本を読むオタク

 ふと、この数か月本を読んでいなかったことに気付いた。

 何か大きな理由があったわけではないが、ここしばらく本を読んでいなかった。

 仕事に行くときに使うリュックの中に、途中まで読んだ本が眠っていた。

 何かきっかけがあったわけではないが、電車に揺られながら私は擦れてボロボロになった書店のブックカバーの付けられた本を取り出し、読むことにした。


 ちなみにこのとき、数か月前になくしたと思っていた通帳が出てきた。すでに五か月くらい記帳してなかったから、それくらいの間、私は本を読んでいなかったことになる。


 若者の活字離れと言われて久しい世の中だが、平成一桁産まれギリ若者と判断されるであろう私は物心ついたときから本を読んでいた。

 本と言う媒体で言えば未就学時に親に読んでもらっていた絵本が始まりだが、活字という点に置いて言えば小学一年のとき、教室の本棚にあった児童書の小説が始まりだった。

 タイトルは「きつねのでんわボックス」。子供を亡くした母親きつねが、毎日電話ボックスで遠くの街の病院に入院している少年に自分の子供を重ねる、という物語だ。

 子供向けの小説であるため、それほど難解な話でもない。

 しかし、私はこれを読んだ感想が「わからない」だった。

 電話ボックスに通う人間の少年の正体について、最後までその答えが示されなかったからだ。

 母親きつねは、人間の少年に亡くした子供の姿を重ねる。遠くにいる自分のお母さんに毎日毎日、その日あったことを電話で話すその少年の背中に、人間にあるはずのないきつねのしっぽが見えてしまう。

 あの少年は自分の子供の生まれ変わりなんじゃないか。母親きつねはやがてそう考えるようになる。

 私は、そんな彼らの行く末が気になってしかたなかった。

 果たして少年は母きつねの子供の生まれ変わりなのか。

 もし生まれ変わりなのだとしたら、母きつねは自分の子供と再会できるのか。

 それが気になってしかたなかった。


 しかし、その明確な答えが出ることなく、少年は一緒に住んでいるおじいちゃんと一緒に、母の入院している街へと引っ越すことになった。

 私は困惑した。「結局何もわからなかった」と。

 きっと自分が見落としているだけでその答えがどこかに書いてあるのかもしれない。そう思って、私は何度も何度もその本を読んだ。もう何度読み返したかわからないくらい読んだ。

 しかし、どこにもその答えは載っていなかった。

 じゃあ、自分の理解が足りてないだけで、もっと読み込めば理解できるかもしれない。そう思ったのでまた読んだ。しかし、結局わからなかった。

 多分、その一年間ずっと読んでた。

 だけど「わからない」という感情が、私を大いに動かしたことは事実だった。

 その経験は今でも生きている。「わからない」からといって思考を放棄せず、できる限り理解するよう努力を務める。その結果何も「わからない」のだとしても、きっと未来に私は理解できる日が来るかもしれない。理解しようとした努力は、いずれ来るであろう理解できる日への道標か、もしくは反面教師になる。


 だから私は「わからない」を大いに楽しむことにした。

「わからない」が「わかった」に代わるその瞬間の煌めきも、「わからない」が永遠に「わからない」ままだとしても、理解に至ろうとするその道筋をたどることはとても楽しい。


 今日も電車の中で私はページをめくる。次なる「わからない」を探し求めて。

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見上げれば、プラスチックの人間たち 佐倉ソラヲ @sakura_kombu

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