第20話 思い出(2)
「ずっと、どうしてこんなに靴が好きなのかなって、不思議だったんだ」
マティアスは一足の靴を手に取った。
とても気に入っていたが、その分よく履いて少し傷んできている。このまま使い続けるにしても、誰かに譲るにしても、一度職人に手入れしてもらう必要がある。
今日は午後の講義がなく、家の仕事も急ぎのものがなかったため、久しぶりに靴の部屋の整理をすることにした。
祝賀騒ぎが落ち着き、最近暇を持て余しているオディロンも手伝ってくれている。
「好きなものに大した理由なんかないだろ? 叔父上は理由もなくワイン狂いだし、母上なんか服も靴も、踊りも劇も槍試合も、なんでも大好きだ」
「そうなんだけどね」
壁一面に靴を置くための木の棚が置かれた、マティアスの靴の部屋。
改めて見回すと、赤い靴が多いことに気付く。色としての赤が特別に好きなわけでは無いが、マティアスの靴は半数近くが赤か、それに近い色味だ。
好きの理由は、ちゃんと思い出した。
マティアスは選んだ靴を箱に入れていく。
いらない靴はゼブラノール家の庇護民や使用人たちに下げ渡すか、神殿に寄付するのだ。
どの靴も気に入っているし、それぞれに思い入れがあるのだが、部屋の大きさにも限界がある。増やし過ぎれば手入れがいき届かず、ただ朽ちていくのに比べれば、誰かが大切に履いてくれる方がマティアスも嬉しかった。
「あ、それはダメ。大切なものだから」
オディロンが白い絹地の小さな靴を棚から下ろしたので、慌てて静止する。
「でも古いし。直してあるみたいだが、さすがにマチューが履ける大きさじゃないだろう。あ、もしかして何か特別な素材で作ったのか?」
「もうッ、覚えてないの?」
少しシミができ始めているが、絹はまだ純白の面影を残している。そこに黄色の刺繍で星柄が散りばめられている。足首を囲うフリルが、上向きではなく下向きで、活発な年頃の少年のために作られた意匠だ。
「これはオッドの靴だよ」
「え、俺の?」
「君が行儀見習いで出て行く時、もう絹の靴は二度と履かないからここに飾れって言ったんじゃないか」
「そんなこと言ったか?」
オディロンは呆然と呟き、大きな手で自分の額を覆った。そして左右に目をキョトキョトと動かして、盛大に顔を顰めた。
「まったく覚えてない……」
「あっはははは!」
マティアスは大声で笑った。人の記憶など、斯様にアテにならない。誰だって同じだ。
「だから、これはダメ。これの思い出は特別」
マティアスは白い靴をもとの棚に戻した。
「やっぱり、思い出せてよかったよ。忘れたままのこともあるだろうし、まだ鎧の音も怖いけど、でもやっぱり、君との思い出は一個でも多い方がいい」
口の端が自然とつり上がる。レイモン神官に言わせれば、最近のマティアスは表情がよく動くそうだから。
「これもちょっと傷んでるな」
「本当だ。最近使ってなかったから」
オディロンが棚の上の方から出してきたのは、私塾に通い始めた頃によく履いていた外履きだ。
「もともと頑丈だし、直して神殿に預けようかな」
「了解。じゃあ、ここだな」
オディロンがその一足を木箱の一つに入れる。
直してマティアスのもとに戻ってくる箱。直してから寄付する箱。そのまま寄付する箱、の三つに分けているのだ。
「それで結局、講義の数は絞れたのか?」
再び棚の高いところを見て回るオディロンが、首を伸ばしながら聞いた。
レイモン神官の記録医学の講義には、変わらず欠かさず通っている。その上で体調と他の用事を鑑み、講義の数を減らすことにしたのだ。
「うん、法学と古文書は残して、あとは必要な時だけにするよ」
「なんだ、必要な時って?」
「何か分からないことがあって、教授に質問したい時とか。今度こういう珍しい講義があるとか。そういう時には受けさせてもらいたいって、話してあるんだ」
「それってちゃんと減るのか?」
「減るよ。半分以下になる」
今日はこうしてのんびりしているが、そろそろ義姉の出産も近い。その前にオディロンとの誓いの儀をすませようと、アルシェヴェシェ神殿に日取りを押さえてもらった。二人で住む予定の離れの整備もあと少しだ。
それらが終わる頃には秋が近づいて、祭礼や夜会が増える季節に突入する。
「年内にデラスに行けるかな」
青い靴を手に取って眺めながら、マティアスはため息交じりにこぼした。
デラスとは、伯都の西ある小さな宿場町だ。マティアスを助け出してくれた乳母が、その後デラスの神殿で尼僧として過ごしていたことが分かった。数年前に、その地で病没したことも。
「デラスなら、今から行っても明日には帰ってこれるだろ」
「もう少しゆっくりさせてよ。どんな町なのかちゃんと見たいし、神殿で話が聞けるかもしれないし」
「冗談だ。もう先に日を決めてしまったらどうだ? でないと、どんどん予定を割り込まれるぞ」
「そうだねえ」
マティアスは木箱の脇に屈みこんだ。
直して戻す箱がもういっぱいだ。これでは結局数が減らないので、もう少し厳選する必要がある。
「アリエージュには行かないのか?」
オディロンの声が少し低くなった。マティアスは箱から顔を上げて、まだ壁際の棚の方を向いているオディロンの背中を見る。
アリエージュ伯領は、マティアスの実父フィリップの赴任地。つまり、父には会いに行かないのかと、そう聞いているのだ。
「悪い、なんでもない。忘れてくれ」
「あの人はボクに会いたくないんじゃないかな」
マティアスは箱の中に視線を戻したが、オディロンが振り返ったのは音と気配で分かった。
「父はボクにはまったく構わなかったけど、多分、母のことは本当に愛していたんだと思う。だから、母が亡くなって……参っていたり、したんだと思う」
「だからって」
「うん。だから許すとか、そんな風には思わないけど」
しゃがんだまま顔だけをオディロンの方へ向けた。
男らしい端正な顔が、険しい表情を表に出さないよう努めている。しかし失敗して、随分と目つきが鋭い。
オディロンはきっと、フィリップを憎んでいる。苛烈な怒りでないにしても、マティアス以上に、胸の内に嫌悪を抱え込んでくれている。
「父は多分、そんなに気の大きな人ではなかったんだ。もともと真面目で、厳格な人だった。だから、それなりに罪悪感とか、思うところがあって、アリエージュにいるのだと思うし」
「確かに、俺もずっと不思議ではあった。ジュスタイン氏は立派な騎士だと聞かされていたし、当時は、俺も声をかけてもらったり。だからこそ、どうして、どんな理由があって、あんなことを――」
マティアスは無言のまま、しかし穏やかな表情を崩さずにオディロンを見つめた。するとオディロンの顔からじわりと険しさが抜け出して、一呼吸の間に、優しい表情が戻って来る。
「こんなこと言っても仕方ないな。本人に聞かなければ分からない」
「うん。そうだね」
彼は優しい。その底抜けの優しさと誠実さで、マティアスを守り続けてくれている。
「本人が語りたがらないなら、無理に聞き出すのも良くないと思うんだ。だから、ボクからは会いに行く気はないよ」
「そうか」
オディロンは満たされたように微笑んだ。
恋人の笑顔以上に大切なものなどない。マティアスは同じだけの笑顔を返して、箱の中身の整理を再開する。オディロンも棚に向き直った。
マティアスは、直して戻すの箱に入れていた赤色以外の靴をすべて、寄付の箱にごっそりと移し替えた。
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