桜吹雪
天気晴朗(天気はるろう)
第1話
桜 吹 雪
大阪からの高速バスは鳥取・大阪間を約3時間半で結ぶ。難波のバスターミナルを出たバスは阪神高速道路から中国自動車道の佐用インターを経て、国道373号線、53号線を走り、鳥取市街へ向かう。
岡山県と鳥取県の県境である志戸坂峠より鳥取市街までのルートは、「智頭街道」あるいは「智頭往来」と呼ばれ、奈良時代以前から因幡と畿内を結ぶ街道で、宿場町が点在する。
江戸時代には山陰地方の諸藩が参勤交代のためにこの街道を使ったという。
鳥取からの街道としては、もうひとつ「若桜街道」もあるのだが、これは氷の山の麓から戸倉峠までの道程が険しく、敬遠されることが多かったらしい。この道は現在、国道29号線で、やはりヘアピンカーブが連続し、冬期には凍結のため通行止めになることもあると聞く。
鳥取へ向かうバスの乗客は、私の他にバスの中ほどの席に女性が一人だけで、彼女はバスに乗り込むなり文庫本を取り出して読書に没頭し、まるでそうすることでそこに結界を張るかのような雰囲気を作り出していた。もしそこに本当に結界が張られたのであれば、彼女側が清浄な領域であり、私は俗な領域に属するのだろうか。
たった二人の乗客なのに、これからの車中、何時間も気詰まりな状態で過ごすのは残念なことだ。特にその女性が知的な魅力に溢れるチャーミングな、若い女性であれば。
こんなことを考える私は、確かに俗世界の住人か。
私は運転席の反対側、前から2列目のいつでもバスのドライバーと話ができる距離の席に着いた。ドライバーが寡黙なプロフェッショナルでなければ、いずれ声をかけてくれるだろう。 退屈しのぎに世間話もできるというものだ。
案の定、バスが阪神高速道路のスムーズな流れに乗ると、「鳥取へはお仕事で?」とドライバーは気さくな笑顔を一瞬こちらへ向けた。
私は、「大学生の息子があっちで下宿していて、旅行がてら様子を見に行こうと思って」などと後方の女性にも聞こえるくらいの声で返事した。
朝一番に鳥取から大阪へ運行し、僅かな休憩をとって再び鳥取へ帰るというドライバーは、今回のように乗客が二人しかいないことは、年に1回あるかないかであることや、もう松葉ガニのシーズンが終わってしまったこと、鳥取にはいい温泉があることなどを話してくれた。
お酒の話になった時には、大抵の居酒屋で置いている「白狼」という日本酒があって、これが辛口で口当たりもよく旨いと教えてくれた。今晩は、息子と一緒に新鮮な日本海の幸で一杯やろうという気持ちになって来た。
そんなことを伝えたら、「それなら、のどぐろの煮付けを食べてみなさい」と言う。
何でも、のどぐろと言うのは近海の地魚で、喉の奥が黒いところから、そんな名前で呼ばれるようになったのだが、これがまた旨いらしい。
楽しみがまたひとつ増えた。
中国自動車道の佐用インターを降りたところで、ドライバーが後方の女性に「お嬢さん、トイレは大丈夫かね」と大きな声で聞いた。
結界に佇む女性は、すぐには自分への問いかけとは気づかずに、振り向く私と視線をあわす。
「トイレは大丈夫かね?」と繰り返すドライバーの言葉に、女性は少し慌てたように「はっ、はい!」と少し大きすぎる声で返事をする。
乗車してから誰とも会話を交わすことのなかった彼女は、唐突な問いかけに自分の声の大きさをコントロールできなかったようだ。
自分でもそのことに気づいた彼女は、恥ずかしそうに頬を染める。
「いつもはこの先の道の駅でトイレ休憩をするんだけど、あと30分くらい我慢できたら、智頭の桜並木のところで休憩できるでね」
「大丈夫かね」と再確認する。
「大丈夫です」と今度はしっかりと適度な声の大きさで返事ができた。
「今朝も通って来たんだが、桜が満開で見頃だでね」
ドライバーは前方を見ているので、私が振り返り彼女の意思確認を代行する。
女性は、にっこりと私に笑顔を送る。
「それでは、そこでお願いします」と私がドライバーに返事する。
志戸坂トンネルの途中が県境になり、トンネルを出ると日本海へ向けて杉木立の中をバスは下る。
山陰である。山陰の春は遅い。
京阪神の桜の名所では、すでに葉桜になっている。ここでは、今が満開だと言う。
県境を源にした清流は、いくつもの流れが合流し、千代川となり日本海へ注ぐ。
その千代川に沿って、国道373号線も鳥取市街へ向かい国道53号線と合流する。
そのあたりが宿場町として栄えた智頭である。
「ここで降りて下さい。この土手の桜が途切れたところで待っているから」
うとうとと微睡みかけたとたんに、バスのドライバーの言葉に起こされた。
静謐な川の流れに、振り返れば杉木立の山々。
山間部を抜けたところから堤防沿いに桜並木が続いている。
その向うは日本海か。
それこそ、バスから放り出された態の私と彼女がバスに置き去りにされる。
「歩きましょう」
ぼんやりしている私に彼女が言う。
何やら彼女はきっぱりと自分の行動を決めているようだ。
私は彼女の後ろを慌てて追う恰好になる。
どこまでも続く桜並木。
「ここを桜土手と言うらしいですよ」立ち止まった彼女が私を振り返り言う。
「土手」などと言う言葉を私は久しぶりに聞いた。
「そうか、桜土手か」独り言を飲み込む。
圧倒的な質量さえ感じさせる桜の花が私たちを見下ろす。
それこそ満開の桜だ。
ふと見ると、腰の曲がった老婆がゆっくりと前方を乳母車を押しながら歩いている。
腰が曲がっているので、私たちの半分以下の背丈だ。
追いついた我々に老婆は、「桜吹雪はいらんかね」と竹筒を差し出す。
竹筒には小銭を入れる切込みがあり、「桜吹雪100円也」という紙が貼り付けてある。
少女のような笑顔で「桜吹雪はいらんかね」と私たちに声をかける老婆。
「おばあちゃんは、桜吹雪を売ってるのかい?」
そんな言葉をかけるのだが、老婆はしわくちゃな顔でニコニコと笑っているだけ。
その可愛らしい笑顔に負けて、つい私は竹筒に財布から出した100円玉を入れてしまった。
これが1000円なら私も躊躇するだろうが、ちゃっかりしたおばあちゃんの小遣い稼ぎを助ける気持ちで投入した。
「ありがと」と、しわくちゃな顔をさらにしわくちゃにして、おばあちゃんが礼を言う。
「いったい何をしてるの?」と言う表情で、一緒にバスを降りた女性が呆れ顔で私を見る。
私は肩を竦めることを返事代わりにして、先に歩き出す。
すぐに彼女も私を追うようについて来たのだが、数メートル歩を進めて後ろを振り返り、「お婆さんがいなくなった」と言う。
彼女の視線を辿ると、先ほどまでそこにいたお婆さんは忽然と消えている。
桜の樹の陰にでも隠れてしまっているのだろうか、姿が見えない。
まさか、土手から転び落ちたのではないかと心配になり、土手の下を覗いて見ても姿がない。
突然の風を感じ、私たちは顔を上げる。
視界は忽ちのうちに淡い色彩に塞がれる。
風の流れと、桜色が私たちを包み込む。
そう、今確かに桜吹雪が二人を通り過ぎた。
一瞬脅えたような眼差しを向けた彼女が、私に縋りつく。
彼女もしっかりと桜吹雪を感じたようだ。
そんな感覚を打ち消すように、ほんのりと暖かい春の日差しが身体に染み込んでくる。
錯覚なのか。桜吹雪も、老婆の姿も。
慌てて私の腕を突き放した彼女が、何やらとても嬉しいことに出会ったような、そんな弾けるような笑顔を私にくれる。
私に笑顔をくれたのだと思った。
しかし彼女の視線は、私をわずかに外れ、桜土手に佇む小さなお地蔵さんに向けられていた。
それは、桜吹雪を私たちにくれたおばあちゃんの表情にも似た、小さく可愛いお地蔵さんだった。
「ありがとう」そう彼女が呟いたように思った。
もちろん、私にではなくお地蔵さんにね。
桜吹雪 天気晴朗(天気はるろう) @tenkiharurou
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