第21話 理由(最終話)
記録に残らなかったのは無理もない。
その時、その出来事は、マティアスと父、たった二人しか見聞きしていなかったからだ。乳母も証言することはできなかった。
オディロンが靴をくれた日の夜だった。
父がマティアスのいる離れにやってきた。三日に一度行われる、形式的な訪問。
神殿の記録によれば、クローヴィス暦八百二年 七月二十一日 午後八時頃。
その日の父は仕事から直接こちらに来たようで、騎士服に鎧をつけたままだった。
従騎士は玄関で帰してしまった。父はマティアスの住む離れ――マティアスの母の家――になるべく人を入れないようにしていたように思う。
『おかえりなさいませ、父上様』
『ああ』
出迎えたのはマティアスと若い召使いだけ。
乳母は今日は少し疲れたと言って、召使いに片づけを頼んですでに自室で休んでいた。
召使いが父の鎧を脱がせようとして、手を払いのけられた。食事を運べと冷たく命じられ、台所に駆け込んでいく。
父が上半身の鎧だけを外し、居間の引き出し棚の上に丁寧に並べて置いた。マティアスは部屋の隅で、じっと姿勢を良くして父の言葉を待っていた。
召使いがワインと食事を卓に並べると、父はソファに沈み込むように腰かける。腰回りの装具は外したが、鉄の脛当てと足先を覆う具足はそのままだった。
『もう向こうに戻れ』
一杯目のワインを飲むより先に、父は召使いを母屋へ帰した。居間には父と、壁際で直立しているマティアスだけが残される。
父がほとんど一息にワインを飲み干したので、マティアスは慌てて卓に駆け寄り、分厚いガラス製のカラフェを持ち上げた。
少し前、母が死んだと聞かされた頃から、酌をしろと命じられるようになった。いずれお前も騎士となれば、上役の身の回りの世話もするようになると。
まだ、七歳と少しだった。
継ぎ足し用のワインが入ったカラフェは、マティアスの頭ほどの大きさがあり、両手で抱えるのがやっとだった。慎重に、ゆっくりと器を傾け、父の持つグラスにワインを移す。
父は綺麗な色硝子のワイングラスを愛用していた。それは母との揃いで、母がいなくなってからもずっと使っていた。もう一脚がどこにいったのか、今でも――当時のマティアスも――知らないままだ。
卓の横でそっとカラフェを傾けていると『オイ』と父が低い声を出して、手元が狂ってワインを少しこぼしてしまった。マティアスは慌ててカラフェを縦に戻す。
こぼしたことを叱られる。そう思ったけれど、父は卓の上を見てはいなかった。
『なんだそれは』
目線は下に注がれていた。
そこにあるのは、オディロンにもらった靴を履いた二本の足だけ。
『これは』
きっとその時、自分は満面の笑みを浮かべていただろう。
『オッドがくれたのです』
自分のためにわざわざオディロンが持って来てくれた。
これでもう大丈夫と笑ってくれた。
また一緒に剣の稽古をしようと言ってくれた。
だから父上様、新しい剣の教師を早く見つけてほしいのです。
父に伝えたいことがたくさんあって、どれから言おうかと逡巡した時には、マティアスの体は絨毯にぶつかっていた。
何が起きたのか分からなかった。
ガシャンという大きな音、バシャリと水が跳ねるような音。そして、
『このッ……恥知らずが!』
父の怒声がほぼ同時に聞こえた。
マティアスは一度止まった呼吸を再開しようとしたが、喉も胸も息の仕方を忘れてしまったように固くなって動かない。息を吸う代わりにヒィと引きつった音を立てた。吐く代わりにオエとえずいた。目がチカチカして、絨毯に横たわって下敷きになった右腕が熱かった。
『靴をもらっただと、あの子供からか? ゼブラノールのお古だろう! それは!』
腰のあたりを蹴り飛ばされ、マティアスは床をゴロゴロと転がる。
眼前に、銀色の脚が見えた。
『ジュスタインへの侮辱だ!』
鉄でできた鈍色の脛当てと、先のとがった甲当て。それが顔にめり込んだ。口のあたりから、何かが砕ける音がし、ドッと生暖かいものが噴き出す。
歯が折れて血が出たのだと、その時は理解することもできなかった。
『なんてヤツだ、信じられん、お前なんか、お前なんか』
父の声がするが、顔を見ることもできない。上も下もわからない。体に力が入らない。自分が今どこでどうなっているのか、分からない。
『旦那様!』
乳母の声が聞こえた。
『貴様ぁ、何をしていた! 俺の息子が物乞いになったぞ、どういうことだ!』
『坊ちゃま、ああ、そんな、坊ちゃま、しっかりして』
声の方へ首を巡らせることもできず、マティアスは絨毯の上で上手くいかない呼吸と格闘していた。
相変わらず喉も胸も固くて、吸うことも吐くこともままならない。生暖かく生臭い液体を口から吐き出したいのに、唇さえ思ったように力が入らず、震えるばかりだった。
『ふざけるな!』
ガシャガシャと物がぶつかり、割れる音が響く。父が卓の上の食器をなぎ倒したのだろう。
乳母がマティアスを抱え上げた。
喚く父を振り返らず、離れを飛び出し、屋敷の門からも飛び出し、門番を振り切って通りに出た。
まだ宵の口、夜遊びをする貴族の馬車が行き交っている。
乳母は一度マティアスをおろし、背中に背負った。
覚えている。思い出せる。
オディロンから靴をもらったあの日を。
自分の身体がどうなっているか分からなかった。乳母がどこへ向かっているのかも。
ただ、オディロンからもらった赤い靴が、しっかり自分の両の足を包み込んでいたことだけが、乳母の背中にしがみつく力をくれた。
それをはっきり思い出せたのだから、間違いなく幸福なのだ。
end.
最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。
いつも、ピリオドを打つときはとても寂しいです。
でも、ピリオドのない物語はもっと寂しいです。
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今後も作品は増やしていきますので、よろしくお願いします。
ボクを踏まない靴 みおさん @303miosan
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