞれの音を楽しんでいるのか。そう一瞬納得するが、なんだろうか。それだけではないような。そんな気がする。

 何の根拠もないのだが、人の細かい心を推理や推測してしまうのは悪い癖だろう。


「なるほど、良い名前ですね」


 社交辞令のような言葉。だが素直な本心でそう思ったのを、口に出した。

 とても良い名前。彼女に似合った、儚くて美しい名前じゃないか。


「良い名、ですか。ありがとうございます」


 社交辞令のような言葉。でも、やはり名を褒められればうれしいのは確かで。軽くお辞儀をする。

 彼からは、なんというか「出来る男」とでも言えばいいのか。そんなオーラが放たれている。

 それは、力強い精悍な見た目から感じたのか。それとも、低く心を打つような声色から感じたのか。


「俺の名は、雹真と言います」

「ひょうま様」

「ええ。空から降る雹の名が入っているんです」


 なるほど。私は雹に対しては荒々しい印象を持っているが、目の前の雹真様は、荒々しいというよりは、地面を力強く叩くように降る、その力強さを濃縮したような感じを受けた。


「そちらもとてもいいお名前です。きっと、貴方は雹の様に力強い男性なのでしょうね」

「ええ、そうありたいもので……そうであるよう、生きてきました」


 力強い言葉、安心感のある笑顔。私とはまるで違う存在。

 なんだか、羨ましい。そう一瞬、思ってしまった。


「とても、良きことだと思います。私も……」


 そこで、一瞬言葉に詰まる。

 私は、名に恥じぬ生き方はできているのだろうか。


 一瞬、言葉に間が開いた。

 不思議な色の瞳を、まぶたの裏に隠しながら、相手は。


「私も、名に恥じぬ様に生きたいものですが、所詮私は、半端者なので」


 そう消えるようにつぶやいた。


「半端者?」

「ええ、私はみぞれ。雪にも、雨にもなれなかった水滴でございます。そんな半端者に、名に恥じぬ生き方など」


 その言葉を、下を向きながら蠱惑的な唇から零す彼女は、名の通り、みぞれの様に一瞬で溶けて消えてしまいそうな。そんな印象を受けた。

 何だろうか。この心に湧きあがってくる感情は。

 相手の憂いた表情。それの見て思ったのだ。

 もっと言葉を交わしたいと。


「みぞれさん」

「はい」

「みぞれが、なぜそれたりえるか……わかりますか?」


 そして、言葉を交わした果てに見たくなったのだ。

 相手の心からの笑顔を。


「なぜ、みぞれたりえるか」


 そう霙さんはかみしめるようにつぶやいた後、俺の顔を問うように見つめてくる。


「それは、雪でも、雨でもないからです」


 みぞれがみぞれたる理由が、雪でも、雨でもないから?

 その言葉を聞き、私はきっと目を丸くしているだろう。

 当たり前の事。それなのに考えもしなかった考え。

 その彼からの返しに私は、らしくもなく興味を引かれて、もっと聞きたくなった。

 彼の言葉を。


「みぞれは、雪の様な氷の結晶ではなく、雨のような水滴でもない。「みぞれ」という唯一の形質なんです。雪でも雨でもない中途半端じゃない。みぞれと言う唯一無二の存在なんだ」


だから。そう彼は続け。


「貴女は雪じゃない。貴女は雨じゃない。唯一無二の、みぞれなんですよ。中途半端じゃない。貴女は、「みぞれ」という存在なんです……ですから、自分を卑下して、自分を唯一価値づけられる自分で、その価値を下げないでください」


 そう言いながら、彼は空から降るみぞれを一滴、掌に。

 なんだろう。この感じは。

 私が唯一無二の存在?

 雪でも雨でもない、男でも女でもない私が?

 そんなバカな。そう思う反面。

 幼い頃、父や母が愛してくれたのは、半妖の半端者である「みぞれ」ではなく。

 彼らが愛を育み、産んでくれた唯一無二の「みぞれ」ではないのか。そう、心に響く。


「なんて、何も知らない他人が、偉そうなこと言って……」


 そう笑いかけてくる彼。だが急に慌てだし。


「あ、すいません。泣くほど、不快でしたか?」


 その言葉を聞き、私は、自分が涙を流しているのに気が付いた。


 つーっと相手の双眸から涙の筋が流れた。

 違う。俺は泣かせたかったわけじゃない!

 慌て謝罪すると、相手は涙に触れ。


「あっ……」


 そう短く声を上げ。


「いいえ、不快だなどと思っておりません……ありがとうございます。本当に」


 そう言って、ふわり、そう笑顔を俺に向けてくれた。

 その笑顔の破壊力たるや!

 先程までの営業用の笑顔よりはるかに美しく、儚く、庇護欲をくすぐられる、俺の心をみぞれさん一色に染めるのに十分な破壊力を持っていた。


「あ、あの。よければ、俺。またこの宿に泊まりに来ます」


 気が付けば、セクハラだとかそんな考えが起きる前に、体が動いていた。

 相手の、凍えるように冷たい手を、自身の熱い掌で包み。


「その時は、またお話させてください。また、ここで」


 そう俺が言うと、相手は再び目を丸くするも、ふふっと唇は、笑顔の形に。


「ええ、その時は。雹真様のお話も、お聞かせください」


 気が付けば、みぞれはやんでいた。



 ゆっくりと、意識が覚醒する。

 気が付けば、俺は社長室でうたた寝をしていたようだ。

 不思議な夢を見ていた気がする。

 悪い夢ではなかったと思う。また、見たいと思える夢のような気がする。

 だが、思い出そうとしても、霞がかかったように思い出せない。

 最近、こんな調子だ。疲れすぎなのかもしれない。

 こういう時は、どこかの旅館でリフレッシュするのがいい。

 そう、友人に勧められていた神社が近くにある旅館など風流かもしれない。

 時間をやり繰りして、行ってみようか。

 窓の外に目を向ける。

 外では、みぞれが降り始めた。


 また、会えたら……


 そんな呟きが、何故か口からこぼれた。

 首を傾げつつ、再び、社長の業務をし始めた。


 みぞれは、しばらくやみそうもない……


 世苦亡の宿。その大広間に飾られた壺を私は磨いている。

 手に感じる濡れた布は冷たい。だけど、不思議と嫌じゃない。

 先ほどまで、あの人に温められていたからかもしれない。なんて思うような私であっただろうか?

 何かが私の中で変わったような、そんな気がする。

 ふと、新しい花を持ってきた仲間が声をかけてきた。


「あれ、みぞれさん。何かいいことありましたか?」

「え、何故そう思うんです?」

「だって今のみぞれさん。とても素敵な顔していますよ?神社で何かあったんじゃないかなって」


 素敵な顔?そんな顔しているのだろうか。そう思い、鏡代わりに窓を見る。

 窓に映っていた私の顔は、確かに優しく微笑んでいた。


 窓の向こう、ご友人と共にチェックアウトした彼の姿があった。


 また、会えたら……


 そんな言葉が、唇からこぼれてしまい、少し気恥ずかしくなりながら、壺を再び磨き始めた。


 外ではみぞれが再び降り始めていて。

 しばらく、やむ気配はない……

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